大政所は秀吉・秀長の母で、関白の母として「大政所」と呼ばれた女性。「なか」は通称とされる。家族関係の説、人質事件、晩年と最期、逸話の見方までまとめる。
この記事で分かること
- 「大政所」という称号の意味
- 「なか」が本名と言い切れない理由と、通称が定着した理由
- 再婚・異父兄弟説など、子どもたちをめぐる整理ポイント
- 徳川への人質、薪事件、聚楽第での最期
- 自称兄弟の扱い
なか(大政所)とは?
なか(大政所)は、豊臣秀吉・豊臣秀長の母です。秀吉が関白になった後、母として朝廷から高い待遇を受け大政所(おおまんどころ)と呼ばれました。
プロフィール
- 呼び名:俗名は「仲(なか)」と伝わるが、厳密には不詳とされる
- 法名・院号:春岩(春巌)/天瑞院(てんずいいん)
- 生年:不明
- 没年:
- 立場:豊臣秀吉・秀長らの生母
- 大政所の意味:もともと「摂政・関白の母」を指す尊称

大政所の肖像画
Public domain, Wikimedia Commons
家系図

豊臣秀吉 両親と兄弟姉妹の家系図
「大政所」と呼ばれた理由
「大政所」は摂政・関白の母に対する尊称です。摂政の母は正式には大北政所といいますが、省略して大政所と呼ばれます。
秀吉が関白になり母が朝廷から従一位と「大政所」の称号が与えられました。以後、秀吉の母は「大政所」と呼ばれます。
「なか」は本名なの?
ドラマや書籍では秀吉の母は「なか」とされています。でもこの「なか」は通称で、本名とはいいきれません。
なぜ「なか」は本名といえないのか?
というのも歴史の史料には「なか」という名前が出てこないのです。
秀吉の母について書かれた史料(たとえば『太閤素生記』など)では、
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「秀吉母公」
-
「天瑞院殿(大政所)」
のように記されており、「なか」という名前は見当たりません。
歴史研究の場では「なかという名前は後から広まったもので、一次史料(当時の記録)では確認できない」という見方が一般的です。
なぜ「なか」という名前が広まったの?
根拠のよくわからん「なか」が広まった理由はいくつかあります。
① 江戸時代のベストセラー小説の影響
1797年に刊行された読本『絵本太閤記』という大ヒット作で、秀吉の母の名前が「なか」と書かれていたのがきっかけです。
この本は庶民に大人気で、そのイメージがそのまま定着しました。
② 明治以降の解説書や教科書が広めた
歴史の入門書や観光ガイド、クイズ形式の読み物などで「大政所=なか」と紹介され続けたことで、一般常識のようになっていきました。
③ 研究者も便宜的に「なか」と書く場合がある
近年の研究記事やサイトでも、本当の名前かは不明なものの、「他に呼び方がないので“なか”と表記」という断りを入れつつ使われています。つまり「通称」なのです。
「なかは中村の人」誤読説
秀吉の母についての古い記述の中には「なかは中村の人」という表現があります。
「中村に住んでいた人」という意味だったのが「なか」という部分を人の名前と読み間違えたという説です。
たしかに可能性はありますが、これも一つの説に過ぎません。
大政所の再婚と子どもたち
秀吉と秀長の父は同じだったのか?
「異父兄弟」説が通説
豊臣秀吉と秀長の母・大政所(俗名なか)は、一度は結婚し、その後に再婚したと伝えられています。
この2人の夫の間に、それぞれ子どもが生まれたというのが通説です。
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最初の夫:木下弥右衛門(やえもん)
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長女:とも(智)
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長男:日吉丸(のちの豊臣秀吉)
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再婚相手:筑(竹)阿弥(ちくあみ)
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次男:小一郎(のちの豊臣秀長)
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次女:朝日姫(旭姫)
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この説だと秀吉と秀長は「異父兄弟」となります。
近年は「父が同じ」説も
でも近年では「異父兄弟」とはいえないとする説も出てきています。
というのも
という疑問が出ているのです。
「弥右衛門=竹阿弥」説とは?
昔は一人の人間が複数の呼び名を持つことがよくありました。
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本名(弥右衛門)
-
通称(竹阿弥)
-
立場に由来する別名(屋号のようなもの)
などです。こうした呼び名の違いから、実は同じ人だったのに後世の記録で別人と解釈された可能性もあるというわけです。
この説に従うと:
-
秀吉・秀長・とも・朝日姫は全員同じ父の子
-
弥右衛門と竹阿弥は父の呼び名が違うだけ
ということになります。
大政所が人質として徳川へ
天下人の母となった「なか」ですが、政治に巻き込まれれてしまいます。
きっかけは妹の「政略結婚」
天正14年(1586年)、秀吉は徳川家康に従わせるため、妹の朝日姫を家康の継室として送りました。
これは家康との和睦のための政略結婚です。
しかし家康はなかなか上洛(京都行き)を決断しませんでした。
「母を人質に出す」という最後の手段
そこで秀吉はついに実の母・大政所を徳川側へ送る決断をします。
名目は「朝日姫の様子見のため」でしたが、実際には家康に上洛を促すための人質でした。
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1586年10月18日
大政所は「見舞い」の形で岡崎城へ向かいます。
岡崎城での生活と「薪の逸話」
滞在中の様子は詳しく残っていませんが、有名な以下の逸話があります。
徳川家康が上洛するときに人質として岡崎に来ていた大政所の宿舎の周囲に、本多重次が薪を積み上げ、「もし家康公に異変があれば、即座に火を放て」と部下に命じていた。
出典:『寛政重修諸家譜』
とされます。
『徳川実紀・東照宮御実紀附録』には
本多重次が「京では年寄りの女房も多い。偽物の老婆を“大政所”と言って送ってくる可能性がある」と言って疑うものの。その後、浜松から御台所が来て大政所が抱きついて泣いたのを見て疑いが晴れた
と書かれています。
少なくとも当時の記録には本多重次が大政所の宿所の周囲に薪を積み上げたという記録はありません。
徳川家康の家臣の忠義や本多重次の「鬼作左」とてのキャラを誇張するための創作でしょう。
もし秀吉の母を焼き殺してしまえば徳川家の滅亡に直結する暴挙です。武功派の重次であっても、公然と薪を積み上げるような挑発行為を本当に行ったかどうかは疑問です。
この人質事件の意味
とはいえ、この一件によって家康は上洛を決断。豊臣政権に正式に従うことを受け入れます。
大政所も1ヶ月ほどで大阪城に戻りました。
でもこのとき
-
妹の朝日姫の政略結婚
-
母・大政所の人質
という、女性たちの犠牲と覚悟があったことは確かです。
晩年と最期|聚楽第で死去、天瑞寺へ
聚楽第と病気がちな晩年
天正15年(1587年)、京都に聚楽第(じゅらくてい)が完成すると、秀吉は母・大政所を京に呼び寄せ、自分と同じく聚楽第に住まわせたと伝えられます。
ただ、この頃の大政所はすでに病気がちでした。聚楽第に移ったあとも体調がすぐれず、いったん大坂城へ戻ったとする記述もあるというように、京と大坂を行き来しながら療養していた姿がうかがえます。
家族の死と心労
晩年の大政所をさらに追い詰めたのは、家族の相次ぐ死でした。
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天正18年(1590年) 妹・朝日姫(旭姫)が47歳で死去
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天正19年(1591年) 次男の豊臣秀長が病没
聚楽第の完成からまだ数年しか経っていない時期に、
大政所のまわりから次々と肉親がいなくなっていきます。
さらに、秀吉はこの頃から「唐入り」(朝鮮出兵)を考え始め、九州・名護屋城へ向かいます。
大政所は、危険な渡海をやめるよう秀吉を諫めたと伝えられ、秀吉も母の制止を無視できず自身の渡海は中止したとされています。
つまり晩年の大政所は、病と闘いながら息子の戦争計画を案じ、兄弟や娘の死を続けて見送るという、肉体的にも精神的にも厳しい状況に置かれていました。
聚楽第での最後と享年
天正20年7月22日(グレゴリオ暦で1592年8月29日)、
大政所は聚楽第で亡くなったと記録されています。
年齢については史料ごとに少し違いがあります。
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日本人名大辞典など:永正10年(1513)生まれ → 享年80とする説
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別の系統の解説では、1516年生まれとし、やはり80歳前後とみなすものが多い
いずれにしても、戦国期としては非常に高齢まで生きたことはほぼ共通しています。
このとき秀吉は九州方面におり、母危篤の知らせを聞いて急いで帰京したものの死に目には会えず、悲しみのあまり卒倒したという逸話が残されています。
大徳寺での葬儀と「天瑞寺」への埋葬
大政所の死後、秀吉は京都・大徳寺で盛大な法要を営み、
その後、遺骨は金鳳山天瑞寺(きんぽうざん てんずいじ)に葬られました。

旧天瑞寺寿塔覆堂
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天瑞寺は、1588年(天正16年)に秀吉が母の病気平癒を祈願して創建した寺とされ、亡くなったのちも、「天瑞院春岩宗桂大禅定尼」としてここに祀られます。
後陽成天皇からは、准三后(じゅんさんごう)の待遇が追贈され、大政所は「天下人の母」としてだけでなく、朝廷からも特別な尊崇を受けた女性として、その生涯を終えました。
自称「秀吉の兄弟」を処刑した事件(フロイス『日本史』)
豊臣秀吉の母・大政所をめぐる逸話の中でも、ネット記事などでよく紹介されるのが宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に記された「自称・兄弟事件」です。
フロイスの書いた秀吉の兄弟と自称する男
フロイスの記述『日本史・12章』の該当部分をを要約すると次のようになります。
- 天正15年(1587年)ごろ。伊勢から来た若者が従者を連れて大坂城に現れる。
- 若者は自分は関白(秀吉)の実の兄弟だと名乗る(自称)。
- 周囲には、それを「本当だ」と信じる者も多かった、と書く。
- 秀吉は真偽確認のため、母(大政所)に「その若者を息子として知っているか」と問いただす。
- 大政所は不機嫌そうに「そのような者を生んだ覚えはない」と否定する。
- 若者と従者は捕らえられ、斬首され、首をさらされた。
さらにフロイスは、この事件を受けて
「関白は肉親や血族であっても、不都合なら許さなかった」という趣旨の感想を書いています。
この内容は近年では肉親であっても容赦なく殺害する秀吉の残虐性を誇張する話としてネットで広まっていますが。注意しなければ行けないところがあります。
「弟を殺した」とは誰も言っていない
ここで重要なのは、この男が本当に秀吉の兄弟だったという証拠は何ひとつ存在しないという点です。
フロイス自身も「兄弟かどうかは分からない」とした上で事件の経緯だけを記しています。
一部ネット記事などでは「秀吉が実の弟を母に否定させて殺した」「血族すら冷酷に処刑する暴君だった」といった描写も見られますが、これは現代人の脚色です。
一次史料・専門書でこの男を「実の弟だった」と断定するものはありません。
フロイスの記述には注意が必要
文献重視の学者はとにかくフロイスの記述を重要視しますが。フロイスの記述には注意が必要です。というのも
- フロイスはキリスト教の宣教師であり、価値観が偏っている。
- 秀吉は最終的にキリスト教を弾圧した人物。
当然、フロイスは秀吉に反感をもっています。フロイスはキリスト教に友好的な者を美化、キリスト教に協力的でないものを悪く書く傾向があり。その延長として秀吉が「身内すら処刑した」というニュアンスが加わった可能性があります。
権力者の肉親を語るのは危険
江戸時代にも自称将軍ご落胤事件はありますが、例外なく処分されています。自称肉親を語るものは、秀吉に限らず容赦ない処罰を与えるのがこの時代の傾向です。
これは権力者が冷酷だからではなく。
- 権威を揺るがす
- 敵対勢力に旗印とし担がれる可能性があり、政治的な不安定に繋がる
- 詐称が放置されると世の中が乱れる
という理由で、どの政権でも同じ対応を取りがちです。
確かに晩年の秀吉は秀次への対応をみても冷酷な部分はありますが。この事件については「秀吉は血族すら容赦しない冷酷な支配者だ」と断言するのは適切ではありません。
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