秀吉の姉・智(とも:日秀尼)は秀次事件で息子と孫を失い、一族を弔った母

智(とも)は豊臣秀吉の姉として知られる女性です。夫は三好吉房で、子は秀次、秀勝、秀保でした。

秀吉の出世によって智の三人の息子は豊臣一門の男子として政権の中枢に置かれました。長男の秀次は関白となり、次男の秀勝、三男の秀保も一門の中で大きな役割を担うようになります。

ところが智は三人の息子をすべて自分より先に失いました。文禄4年(1595年)の秀次事件では、長男の秀次だけでなく、秀次の妻妾や子どもたちも処刑されます。智にとっては息子と孫を一度に奪われる出来事だったのでしょう。

事件後、智は出家して瑞龍院日秀尼となりました。日秀尼は、亡くなった息子たちと孫たちの菩提を弔いながら、豊臣一門の記憶を伝えた女性です。

 

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  1. 智(日秀尼)とは
    1. プロフィール
    2. 家族構成
    3. 智という名前と日秀尼という名前
    4. 秀吉の姉で三人の息子の母
  2. 智の出自
    1. 父母や生年には諸説がある
    2. 父・木下弥右衛門
    3. 母・天瑞院、大政所
  3. 三好吉房に嫁ぐ
    1. 夫は三好吉房
    2. 三人の男子を産む
    3. 秀次を産んだ時期から語られる推測
  4. 秀吉の出世と智の一家
    1. 姉一家の立場が変わる
    2. 豊臣一門の男子として扱われる
    3. 秀次が三好姓を名乗る
  5. 三人の息子
    1. 長男・秀次
    2. 近江八幡城主となる
    3. 関白となった秀次
    4. 次男・秀勝
    5. 秀勝の娘・豊臣完子
    6. 三男・秀保
    7. 秀保の急死
  6. 秀次事件で智が失ったもの
    1. 秀次は智の子
    2. 秀次の切腹
    3. 妻妾・子どもたちの処刑
    4. 夫・三好吉房も連座する
    5. 智が事件の中で何をしたか
  7. 出家して日秀尼となる
    1. 文禄5年に仏門へ入る
    2. 法名は日敬から日秀へ
    3. 瑞龍院日秀尼となる
  8. 日秀尼と瑞龍寺
    1. 息子と孫を弔う寺
    2. 後陽成天皇から寺地を賜る
    3. 村雲御所と呼ばれる
    4. 現在は近江八幡にある
  9. 晩年の日秀尼
    1. 秀吉と夫・吉房を見送る
    2. 大坂の陣と豊臣宗家の終わり
    3. 隆清院と御田姫を保護する
    4. 寛永2年に亡くなる
  10. 豊臣滅亡後も続いた智の血筋
    1. 受け継がれた智の血筋
    2. 秀勝の娘・完子
    3. 摂関家へつながる
  11. 日秀尼の逸話・異説
    1. 完子や千世鶴と藤堂高虎に会う
    2. 完子の末娘が瑞龍寺を継ぐ
    3. 大坂夏の陣後に血縁を守る
    4. 大河ドラマや時代劇に登場する日秀尼
  12. まとめ
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智(日秀尼)とは

プロフィール

名前:智(とも)
俗名:とも
出家後の名:日秀尼
正式な僧侶名:瑞龍院妙慧日秀
別名:村雲尼、村雲日秀
院号:瑞龍院
字:妙慧
宗派:日蓮宗

生年:天文年間。天文3年(1534年)説、天文2年(1533年)説、天文元年(1532年)説があります。
没年:寛永2年(1625年)。4月24日説と4月4日説があります。
夫:三好吉房
子:秀次、秀勝、秀保
墓所:瑞龍寺、本圀寺、善正寺

家族構成

父:木下弥右衛門とされる
母:天瑞院(大政所)とされる
弟:豊臣秀吉
異父弟:豊臣秀長とされる
異父妹:朝日姫とされる
夫:三好吉房
長男:豊臣秀次
次男:豊臣秀勝
三男:豊臣秀保
孫:豊臣完子、隆清院、お菊など
曾孫:九条道房、二条康道、御田姫など

智という名前と日秀尼という名前

智は「とも」と読みます。出家前の名が智で、出家後の名が日秀尼です。

日秀尼には、瑞龍院、妙慧、村雲尼、村雲日秀など、いくつかの呼び名があります。瑞龍寺では、瑞龍寺殿妙慧日秀尼と伝わります。

歴史上の女性は、俗名、出家後の名、院号などが重なって出てくるので少しややこしいですね。この記事では、出家前を「智」、出家後を「日秀尼」として見ていきます。

秀吉の姉で三人の息子の母

智は豊臣秀吉の姉で、三好吉房の妻でした。

智と吉房の間に生まれた秀次、秀勝、秀保は、秀吉の出世によって豊臣一門の男子として扱われるようになります。

智の人生は、秀吉の姉という立場だけでは語れません。三人の息子を豊臣政権へ送り出し、その後に三人を失い、さらに秀次事件で多くの孫を失った母の人生でもありました。

 

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智の出自

父母や生年には諸説がある

智の父母や生年には諸説があります。

父は木下弥右衛門、母は天瑞院、つまり大政所とされます。大政所は、秀吉の母として知られる女性です。

智は秀吉の同父姉とされますが、豊臣家の初期の親族関係には異説もあります。

生年も一つに定まりません。天文3年(1534年)生まれとする説があり、天文2年(1533年)説、天文元年(1532年)説もあります。そのため、智の生年は「天文年間の生まれ」と見ておくのがよさそうです。

父・木下弥右衛門

父は木下弥右衛門とされます。秀吉の父として知られる人物です。

智が秀吉の同父姉とされる場合、智も木下弥右衛門の子ということになります。ただし、智の前半生については詳しいことが分かっていません。

母・天瑞院、大政所

母は天瑞院(大政所)とされます。

大政所は、はじめ智と秀吉を産み、その後に再嫁して秀長と朝日姫をもうけたという話があります。

この説に従えば智は秀吉の同父姉で、秀長と朝日姫とは父の違う弟妹にあたります。

 

三好吉房に嫁ぐ

夫は三好吉房

智は、尾張国海東郡乙之村の住人だった弥助に嫁ぎました。

弥助は本姓を三輪氏とし、後に三好吉房と名乗った人物です。名前が変わるため少し分かりにくいですが、智の夫として出てくる弥助と三好吉房は同じ人物です。

三人の男子を産む

智と吉房の間には、三人の男子が生まれました。

永禄11年(1568年)に秀次。
永禄12年(1569年)に秀勝。
天正7年(1579年)に秀保です。

三人は後に豊臣一門の男子として重要な立場に置かれていきます。

秀次を産んだ時期から語られる推測

秀次を産んだとき智は30歳を過ぎていました。

そのため秀次より前に早く亡くなった子がいた可能性や秀吉が出世する前の暮らしでは結婚の時期が遅れた可能性も語られます。

ただし、ここは推測です。智がいつ結婚し秀次以前に子がいたのかは分かっていません。

 

秀吉の出世と智の一家

姉一家の立場が変わる

智と吉房は主に長男の秀次と暮らしていました。

もともと智の一家は、尾張周辺の人々として暮らしていたようです。ところが秀吉が出世すると、智の一家の立場も大きく変わりました。

秀吉には近い血縁の男子が多くありませんでした。そのため、姉夫婦の子である秀次、秀勝、秀保は、豊臣一門の男子として重要な存在になっていきます。

豊臣一門の男子として扱われる

秀吉にとって、秀次、秀勝、秀保は甥です。

一門衆とは、同じ家や近い親族として政権を支える人々のことです。秀吉にとって三人は、一門衆であるだけでなく、後継を担う可能性のある血縁男子でもありました。

智から見れば、息子たちは弟の出世によって大きな役割を負うことになります。母としては誇らしい反面、豊臣政権の中に深く入っていく不安もあったかもしれません。

秀次が三好姓を名乗る

天正10年(1582年)ごろ、秀次は阿波国の三好笑巌の養子となり、三好姓を名乗りました。

養子とは、血のつながりとは別に、家を継ぐ子として迎えられることです。秀次が三好家の名跡を継いだことで、父の吉房も三好姓を名乗るようになります。

その後、天正16年(1588年)正月には、三男の秀保が秀長の養子に入ったとされます。

こうして智の息子たちは、秀吉の一門として政権の中に組み込まれていきました。

 

三人の息子

長男・秀次

秀次は、智の長男です。秀吉から見ると甥にあたります。

秀次は、当初は三好家の名跡を継ぎました。その後、秀吉の一門として出世し、天正13年(1585年)には羽柴姓を名乗り、近江八幡城主となりました。所領は43万石とされます。

 

近江八幡城主となる

近江八幡は、後に秀次の記憶と深く結びつく土地になります。

現在、日秀尼ゆかりの瑞龍寺がある八幡山城跡も、もとは秀次が築いた城の跡です。秀次と日秀尼を考えるうえで、近江八幡は外せない場所ですね。

関白となった秀次

天正19年(1591年)12月、秀次は秀吉から関白職を譲られました。

関白は、天皇を補佐して政務に関わる朝廷の高い役職です。智の一家は聚楽第に住むようになります。聚楽第は、秀吉が京都に築いた政権の中心となる邸宅でした。

秀次は、豊臣政権の中で秀吉の後継に近い位置へ進みました。

ところが文禄4年(1595年)、秀次は高野山へ追放され、同年7月15日に切腹しました。

次男・秀勝

秀勝は、智の次男です。

文禄元年(1592年)、秀勝は文禄の役に出征しました。文禄の役は、秀吉が朝鮮へ兵を送った戦いです。

しかし秀勝は、朝鮮出兵の途中、巨済島の陣中で病死しました。智は、戦地で息子を失ったことになります。

秀勝の娘・豊臣完子

秀勝の娘に豊臣完子がいます。

完子は後に九条幸家に嫁ぎ、九条道房らをもうけました。完子の子には、二条家へ入った二条康道もいます。

このため、智の血筋は、秀勝の娘・完子を通じて公家社会へ続いていきました。

三男・秀保

秀保は、智の三男です。

秀長の養子に入ったとされ、大和郡山の系統に関わりました。秀長は秀吉の弟で、豊臣政権の中で大きな役割を果たした人物です。

秀保の急死

文禄4年(1595年)4月、秀保は十津川で急病により亡くなりました。

秀吉は、秀保の葬礼を表立って行う必要はないと秀次に命じました。智は北政所に訴え、ようやく秀保の葬儀を行うことができたとされます。

北政所は、秀吉の正妻であるねねのことです。こういう場面で智が北政所を頼ったという話は、豊臣一門の中で女性たちがどう関わっていたのかを考えるうえでも気になりますね。

秀保を失った数か月後、長男の秀次にも事件が起こりました。智は短い間に、三男と長男を失うことになります。

 

秀次事件で智が失ったもの

秀次は智の子

秀次は、智の長男です。秀吉から見ると甥でした。

秀次事件は、秀吉が甥を処断した事件です。智から見れば、自分の長男が弟によって死に追い込まれた出来事でした。

秀次の切腹

文禄4年(1595年)、秀次は高野山へ追放されました。同年7月15日、秀次は切腹しました。

秀次が処断された理由については、複数の説明があります。秀吉の実子・秀頼が生まれたことで秀次の立場が変わったことは、この事件を考えるうえで避けて通れません。

ただし事件の原因を一つに決めることは難しいです。

ここでは智の人生に関わる出来事として、秀次とその一族に何が起きたのかを見ていきます。

妻妾・子どもたちの処刑

秀次の死で事件は終わりませんでした。

秀次の妻妾や子どもたちは京都へ戻され、三条河原で処刑されました。処刑された人数は三十余名とされます。

妻妾とは、正妻や側室など、妻にあたる女性たちのことです。三条河原は、京都の鴨川沿いにある処刑や晒しの場として使われた場所でした。

智にとって、処刑された子どもたちは孫にあたります。長男を失い、さらにその子どもたちの多くも失いました。

夫・三好吉房も連座する

夫の三好吉房も事件に連座し、讃岐国へ流されました。

連座とは、本人だけでなく家族や関係者も罪を受けることです。智自身は処刑を免れましたが、家族の多くを一度に失いました。

 

智が事件の中で何をしたか

秀次事件の最中に、智が秀吉へ直接訴えたのか、誰に助けを求めたのかは分かっていません。

秀保の葬儀では、智が北政所に訴えたとされます。一方、秀次事件については、智の具体的な動きを確定できる材料が限られます。

分かるのは、事件後に智が出家したことです。智は瑞龍院日秀尼となり、亡くなった息子たちと孫たちを弔う道に入りました。

 

出家して日秀尼となる

文禄5年に仏門へ入る

文禄5年(1596年)正月、智は本圀寺の空竟院日禎を戒師に招き、仏門に入りました。

戒師とは、出家や受戒のときに戒を授ける僧のことです。

法名は日敬から日秀へ

『太閤素生記』によると、初めの法名は日敬でしたが、同名の僧がいたため、日秀に改めたとされます。

この話は後世の文献に見える話です。同時代の確実な史料とは分けて考えたいところです。

瑞龍院日秀尼となる

出家後の智は、瑞龍院日秀尼と呼ばれました。

日秀尼は、秀次一族を弔うため、山城国嵯峨に善正寺を開いたとされます。さらに村雲の地に瑞龍寺を開きました。

瑞龍寺は、秀次、秀勝、秀保、そして処刑された秀次一族の菩提を弔うための寺として伝わります。

日秀尼にとって、寺を開くことは、亡くなった家族を弔うための具体的な行動だったのでしょう。

 

日秀尼と瑞龍寺

息子と孫を弔う寺

日秀尼は、秀次、秀勝、秀保、さらに秀次事件で処刑された一族の菩提を弔うため、瑞龍寺を創建したとされます。

後陽成天皇から寺地を賜る

後陽成天皇から京都嵯峨・村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号を賜り、寺領千石、菊花御紋、紫衣も与えられたという話があります。

紫衣は高位の僧尼に許される紫色の法衣です。

村雲御所と呼ばれる

瑞龍寺は後に村雲御所とも呼ばれる尼門跡となりました。

二世以降には、九条家、二条家、鷹司家、有栖川宮、伏見宮などの女性が入寺しました。日秀尼が開いた寺は、豊臣一族の菩提を弔う寺であると同時に、朝廷や公家社会とも結びつく寺として続きました。

現在は近江八幡にある

瑞龍寺は後に移転を重ね、現在は滋賀県近江八幡市の八幡山城跡にあります。

八幡山城は秀次が築いた城です。その城跡に瑞龍寺が移されたことで、秀次と日秀尼の記憶は同じ場所で伝えられるようになりました。

 

晩年の日秀尼

秀吉と夫・吉房を見送る

慶長3年(1598年)8月18日、弟の豊臣秀吉が亡くなりました。

慶長17年(1612年)には、夫の三好吉房が亡くなりました。

日秀尼は、息子たちを失った後も生き続け、弟や夫も見送ることになります。

大坂の陣と豊臣宗家の終わり

慶長20年(1615年)夏、大坂の陣で豊臣秀頼らが滅び、豊臣宗家は終わりました。

豊臣方についた山口兵内の妻となっていた孫娘のお菊も徳川方に処刑されました。

日秀尼は秀吉の時代から豊臣宗家の終わりまでを見届けた女性でした。

隆清院と御田姫を保護する

大坂夏の陣の後、日秀尼は孫の隆清院を自分のもとに避難させたとされます。

また、隆清院と真田信繁の五女で日秀尼の曾孫にあたる御田姫も保護したとされます。

御田姫は後に出羽亀田藩2代藩主・岩城宣隆の妻となりました。藩主は、江戸時代に一つの藩を治めた大名のことです。

寛永2年に亡くなる

寛永2年(1625年)、日秀尼は亡くなりました。

没日には4月24日説と4月4日説があります。享年は92、または93とされます。

墓所は、瑞龍寺、本圀寺、善正寺にあります。善正寺には、日秀尼の肖像画と木像が伝わります。

日秀尼は弟の秀吉、夫の吉房、三人の息子、多くの孫、そして豊臣宗家の終わりを見届けました。ここまで豊臣家の栄華と悲劇を近くで見た女性は、そう多くなかったかもしれません。

 

豊臣滅亡後も続いた智の血筋

受け継がれた智の血筋

豊臣宗家は大坂の陣で滅亡しました。

ただし智の血筋は女系を通じて続きました。智の子孫が婚姻によって公家社会へ入り、血筋を伝えたのです。

秀勝の娘・完子

その中心になるのが秀勝の娘・豊臣完子です。

完子は九条幸家に嫁ぎ九条道房を生みました。九条道房の兄には二条家の養子となった二条康道がいます。

摂関家へつながる

九条道房や二条康道は、摂関家につながる人物です。このため日秀尼は秀吉の兄弟姉妹の中で、後世まで子孫を伝えた人物ということになります。

 

日秀尼の逸話・異説

完子や千世鶴と藤堂高虎に会う

日秀尼は秀勝の娘である完子とも関わりがありました。

完子や千世鶴とともに、豊臣秀保の旧臣である藤堂高虎と面会した話があります。

完子の末娘が瑞龍寺を継ぐ

完子の末娘は、日秀尼の生前からの願いにより瑞龍寺を継いだとされます。

このことから、日秀尼の弔いは、本人の死後も子孫や縁者によって受け継がれていきました。

大坂夏の陣後に血縁を守る

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後には、日秀尼が隆清院や御田姫を保護したとされます。

豊臣宗家が終わった後も、日秀尼は残された血縁を守る立場にありました。

 

大河ドラマや時代劇に登場する日秀尼

日秀尼は、豊臣秀吉を扱うドラマにも登場しています。

  • 新書太閤記 1973年、NET 演:冨士眞奈美
  • おんな太閤記 1981年、NHK大河ドラマ 演:長山藍子
  • 秀吉 1996年、NHK大河ドラマ 演:深浦加奈子
  • 寧々〜おんな太閤記 2009年、テレビ東京 演:横山めぐみ
  • 江〜姫たちの戦国〜 2011年、NHK大河ドラマ 演:阿知波悟美
  • 豊臣兄弟! 2026年、NHK大河ドラマ 演:宮澤エマ

 

まとめ

智は、秀吉の姉であり、秀次、秀勝、秀保の母でした。

弟の出世によって、三人の息子は豊臣一門の男子として政権の近くに置かれました。

長男の秀次は関白となりました。次男の秀勝は出征中に病死しました。三男の秀保は十津川で急病により亡くなりました。

さらに文禄4年(1595年)の秀次事件で、智は長男の秀次と、多くの孫を失いました。事件後、智は出家して日秀尼となり、亡くなった家族を弔いました。

日秀尼の人生は、秀吉の姉という立場だけでは語りきれません。豊臣政権に息子たちを送り出し、その息子たちを失い、最後には一族の菩提を弔い続けた母の人生でした。

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