源実朝(みなもとのさねとも)は鎌倉幕府の第3代征夷大将軍です。
源実朝というと鶴岡八幡宮で暗殺されて源氏最後の将軍になってしまったとか。
北条氏のお飾りだったというイメージが強いかもしれません。
たしかに最初は幼かったので飾りもの将軍でしたが。成長するに連れて力をつけていきました。
和歌や様々な文化を通して後鳥羽上皇と強い人間関係を築き。朝廷の権威を後ろ盾に北条義時たちと意見が違っても自分の政策を押し通す将軍になりました。
鎌倉でも意外と影響力のある将軍になったようです。
源実朝とはどんな人だったのでしょうか。
源実朝とは
どんな人?
地位:征夷大将軍
別名:鎌倉殿、鎌倉右大臣、羽林
幼名:千幡
生 年:建久3年8月9日(1192年9月17日)
没 年:建保7年1月27日(1219年2月13日)
家族
母:北条政子
妻: 西八条禅尼(坊門信清の娘)
子:なし
おいたち
建久3年(1192年)8月9日。鎌倉で生まれました。
父は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝。
母は正妻・北条政子。
乳母(めのと、育て親)は政子の妹・阿波局・大弐局たち。
建久10年(1199年)。父・源頼朝が死去。兄の源頼家が将軍になりました。
建仁3年(1203年)9月。比企の乱が起こり、将軍・源頼家は将軍職を失い、伊豆国に追われます。
鎌倉幕府 三代将軍になる
母の政子たちは朝廷に「頼家が死去した」という嘘の報告をして千幡への家督相続の許可を申請。朝廷は千幡を従五位下・征夷大将軍にしました。
10月8日。北条時政邸で元服。このとき12歳。後鳥羽院によって「実朝」と命名されました。
翌年。兄・頼家は北条氏によって暗殺されました。
元久元年(1204年)12月。坊門信清の娘(西八条禅尼)と結婚。坊門信清は後鳥羽上皇の側近です。
元久2年(1205年)。畠山重忠の乱が起こりました。北条義時、和田義盛、三浦義村たち御家人が出動。畠山氏は滅亡しました。
将軍に就任したころの実朝は幼かったので母北条政子や叔父・北条義時たちが中心になって政治を行っていました。
承元3年(1209年)。従三位。右近衛中将になりました。「政所」を解説する権利を得て、次第に政治への影響力を強めていきます。
和田合戦
建暦3年(1213年)。鎌倉幕府では、源頼家の遺児を将軍にしようとする動きが出てきました。
この動きを鎮圧しようとする中で有力な御家人の一人である和田義盛と、執権の北条義時との間に大きな対立が生じます。この対立が原因となり、和田合戦が起こりました。
挙兵
和田義盛は源頼家の遺児を擁立、北条氏を打倒しようと決意します。多くの味方を引き連れて鎌倉の将軍御所を包囲しました。
御所の炎上と実朝の避難
和田軍の攻撃により、将軍御所は炎上。将軍の実朝は、危うく一命をとりとめ、頼朝の墓所である法華堂に避難しました。
北条氏の反撃と実朝の決断
北条義時は、実朝を保護しながら、和田軍を迎え撃ちました。戦況は一進一退を繰り返しましたが、実朝は、自分の花押を押した御教書を出し、迷っている御家人たちに北条氏に味方するよう命じました。さらに、鶴岡八幡宮に戦勝祈願を行い、神仏の加護を願いました。
北条氏の勝利と和田氏の滅亡
最終的には、北条義時率いる幕府軍が勝利し、和田一族は滅亡しました。
この戦いは和田氏と北条氏の勢力争いでした。将軍の確保を目指して挙兵、最後も実朝の命令で御家人が北条側に味方。将軍の影響力の大きさを改めて見せつけた争いでした。
和田合戦とその後、そして源実朝の歌
和田合戦は鎌倉だけでなく、京都にも大きな影響を与えました。
鎌倉と京都を揺るがせた戦乱と地震
鎌倉市街地は荒廃。さらに敗れた和田氏の残党が西へ向かっているという情報が流れ、実朝は京の武士たちに討伐を依頼しました。
この動乱は京都にも影響し順徳天皇は京都の警備を強化するほどでした。
そして5月21日には鎌倉を大地震が襲いました。多くの家屋が倒壊、人々が犠牲になりました。この地震は当時の鎌倉の人々にとって経験のない大災害でした。
実朝の歌と政治
この混乱の中、実朝は自ら編纂した歌集「金槐和歌集」に、以下の歌を詠みました。
この歌は、藤原定家に送られ、後鳥羽上皇にも読まれることを想定して作られました。その意味は、「たとえ世の中が大きく変わろうとも、私はあなた(後鳥羽上皇)に対して二心はありません」というもので、後鳥羽上皇への忠誠を誓うとともに和田の残党との関わりを否定するものでした。
和田合戦後の鎌倉と実朝の政治
和田合戦の後、鎌倉では北条氏に対抗できる勢力が弱まり政治は安定に向かいました。
後鳥羽上皇も実朝の官位を上げ彼を支援しました。実朝自身も政所別当の数を増やすなど政治への影響力を強めようとしました。
源実朝の渡宋計画
源実朝は鎌倉幕府の将軍でありながら、意外な一面を持っていました。それは宋への渡航を夢見ていたことです。
宋への憧れと渡宋計画の発端
実朝はある夜、前世で宋の医王山の長老だったという夢を見ます。その夢を現実のものにしようと宋へ渡ることを決意します。
この決断を後押ししたのが東大寺の再建に関わった宋人の技術者、陳和卿との出会いです。陳和卿もまた実朝が前世の師であると主張し、実朝の決意を固めました。
大規模な船の建造と挫折
渡宋計画の実現に向けて実朝は大型の船の建造を命じます。しかし船の進水は容易ではありませんでした。鎌倉の海岸は遠浅です。いくら努力しても船は海に浮かびませんでした。結局、船は建造された場所で朽ち果ててしまい実朝の夢は叶いませんでした。
渡宋計画の目的は何だったのか?
なぜ実朝はそこまでして宋へ渡ろうとしたのでしょうか?
現実逃避ではない: 実朝はこの計画を立てた当時、権勢を誇っていました。この計画は自分の権力と影響力を示すためのものだったのかもしれません。
経済的な目的: 平清盛が宋との貿易で大きな利益を得たように、実朝も宋との貿易で経済的な利益を得ようとした可能性があります。
宗教的な目的: 実朝は信心深く宋の仏教聖地を巡礼したいという思いもあったと考えられます。
渡宋計画の失敗とその後
実朝の渡宋計画は失敗に終わりましたが、この計画は後の鎌倉の発展に影響を与えました。
鎌倉でも本格的な港が作られ、船の行き来が盛んになったのです。
源実朝の後継者問題
源実朝には子供がいなかったため、後継者問題が大きな問題になりました。
公暁の帰還と北条氏の動き
頼家の息子である公暁が鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当に任命されました。将来的な後継者候補として公暁を意識していたと考えられます。
一方、北条政子と北条時房は京都に赴き後鳥羽上皇の息子である頼仁親王を将軍の後継者にすることを提案しました。北条氏の権力をより強固にするための布石であったと考えられます。
実朝の昇進と新たな野望
実朝自身も朝廷から「右大臣」という高い位を授かりました。実朝が朝廷との関係を深め、政治的な影響力を高めようとしたのです。
実朝は頼仁親王を将軍にし自分がその後見人となって、より大きな権力を握ろうと考えていたと考えられます。実朝は「院政」を行おうとしたのです。
実朝は朝廷との関係を深め武家政権をより安定させ、そして自らも朝廷の政治に参加したいという野望を持っていたのです。
源実朝の最後
順調に見えた源実朝の政治ですが、思わぬ形で幕を閉じます。
公暁の反乱と実朝の暗殺
実朝の後継者として頼仁親王が有力視されるようになると、頼家の息子である公暁は大きな不満を抱くようになりました。彼は自分がこそ将軍になるべきだと考えていたのです。
建保7年(1219年)。実朝が鶴岡八幡宮を参拝している際に公暁は突然実朝に襲いかかり、殺害しました。公暁は「親の仇を討った」と叫び実朝の首を掲げました。
北条義時の責任論
この事件後、北条義時の責任が問われることになります。
愚管抄の記述: 「愚管抄」では、北条義時は実朝の命令で待機していたため、実朝を守ることができなかったと記されています。
吾妻鏡の記述: 一方、「吾妻鏡」では、北条義時は病気のため現場にいなかったことになっています。これは、北条義時の責任を回避するための作り話だったのではないかという説があります。
事件の背景と影響
この事件は単なる個人的な怨恨だけでなく、鎌倉幕府内部の複雑な権力闘争を反映していると考えられます。公暁の乱は実朝の死だけでなく鎌倉幕府の政治に大きな影響を与えました。
源実朝暗殺の黒幕は誰なのか?
源実朝の暗殺事件は、鎌倉幕府の歴史において大きな謎の一つです。
北条義時、三浦義村、後鳥羽上皇などが黒幕として疑われてきました。
それぞれの説を検証してみましょう。
北条義時説
「吾妻鏡」には北条義時が警備をドタキャンしたことが記されていることから、黒幕説が有力視されてきました。
しかし北条義時は頼仁親王を後継者にする計画に関わっており、わざわざ頼家の息子である公暁を将軍にする理由はありません。
三浦義村説
三浦義村は公暁の育ての親であり、公暁を将軍にしたいという動機は考えられます。
しかし、北条氏を完全に倒すことなく実朝だけを殺害するメリットは少ないと考えられます。
後鳥羽上皇説
後鳥羽上皇と源実朝の関係を無視した荒唐無稽な説と言うしかありません。
公暁の単独犯行説
これらの説を総合的に考えると、公暁の単独犯行説が最も有力です。
公暁の動機: 公暁は自分こそ将軍になるべきだと考えており、実朝に対する嫉妬や恨みを持っていたと考えられます。
実朝の油断: 実朝は公暁を警戒していなかったため、不意を突かれて殺害されてしまったと考えられます。
実朝の死がもたらしたもの
実朝の死は鎌倉幕府の歴史に大きな影響を与えました。
もし実朝が生きていれば頼仁親王が将軍となり、承久の乱のような大きな動乱は起こらなかったかもしれません。
源実朝暗殺事件の黒幕は、現時点では公暁の単独犯行が最も有力な説です。
しかし、歴史の真相は闇の中。今後も新たな事実が明らかになる可能性はあります。
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