やなせたかしの弟 千尋の死因。駆逐艦 呉竹の乗員なのに回天特攻隊説はなぜ生まれた?

やなせたかしの弟・柳瀬千尋の死因

国民的アニメ「アンパンマン」の作者、やなせたかしは戦争で弟の柳瀬千尋を無くしています。

史実は柳瀬千尋(やなせちひろ)は駆逐艦呉竹に乗船、米軍の潜水艦との戦いの中で戦死しました。

朝ドラ「あんぱん」には柳瀬千尋をモデルにした「柳井千尋」が登場。彼がどうなるのかも注目されています。

ところがインターネット上などでは「千尋は特攻隊員として戦死した」という情報があります。なぜそのような事実ではない情報が広まったのでしょうか?

この記事では、やなせたかしの弟 千尋の生涯とその死因を紹介。彼の死を巡る「特攻隊員説」の真相を解き明かして、やなせたかしが本当に伝えたかった平和へのメッセージを探ります。

 

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やなせたかしの心に残る弟の存在

やなせたかしにとって、弟の千尋(ちひろ)はかけがえのない存在でした。勉強もスポーツも兄よりよくできて、背も高い、顔もいい。やなせたかしは思春期にはそんな弟に劣等感を抱いたこともありましたが。それでもかけがいのない弟。二人の兄弟仲はとても良かったそうです。

でも弟の千尋は若くして命を落としてしまいました。そのことはやなせたかしの心に深い傷を残し、その後の創作活動、特に「あんぱんまん」のテーマである「困っている人を助ける正義の心」や「命の尊さ」に大きな影響を与えた、と言われています。

やなせたかしが一番初に作った「アンパンマン」は現在と違い、困っている人にアンパンを配る背の高い丸顔のおじさんでした。このイメージは千尋に似ているといいます。

アンパンを手渡す男の画像

 

そのようなやなせたかしの創作活動やあんぱんまんにも影響を与えたという弟柳瀬千尋とはどのような人だったのでしょうか?

その死因は何だったのでしょうか?

なぜ特攻隊員という情報が広まったのか紹介します。

 

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柳瀬千尋氏の生い立ちと海軍入隊

京都帝国大学卒のエリートだった千尋氏

やなせたかしの弟・柳瀬千尋(やなせ ちひろ)は1923年(大正12年)に生まれました。わずか2歳で父を亡くし、伯父夫婦の養子となりました。

千尋は非常に優秀で旧制高知県立城東中学校、高知県立高知高校を経て京都帝国大学法学部を卒業しています。もし戦争がなければ法律の世界で活躍したことでしょう。

でも彼の学生時代に第二次世界大戦が激化。戦争末期には学生でも多くの人たちが軍務に徴兵されていったのです。

海軍予備学生として入隊、そして厳しい訓練

柳瀬千尋は京都帝国大学法学部在学中に卒業後は兵役に就くことが決まっていました。そこで卒業直前に海軍兵科三期の海軍予備学生になることを決意。卒業後の1943年(昭和18年)9月23日には神奈川県の武山海兵団に入団しました。

当時は日中戦争と太平洋戦争の激化で将校が不足していました。そのため武山海兵団ではわずか4ヶ月という短期間で海軍の初級士官を養成。「詰め込み」式の基礎教育が行われていたのです。

武山での基礎訓練後、1944年(昭和19年)に久里浜(くりはま)の機雷学校(後の海軍対潜学校)に進みました。この学校は対潜水艦作戦、爆雷投射(ばくらいとうしゃ)、水中測的(すいちゅうそくてき)を専門に教えます。ここで対潜水艦作戦について学びました。

 

駆逐艦「呉竹(くれたけ)」での任務と最期の瞬間

千尋の乗船した駆逐艦「呉竹」とは?

柳瀬千尋が乗船した駆逐艦呉竹の写真

駆逐艦 呉竹

駆逐艦 呉竹(出典:wikipedia)

柳瀬千尋は対潜学校での4ヶ月間の専門課程を終えた後、1944年5月に海軍少尉に任官。駆逐艦「呉竹」に配属されました。

駆逐艦 呉竹は大正時代に数多く造られた若竹型駆逐艦の2番艦。呉竹は大正11年建造と旧式ですが。最高速度35.5ノット(時速65.8km/h)と速度が早く、使い勝手がいいので重宝がられていました。

逆に言うとこんな古い船でも使わないといけないのが当時の日本海軍でした。

駆逐艦呉竹の任務

「呉竹」は太平洋戦争末期には石油や鉄鉱石といった重要な資源を運ぶ輸送船団の護衛対潜任務が役目です。特に東南アジア方面の海域で活動していました。

当時の日本の海上輸送路は、米軍潜水艦の攻撃で壊滅的な被害を受けていました。

護衛艦艇の役割は日本が生き残るためにもとても重要だったのです。

 

柳瀬千尋の任務

柳瀬千尋氏は「呉竹」で 水測室の分隊士(分隊長)となりました。水測室はソナーなどの水中聴音装置を操作して敵の潜水艦を探知・追跡する部署です。

駆逐艦が輸送船を守り、敵潜水艦と戦うためにはできるだけ早く敵潜水艦の存在を知って正確な居場所を突き止めなければいけません。そのためにも水測室の役目はとても重要です。

水測室の役割はとても危険でした。水測室は艦の底に近い位置にあり、魚雷が命中した場合は真っ先に戦死する可能性が高いとされています。

千尋氏が「呉竹」で担当した対潜水艦戦の役割は特攻隊員のように注目されることはありませんし、その重要性は知られていません。

そのためドラマ「あんぱん」でも千尋の任務は『爆雷で潜水艦を攻撃する係』に変更されていました。

アメリカ軍は日本の輸送船が通りそうな場所には潜水艦を派遣して、輸送船を攻撃しています。

輸送船を狙う潜水艦の画像

 

獲物を待ち構えている潜水艦のいるかもしれない場所に行き、資源を積んでスピードの遅い輸送船を守りながら、敵潜水艦と戦わなければいけません。しかも攻撃を受けたら真っ先に死ぬ可能性の高い部署。

水測室の担当は「特別攻撃」と同じくらい危険な任務だったのです。

 

戦死の経緯:1944年12月30日、バシー海峡の悲劇

柳瀬千尋の最期は1944年(昭和19年)12月30日、バシー海峡で訪れました。

この日、「呉竹」は台湾の高雄からマニラへ向かうタマ38船団の護衛任務にあたっていました。バシー海峡はルソン島と台湾の間に位置する海域で、当時、米軍潜水艦の活動が非常に活発な「魔の海域」、日本艦船の「墓場」として知られていました。

バシー海峡の位置

バシー海峡の位置

夕闇が迫る午後6時頃、船団はバシー海峡を航行中に、米潜水艦「バーブ」(USS Barb)による魚雷攻撃を受けました。

魚雷は「呉竹」の艦橋より少し前方に命中。「呉竹」はわずか数分で沈没するという悲劇に見舞われたのです。

柳瀬千尋 死因については、生存者の証言から想像できます。その生存者の表現によれば「呉竹」の艦橋より前の部分は全て吹き飛び、柳瀬千尋少尉がいた水測室のあたりは跡形もなく消滅していたとされています。

柳瀬千尋少尉を含む水測室の乗組員全員の生存は絶望。即死したと結論付けられています。艦長以下140名が戦死、生存者はわずか14名という壊滅的な被害でした。

やなせたかしの弟 千尋の戦死潜水艦との激しい戦いの中で起きたのでした。

柳瀬千尋少尉は戦死、1階級特進。海軍中尉の階級が与えられました。

 

特攻隊説の真相と誤解の経緯

柳瀬千尋氏は特攻隊員だったのでしょうか?

ところが「やなせたかしの弟は特攻隊員だった」「人間魚雷 回天で死亡した」という噂が一部で流ています。

でもお話したように、柳瀬千尋の戦死は駆逐艦「呉竹」がバシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け沈没したことによるものです。自ら敵艦に体当たりする「特攻作戦」に参加した事実はありません。

それは『慟哭の海峡』(光人社)や当時の海軍の記録、そして生存者の証言などでもわかります。

千尋氏が所属していた「呉竹」は護衛任務にあたる艦艇です。特攻作戦を目的とした部隊ではありませんでした。

彼の職務も対潜警戒で、体当たりを命じられた特攻とは全く違う任務だったのですね。

彼の対潜探知任務は「死と隣り合わせの危険な任務」ですが、直接的な自死任務ではなかった、ということですね。

 

なぜ「特攻隊員」と誤解されたのでしょうか?

では、なぜ柳瀬千尋氏が「特攻隊員だった」という誤解が広まったのでしょうか?その理由はいくつか考えられます。

まず、やなせたかし自身が「弟は特攻隊員だったのではないか?」と周囲の人に語っていたことがあります。

やなせたかしは終戦後も弟の正確な死の様子を知らなかったそうです。当時の情報統制や戦時下の混乱。そして何よりも弟さんを失った深い悲しみの中で、弟どのような最期だったのか正確に知ることが困難だったのでしょう。

やなせたかしがそう考えた理由は千尋が生前に兄に対して「自分は海軍の特殊任務に就いている」とだけ明かし、具体的な任務内容を告げなかったことが指摘されています。

でもこの「特殊任務」とは特攻ではなく、機密性の高い対潜水艦戦のことでした。軍事機密により彼が詳しい任務の内容を明かすことはできなかったのです。これは当時の軍人としては無理のないことでしょう。

そして、戦後の混乱と少ない情報の中で「特殊任務」という言葉が、当時広く報道されていた「特殊攻撃(特攻)」と容易に結びつけられたのでしょう。

報道や出版が誤解を広める

さらに様々な報道や書籍も誤解を広めました。生前のやなせたかしから話を聞いた人が、事実確認をせずに「特攻」「人間魚雷」の犠牲者として紹介してしまったのです。

これは事実の正確さよりも、できる限りインパクトのある形で報道したい理不尽な犠牲者というストーリーを優先したい。というメディア側の都合によるものでしょう。

これは現在でもSNSやインターネットなどで間違った情報が拡散されやすいですが。マスメディアも同じように誤解を広めることがある。という教訓でしょう。

 

まとめ:千尋の死を乗り越え、やなせたかしが伝えたかったこと

柳瀬千尋が遺したもの

柳瀬千尋氏の死は特攻によるものではありませんでした。

でも彼が戦争で命を落としたことには代わりはありません。将来を期待される法曹界のエリートとしての道を歩みながら、時代の流れによって海軍に入隊。危険な対潜水艦戦の最前線で職務を全うしました。彼もまた当時の日本を支えた多くの若者たちのひとりだったのです。

千尋氏の存在と彼の死は、兄 やなせたかしに大きな影響を与えました。やなせは自信の体験や弟の死を通して命の尊さ、正義のあり方、そして平和への切なる願いを深く心に刻んだのです。

アンパンマンが自分の顔を困っている人に与える姿は自己犠牲の象徴です。資源がなければ社会は維持できません。そんな社会を救うために犠牲になった弟の姿も、あんぱんまんには投影されているのではないでしょうか。

 

やなせたかしの思いとは?

死因について誤解があったとはいえ、やなせたかしが弟への愛情と二度と戦争を起こしてはならないという平和への願いを込めて「アンパンマン」という国民的アニメを生み出し続けた事実は、揺らぐことはありません。

彼は弟さんの死という個人的な悲劇を乗り越え、すべての子どもたちに「生きる喜び」を伝えようとされたのではないしょうか。

今回は史実の柳瀬千尋について紹介しました。
朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「あんぱん」には柳瀬千尋をモデルにした柳井千尋が登場。彼については柳瀬千尋【あんぱん】柳井千尋 のモデル やなせたかしの弟の生涯と死因で紹介しています。あわせて御覧ください。

 

参考文献・関連書籍の紹介

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