平賀源内は江戸時代を代表する多才な人物でした。様々な分野で活躍したため、いくつもの名前や号を持っていました。
発明家、本草学者、作家、そして広告の天才としても知られ、その生涯は数々の伝説と謎に包まれています。
長崎での留学や、鉱山開発、そして物産博覧会の開催など、源内は常に新しいことに挑戦し、時代の最先端を走っていました。しかし晩年は悲劇的な最期を迎え、その死には多くの謎が残されています。
この記事では、そんな平賀源内の生涯を彼の生い立ちから晩年、そして様々な逸話まで、詳しく紐解いていきます。
平賀源内の生涯
どんな人?
本名:国倫(くにとも)
源内は通称。
生年:享保13年(1728年)
没年:安永8年12月18日(1780年1月24日)
家族
母・山下氏
妻:なし
名前
平賀源内は、私たちがよく知る「源内」という名前で呼ばれていますが、これは通称です。本名は「国倫(くにとも)」といい、字(あざな)は「士彝」または「子彝」と記されています。また、高松藩に再登用された際には、藩主の姓を避けるため「元内」と名乗った時期もありました。
源内は、その多才な才能を発揮するため、様々な場面で異なる名前や号(ペンネーム)を使い分けていました。
- 鳩渓(きゅうけい):最もよく知られている雅号の一つです。出身地の志度(しど)にあった「ハトダニ」という地名に由来すると言われています。
- 風来山人(ふうらいさんじん)、天竺浪人(てんじくろうにん):戯作を執筆する際に用いた筆名です。
- 福内鬼外(ふくうちきがい):浄瑠璃作品を発表する際に使用した名義です。
- 李山(りざん):俳句を詠む際の号です。
源内は一つの名前ではなく複数の名前や号を使い分けて、それぞれの活動に合わせた顔を持っていたのです。
貧家銭内(ひんかぜにない)について
源内は、自身の著作の中で、貧しいながらも才気あふれる人物「貧家銭内」というキャラクターを登場させています。このキャラクターは、ある意味、源内自身の分身と言えるかもしれません。源内自身も、様々な困難や挫折を経験しながらも、その才能を活かして様々な分野で活躍した人物でした。
平賀源内の生い立ちと若き日の活躍
香川県で生まれた平賀源内
平賀源内は、現在の香川県さぬき市志度で生まれました。彼の家は、高松藩に仕える武士の家系で、源内自身は信濃源氏の一族である平賀氏の末裔を称していました。幼い頃から絵画や俳句など、様々なことに興味を示し、特に13歳からは藩医のもとで本草学(植物や動物に関する学問)を学ぶなど、学問に励みました。
長崎での学びと才能開花
その後、長崎へ遊学し西洋の学問や文化に触れる機会を得ます。そこでオランダ語や医学、そして西洋絵画を学び、それまでの日本の学問とは全く異なる世界に開眼しました。長崎での経験は後の源内の多才な活躍の礎となりました。
藩の役人を辞め、自由な道を進む
長崎から戻った源内は藩の役人を辞め。妹に婿養子を取らせて家督を譲ると、自由な研究者としての道を歩み始めます。
大坂や京都で学びを深め、その後は江戸へと向かい本草学の大家である田村元雄のもとで研鑽を積みました。さらに漢学を学ぶために林家にも入門、学問への探究心を燃やしました。
2度目の長崎への旅では鉱山に関する知識を深め、帰国後は伊豆で鉱山を発見。実業家としての才能も開花させます。また物産博覧会を開催するなど、新しいビジネスモデルを提案し幕府の老中である田沼意次にも注目される存在となりました。
しかし、源内は自由な研究者であり続けることを選び藩の役人に再登用されるも、すぐに辞職してしまいます。結果的に他の藩や幕府に仕えることができない「奉公構」という身分になってしまいます。
平賀源内の多岐にわたる活躍:学問、産業、そして文化
平賀源内は、宝暦12年には江戸で「東都薬品会」という大規模な展示会を開き、その名声はますます高まりました。杉田玄白や中川淳庵といった当時の知識人とも交流し、学問的な探究を深めていきます。
翌年には、西洋の博物学に関する知識を集めた『物類品隲』を出版。しかし、オランダ語が読めなかったため、通訳の助けを借りながら研究を進めました。
明和の時代に入ると、源内は学問だけでなく産業にも積極的に関わっていきます。武蔵川越藩の依頼を受け、秩父で鉱山開発を行い、石綿を発見するなど、実業家としての才能も発揮しました。また、炭焼きや運河工事の指導も行い、地域の産業発展に貢献しました。
出羽秋田藩にも招かれ鉱山開発や西洋画の指導を行うなど、その活動範囲は全国へと広がっていきました。
平賀源内の晩年と悲劇的な最期
平賀源内は、晩年まで衰えることなく、様々な分野で活躍を続けていました。安永5年には、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理し、復元させるなど、科学への探究心も衰えていませんでした。
しかし、安永8年、悲劇は突然訪れます。大名屋敷の修理を請け負った際、酔った勢いで修理計画書を盗まれたと勘違いし、大工の棟梁2人を殺害してしまうという事件を起こしてしまいます。この事件により、源内は投獄され、わずか1ヶ月後に破傷風で獄中死を遂げました。享年52歳でした。
平賀源内は、獄中での病により亡くなりましたが、その遺体は狂歌師の平秩東作によって引き取られたと言われています。友人であった杉田玄白らによって葬儀が行われたものの、幕府の許可が下りず、正式な墓も建てられずに生涯を閉じました。
しかし、源内の晩年については、いくつかの説が存在します。
- 獄中死説: 上記のように、獄中で病死したという説が最も有力です。
- 逃亡説: 罪を逃れて故郷の高松藩か、あるいは幕府の庇護のもとで隠れて暮らしたという説もあります。
- 偽装死亡説: 実際には生きており、書類上のみ死亡扱いになったという説も存在します。
これらの説はいずれも確証がなく、真相は闇の中です。
大正時代になって、源内の功績を称え、従五位という位が贈られました。
平賀源内とうなぎ、広告の先駆者
土用の丑の日に鰻を食べる習慣
土用の丑の日に鰻を食べる習慣は平賀源内が始めたという説が広く知られています。しかし、この説を裏付ける証拠は残念ながら発見されていません。
では、なぜ平賀源内が土用の丑の日に鰻を食べる習慣を作ったという説が生まれたのでしょうか?
- 平賀源内は様々なことに興味を持っていたため、何でも彼が始めたように思われてしまうことがあります。
- 源内は広告の天才として知られているため、このような風習も彼が作ったのではないかという想像が広がったと考えられます。
実際の源内の実績
元内の実績には次のようなものがあります。
- 歯磨き粉のCMソングを作った! 「漱石膏」という歯磨き粉の広告歌を作詞作曲、商品の知名度を上げました。
- 和菓子のキャッチーなコピーを書いた! 「清水餅」という和菓子の広告コピーも手がけていて、商品の魅力を効果的に伝えていました。
まとめ
平賀源内は江戸時代の発明家として知られますが、本草学者、戯作者、そして広告の天才としての顔も持ち合わせていました。様々な名前や号を使い分け、広い分野で活躍しました。 長崎で西洋の学問に触れ、帰国後は自由な研究者として鉱山開発や物産展の開催など、実業家としても様々な活動をしています。しかし晩年はトラブルに巻き込まれ獄中にて生涯を閉じました。
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