お知保の方(蓮光院)徳川家治の側室の史実

蓮光院(知保の方)は、江戸幕府10代将軍・徳川家治の側室。

次期将軍として期待された徳川家基の生母です。旗本の娘として生まれ、幼くして大奥に入り家治の寵愛を受けました。

しかし息子・家基の早世や夫・家治の死など、数々の悲劇に見舞われ、晩年は静かな余生をおくりました。

この記事では蓮光院の生涯を生い立ちから大奥での活躍、そして晩年まで詳しく解説します。

 

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蓮光院(知保の方)とはどんな人?

蓮光院(知保の方)は、徳川家治の側室

名前:知保、智保、蔦
生誕: 元文2年11月15日(1737年12月6日)
没年: 寛政3年3月8日(1791年4月10日)

家族

父:津田宇右衛門信成
養父:伊奈忠宥
夫:徳川家治
子供:徳川家基
 

蓮光院(知保の方)のおいたち

蓮光院は8代吉宗の時代・元文2年11月15日に生まれました。

父は旗本の津田信成。
後に関東郡代・伊奈忠宥の養女となりました。

関東郡代(かんとうぐんだい)
関東の幕府直轄領 30万石を管理する代官。伊奈家は関東代官の中でも別格で関東郡代を名乗っていました。

 

大奥で将軍に仕える

蓮光院は1749年(寛延2年)に9代将軍・徳川家重御次として仕え始めました。当初は「お蔦」と呼ばれていましたが、後に「お知保」と改名されます。

御次(おつぎ)
仏間や道具の管理、行事の遊芸役を務めます。旗本の娘がなることが多いです。

お知保は12歳という若さですでに大奥という華やかな世界に足を踏み入れていたのです。

1751年(寛延4年)。御中臈に昇格。

御中臈(おちゅうろう)
将軍や御台所の身の回りの世話をする役職。定員は8名とされ大奥の女中の中でも特に家格や容姿が優れた女性が選ばれていました。将軍の御中臈は側室候補になります。

わずか14歳での御中臈昇格。お知保は容姿も優れ、将軍を惹きつけるものがあったのでしょう。

将軍付きの御中臈は側室の候補なので将軍に気に入られれば側室になる道がひらけます。この頃から、お知保は大奥において重要な存在となり始めていたことがわかります。

知保の方:家治の側室へ

 宝暦11年6月12日(1761年7月13日)。将軍 家重が死亡。
徳川家治が10代将軍になりました

お知保は大奥に移り、徳川家治つきの御中臈になりました。
このときお知保は24歳。家治も24歳(家治の方が6ヶ月年長)。

お知保は徳川家治の目に止まり、家治の側室となりました。知保の方と呼ばれます。

家基の誕生と養子

1762年(宝暦12年)、知保の方は家治との間に長男・家基を産みました。しかし家基はすぐに家治の正室・五十宮倫子の養子となり、倫子の元で育てられることになりました。

これは将軍・家治の方針です。家基は将軍の長男で世継ぎとしての期待がかかっていました。そのため母親の庇護のもとで育つのではなく、より厳格で後継者にふさわしい環境で育てられるべきという当時の慣習に基づいたものでした。

知保方にとっては我が子を奪われたような苦しい経験だったでしょう。

長子出産の功績と地位向上

一方で長男を出産した功績で知保方は「老女上座」という高い格式を与えられます。側室の中でも筆頭格でした。

明和6年(1769年)。息子の家基が将軍世子(お世継ぎ)となり西の丸御殿に移ると、知保の方も西の丸大奥へ移り住みました。将軍世子の母親として息子を身近で支えるためで、当時の慣習としてごく自然な流れでした。

「浜女中」への格付けとその意味

西の丸に移った知保の方は「浜女中同様」という格式が与えられました。

浜女中
浜御殿に住む先代将軍の側室の称号。

知保の方がこの称号を与えられたのは以下の理由が考えられます。

知保の方は家基の生母ですが、家治の正室・五十宮倫子がになっているので。知保の方は世子生母とはあからさまには名乗れません。でも他の側室よりは上の立場をはっきりさせるために浜女中同様の格式が与えられたと考えられます。

「御部屋様」への昇格

明和8年(1771年)。家基の養母であった五十宮倫子が亡くなると、知保の方は「御部屋様」と呼ばれるようになりました。

名実ともに「世子生母」としての地位がはっきりと決まりました。

家基の死

ところが、その喜びも束の間。

安永8年(1779年)。家基はわずか18歳で急逝してしまいます。

知保の方にとっても大変大きなショックを受けたでしょう。

家基の死因と周辺の動き

家基の死因については、様々な説が唱えられています。病気説、毒殺説など様々な憶測が飛び交いましたが真相は未だ不明です。

家基の死は幕府内にも大きな衝撃を与え、後継問題などが複雑化する原因になりました。

蓮光院の晩年

天明6年(1786年)。夫である徳川家治が死亡。知保の方は落飾し「蓮光院」と名乗って仏門に入りました。このとき49歳。

江戸城二の丸への移住と晩年の暮らし

蓮光院は落飾後に江戸城二の丸へと移りました。二の丸はかつて将軍の弟や親族が住んでいた場所で比較的静かで落ち着いた環境でした。

晩年の蓮光院は仏教に深く帰依し穏やかな日々を送ったと考えられます。

しかし夫と息子を失った喪失感は、彼女の人生に深い影を落としていたことでしょう。

没年と追贈

蓮光院は寛政3年(1791年)に55歳で亡くなりました。

文政11年(1828年)。没後37年たって蓮光院は従三位を追贈されました。御台所や将軍の生母以外の女性が叙位されるのは非常に珍しいです。

家基は次期将軍の期待がかかっていた人物ですし、蓮光院が将軍生母に匹敵する人物と認められた。ということでしょう。

まとめ

蓮光院(知保の方)は徳川家治の側室。一時は次期将軍として期待された徳川家基の生母です。幼くして大奥に入り、家治の寵愛を受けました。

しかし息子・家基は養子に出され、若くして亡くすという悲劇に見舞われました。夫・家治の死後は出家し「蓮光院」と名乗り、静かに余生を過ごしました。

没後、将軍生母と同格の従三位を追贈されています。

 

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