田沼意次はどんな人?その最後とは?

江戸幕府の改革者として知られる田沼意次。しかし彼に対する評価は様々です。賄賂政治家という悪名高いイメージの一方で、経済政策に優れた改革者という評価も。一体どちらが本当の姿なのでしょうか?

この記事では田沼意次の生涯をたどり彼の政策や人脈作り、そして失脚に至るまでを解説。彼の功績と失敗、そしてなぜ彼は人々からこれほどまでに評価が分かれるのかを紹介します。

この記事でわかること
  • 田沼が行った経済政策とその評価
  • 田沼の人脈作りと権力掌握の戦略
  • 田沼の失脚とその原因
  • 田沼に対する様々な評価とその背景

 

田沼意次の生涯

意外とイケメンだった?田沼意次の肖像画

田沼意次の肖像画はこちら。

田沼意次

田沼意次

意外とイケメンですね。

どんな人?

名前:田沼 意次(たぬま おきつぐ)
生年:享保4年7月27日(1719年9月11日)
没年:天明8年7月24日(1788年8月25日)
 

家族

父・田沼意行
母・田代高近の養女・辰

正室:伊丹直賢の娘
継室:黒沢定紀の娘大橋親英の娘

子:意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、土方雄貞、九鬼隆棋、千賀(西尾忠移室)
宝池院(井伊直朗室)
養女:新見正則の娘(大岡忠喜室→土方雄年室)

田沼意次の生い立ち

田沼意次は1719年(享保4年)に江戸で生まれました。

彼の父親は紀州藩から幕臣になった人物で、徳川吉宗の側近として活躍していました。意次も幼い頃から才能を発揮し9代将軍・徳川家重に仕えることになりました。

意次が生まれた時、父親は息子を授かるために神様にお願いしていたそうです。その神様は「七面大明神」と呼ばれるもので、意次はこの神様に感謝の気持ちを表し、自分の家の家紋を「七曜星」という星の形に変えたと言われています。

 

田沼意次の出世

田沼意次は、若くして才能を発揮し、幕府でどんどん出世していきました。特に、9代将軍・徳川家重の時代には、その能力を高く評価され、次々と役職に就いていきます。

相良藩主への道

  • 元文2年(1737年): まだ20歳にも満たない意次は従五位下・主殿頭に任命され幕府での役職が始まりました。
  • 宝暦8年(1758年): 郡上一揆の裁判を任され1万石の大名に。田沼意次の幕政への参加が始まります。この事件処理の手際の良さが注目され意次の評価は更に高まりました。
  • 明和4年(1767年): 側用人に就任、さらに5000石の加増。
  • 明和6年(1769年): 老中格となり幕政の中枢へと進出します。
  • 安永元年(1772年): 相良藩の領地が大幅に拡大され5万7000石の大名となります。同時に老中を兼任し幕府のトップレベルの役職に就きます。

出世と権力掌握の秘密

意次はわずか600石の旗本からわずか20年ほどの間に5万7000石の大名へと昇進しました。その秘密は何だったのでしょうか?

  • 能力: 意次は政治家としても非常に優秀でした。特に儒教的な価値観にとらわれない自由な発想ができ幕府の財政問題解決に大きく貢献しました。
  • 人心掌握力:人の心を掴む術に長け、目上はもちろん目下への気配りもできました。
  • チャンスを掴む力: 郡上一揆の裁判などチャンスを逃さず自分の能力を発揮することができました。
  • 家重の信頼: 9代将軍・徳川家重から絶大な信頼を得ていたことが大きな要因です。家重は意次の能力を高く評価して彼を重用しました。

徳川家重から絶大な信頼を得た田沼意次は史上初の側用人老中を兼務。幕臣でありながらかつてない権力を手にしました。

側用人制度では老中は直接将軍に会って意見することはできません。意見を伝えるのは側用人です。でも老中が側用人を兼務すれば自分の意見を直接将軍に言うことができ。将軍の命令も自分が他の幕臣に伝えることができます。

将軍の全面的な信用を得て側用人と老中を兼務したことが田沼意次の権力の源です。

相良藩の領地

意次の領地は相良藩だけでなく、駿河、下総、相模、三河、和泉、河内の7か国に広がっていました。これは、意次が幕府の要職を歴任しその勢力範囲が拡大したからです。

 

田沼意次たちが行った改革

財政が悪化していた幕府

幕府は5代 家綱のころから贅沢になり出費が増加。8代吉宗は財政再建に取り組みましたが、9代家重のころには重税に反発する百姓一揆が多発。従来からの質素倹約・新田開発・増税による財政再建が頭打ちになっていました。

そこで幕府は他の手段での財政再建に取り組むことになります。民間資本を活用して経済を活性化、税収をアップさせるようとしました。

経済政策

支出の削減

従来化の倹約を進める一方で、大奥・朝廷・災害支援への支出を削減。幕府の事業を大名に転嫁したり、民間に請け負わせました。

株仲間の公認と運上金、冥加金の徴収

商工業者の組合を作らせその株を保っていなければ商売ができません。株仲間は営業を認められる代わりに幕府に税(運上)を治めます。その仕組は享保時代に作られましたが。田沼意次はこの制度を積極的に広め。業種を増やし、都市部だけでなく農村部にまで範囲を拡大。税収アップを目指しました。

御用金令

幕府や大名は町人や農民から有利子で強制的にお金を借りていました。御用金といいます。しかし武家が金を返済しないことも多く領民にとっては不満が溜まっていました。

この時代、幕府も直轄地(天領)から御用金を徴収しようとしました。

しかし大名の返済が滞っているため資金を貸す商人も少なく御用金令は中断に追い込まれます。

貸金会所

資金繰りに困っている大名を救済するため。幕府は「貸金会所」を設立。寺社や町人・農民に強制的に金を支出させ、幕府が5年後に利子をつけて返す制度を作りました。今で言う政府系金融機関です。

しかしうまくいきません。その理由は。

  • 大名救済の制度のため民衆側に必要性を感じないこと。
  • 返済の滞り、踏み倒しが当たり前の武士への貸付に抵抗がある。
  • 飢饉で苦しいのにさらに金銭の支出を強制される。
  • 大名も資金繰りを幕府に知られたくない。

などの点で不満が噴出。わずか2ヶ月で中止に追い込まれました。

繰綿延売買会所の設立と廃止

綿の先物取引を堺・大坂・平野に設置。ところが過剰な利益追求で産地の業者に悪影響が出たため廃止されました。

五匁銀・南鐐二朱銀の鋳造

銀の割合を減らした五匁銀・南鐐二朱銀の新貨幣を鋳造。その差額により利益を得ました。

しかし銀不足に陥り物価が高騰してしまいます。

後の寛政の改革では一旦改鋳を停止するとともに西国でもこの貨幣を強制的に使わせ全国の貨幣が統一されました。田沼が意図したものではなかったかもしれませんが思わぬ副産物といえます。

産業育成

吉宗の時代から産出量の減っていた銀の流出を抑え、薬や白砂糖など輸入に頼っていた産物の国産化が進められていましたが。田沼はそれを踏襲さらに拡大しました。

貿易品目の調整

海外貿易では俵物と呼ばれる海産物(干アワビ、イリコ、フカヒレ)を輸出品目に加えました。

田沼意次は積極的な貿易を行い輸出を拡大させたと言われることがありますが。貿易額自体は変化はなく、田沼時代に特に海外貿易が盛んになったわけではありません。

新規事業

印旛沼の開拓

代官と商人は下総国の印旛沼を埋め立て広大な土地を確保する計画を提案。案そのものは享保時代からありましたが、資金難のため実行されませんでした。

今回、民間資本を利用して幕府の支出は抑えることで幕府は許可。

しかし工事が進められたものの洪水で破壊され失敗してしまいます。

飢饉の最中に行われ、最終的に失敗したということもあり評判はよくありません。

蝦夷地開拓

蘭学者・工藤平助の意見を田沼が採用。蝦夷地を開拓してロシアと貿易する計画でした。しかし調査団が向かった後に田沼が失脚。計画は中断されました。

こちらも飢饉の最中に実施され、計画自体もズサンであったため評判はよくありません。

田沼意次の巧みな人脈作りと権力維持戦略

田沼意次は権力を握るために、巧妙な人脈作りを行いました。まるで蜘蛛の巣を張るように様々な人々との関係を築き自分の勢力を拡大させていったのです。

大奥へのアプローチ

  • 贈り物攻勢: 大奥の女性たちに贈り物を贈るなどして彼女たちの心を掴みました。特に将軍の生母であるお知保の方との関係は大奥全体を味方に付ける上で大きな力となりました。
  • 血縁関係の利用: 奥医師の千賀道有との縁戚関係を利用し大奥とのつながりを深めました。

親族の活用

  • 要職への登用: 自分の息子や娘を幕府の重要な役職に就かせました。長男の意知は若年寄という重要な役職に就くなど異例のスピードで出世しました。
  • 姻戚関係の構築: 親族を他の大名家や幕府の役人の家に嫁がせて広範囲にわたる人脈を築きました。
  • 老中の掌握: 最終的に老中など多くの重役が田沼家の親族で占められるようになりました。

次世代への布石

  • 一橋家との関係強化: 将来、将軍になる可能性の高い一橋家に積極的に近づきました。田沼家の女性が一橋家の家老の娘になったり、田沼家の男性が一橋家の家老になったりするなど両家の関係は非常に深まりました。
  • 将軍の養子選びへの影響: 田沼家は一橋家との関係を利用して将軍の養子選びに影響力を行使できたと考えられています。
  • 次世代の将軍:その結果、次の将軍は一橋家の豊千代(11代 家斉)に決定しました。

その結果と反発

次の将軍候補も田沼意次の息のかかったものになり。将来は安泰かに思われました。確かに田沼意次の巧みな人脈作りは彼に絶大な権力を与えましたが、同時に多くの反発も招きました。

  • 他の大名家の反発: 田沼家の勢力が強くなりすぎることを恐れた他の大名家からの反発が強まりました。
  • 幕府内の不満: 田沼家の独裁的な政治に幕府内からも不満の声が上がりました。

田沼意次の失脚

田沼意次は幕府の財政を立て直すため大胆な経済政策を推進しました。しかしその政策は次第に批判を集めます。

田沼政治の課題

  • 幕府中心主義: 田沼の政策は幕府の利益を優先。諸大名や庶民の生活を顧みないものだったため、多くの反発を招きました。
  • 腐敗の蔓延: 賄賂が横行し幕府役人たちの間で不正が蔓延しました。
  • 農村の荒廃: 町が発展する一方で、稼ぎの少ない農民が都市になだれ込み農村が荒廃しました。
  • 町人との癒着: 町人との癒着が進み幕府の政策が商人の私腹を肥やすための道具に利用されることもありました。

田沼意次への逆風

  • 天明の大飢饉: 大飢饉が発生し田沼の政策が原因であるかのように批判されました。
  • 反田沼派の台頭: 松平定信ら反田沼派が勢いを増し、田沼政治の弊害を訴え続けました。

息子・意知の死

田沼意次の息子・意知は父のおかげもあって若年寄という老中に継ぐ地位に付きました。さらに幕臣や大名から妬みを受けることになります。

天明4年4月2日(1784年5月20日)。田沼意知は殿中で佐野政言に刺されて死亡しました。

意知の死が父に与えた影響

  • 田沼政治への批判の高まり: 意知の暗殺は江戸市民の間で田沼政治に対する批判を激化させました。佐野政言が英雄視され田沼家は悪役として描かれるようになったのです。
  • 幕閣内の対立激化: 幕閣内では松平定信ら反田沼派が勢いを増し田沼派との対立が深まりました。

最大の後ろ盾・将軍家治の死亡

天明6年(1786年)。将軍徳川家治が死去。

徳川家斉が11代将軍に就任。

最大の後ろ盾を失った田沼意次は8月27日に老中を解任されました。家斉は田沼意次のおかげで将軍になれたようなものですが。家斉は家治時代の影響を排除しようと御三家とともに田沼意次の排除に乗り出しました。

田沼意次と一族には次々に処分が言い渡されます。

  • 減封と財産没収: 相良藩の領地の2万石を没収され、大坂の蔵屋敷や江戸屋敷も取り上げられました。
  • 蟄居: 自宅に閉じ込められ、自由を奪われました。

田沼意次と関係のあった幕臣たちも手のひらを返して関係を断ちました。利益だけで繋がった縁は脆いものです。

失脚の背景

  • 独裁的:側用人と老中を兼任したため大きな権限を持ち、独裁的なイメージを持たれました。
  • 短期的視点: 田沼の政策は短期的な利益を追求するあまり、長期的な視点が欠けていました。
  • 場当たり的な政策: 状況に応じて政策が変更されることが多く、安定した政治運営ができませんでした。
  • 民衆の不満: 農民や町人からの不満が蓄積し最終的に爆発しました。

田沼意次の最後

田沼意次解任後も世間の混乱は収まらず。米価高騰と幕府の無策により天明の打ちこわしが起こりました。この騒動も田沼意次政権のもとで官民が癒着、民を救済せず幕府の利益追求に走った末に起きた人災といえます。

その後。徳川家斉と御三家により松平定信が老中に就任。

田沼意次にとって政敵の松平定信が老中になったのは大きな痛手でした。

松平定信は田沼意次を激しく批判。

老中在任中の不正を理由に2万7千石の没収。隠居・蟄居が命じられました。さらに一族への処分は続きます。

  • 相良城の破却: 思い入れのあった相良城が壊され、城内の財産も没収されました。
  • 子孫の没落: 長男の意知は既に亡くなり、他の子供たちも養子に出されていたため、孫の龍助がわずか1万石で家督を継ぐことになりました。

田沼意次は下屋敷に移りました。

その間も松平定信は田沼派を解任。田沼意次への批判を続けます。

天明8年7月24日(1788年8月25日)。田沼意次は失意のうちに江戸下屋敷で死去。享年70。

田沼意次の評判:悪評と功罪

田沼時代の悪評は本当?

田沼意次といえば「賄賂政治」の代名詞として知られていますが、近年では経済政策に力を入れた優れた政治家という見方も広まっています。賄賂政治というイメージは政敵の松平定信によるネガティブキャンペーンの産物だとする意見もあります。果たして実際はどうだったのでしょうか?

田沼意次の功績

田沼は以下の様な功績を残しています。

  • 経済政策: 従来の農業中心の経済から、商業を中心とした経済へと転換しようとした試みは後の日本の経済発展に繋がったとされます。
  • 人材登用: 身分にとらわれず能力のある人材を登用しました。
  • 文化の発展: 規制をしなかったので都市部を中心に文化が大きく発展しました。

田沼意次には経済センスはない

田沼意次は税収を増やすため民間からアイデアを募集し幕府の利益になりそうな提案には許可を出しました。その結果、一部の商人が得をする一方で一般住民に不利益が生じることも多く住民の反発で計画が中止されるケースもありました。

田沼自身は経済的なセンスが乏しく、幕府の役人も経済政策に不慣れでした。利益が出ると聞けば飛びつき失敗を繰り返した結果、住民からは「商人と幕府だけが得をして、私たちは損をしている」と不満が高まり田沼の悪評に繋がりました。

田沼意次は先見性があるとか経済センスがあると言われることもりますが。実際には田沼意次には経済センスはありません。

彼の持ち味は偏見にとらわれずに人の意見を聞いていいと思ったら実行できるところです。


当時から評判が悪かった理由

田沼意次の政策は当時の社会でも評判が良くありませんでした。

主な理由は以下の通りです:

  1. 税の取り立てが過剰
    それまで課税対象外だった業種や遊女屋にも税を課し、反発を招きました。
  2. 幕府中心主義
    田沼の政策は幕府の利益を優先。庶民の生活を顧みないものだったため多くの反発を招きました。
  3. 腐敗の蔓延
    賄賂が横行し幕府役人たちの間で不正が蔓延しました。
  4. 農村の荒廃
    町が発展する一方で、稼ぎの少ない農民が都市になだれ込み農村が荒廃しました。
  5. 商人との癒着
    町人との癒着が進み幕府の政策が商人の私腹を肥やすための道具に利用されることもありました。
  6. 権力の集中
    側用人と老中を兼任したことで独裁的なイメージが定着しました。
  7. 身分制度の崩壊への懸念
    身分に関係なく優秀な人材を採用したことが保守層から反発を受け、身分制度を揺るがすとして批判されました。


汚職時代の現実

賄賂や汚職は田沼個人の問題というよりも時代そのものの風潮でした。田沼時代には経済活性化を重視するあまり官民の癒着が進み賄賂が横行するようになります。

田沼自身も賄賂のやり取りをしており清廉潔白とはいえませんが、当時の役人としてはそれが一般的でした。

また、配下の汚職を取り締まらなかったことも問題でした。


まとめ:田沼意次の光と影

「悪政」の烙印を押された理由

田沼意次の政策は当時の常識や慣習に反するものが多く「幕府や一部の商人だけが得をして、他は損をする」という印象を与えました。米価対策が不十分なまま天明の大飢饉を迎えたことも「田沼の悪政」と批判され失脚の要因となりました。

結果として田沼意次は汚職だけでなく公平感を欠いた政策や住民の不満が重なり、悪評を受ける存在となったのです。

それを田沼意次は清廉潔白で人格者なのに松平定信のネガティブキャンペーンで悪人にされたというのは、陰謀論的な見方といえます。

正と負の両方の影響があった

徳川家治の時代は商業が発展、商人が大きな力を持つ時代でした。田沼意次はそこに目をつけ幕府も年貢収入以外にも商業からもできるだけ収入を得る方針に転換。幕府の政策にも民間資本の活用を進めました。人の管理が甘かった一方で民間への規制も少なく、町民は自由を楽しむことができました。

残念なのは田沼意次本人には経済センスが無く、人の管理能力が低かったことです。

利益を目論む山師が田沼意次やその周辺に群がり、利益を優先するあまり官民の癒着や汚職が増大。役人の不正は野放し。過剰な利益追求で不利益を被る人が出たり、恩恵に預かれない人々の不公平感が増大した。という弊害もあります。

正と負の両方の側面があったというのが実情でしょう。

 

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