光る君へ:さわのモデルになった紫式部の親友とは?

さわ は NHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物。
ヒロイン・まひろ(紫式部)の親友です。

紫式部には親友がいたことは「紫式部日記」や「紫式部集」に書かれています。

小倉百人一首にもある紫式部の代表的な歌

”めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲隠れにし夜半の月かな”

も親しい友人との別れを歌ったものです。

それほど親しい人物とはどのような人だったのでしょうか?

紫式部の友人を紹介します。

 

「光る君へ」のさわ

名前:さわ

紫式部(まひろ)の友人。

父の為時が世話をしている女性の娘。女性が以前結婚していた男との間に生まれました。親の愛に恵まれず愛情に飢えています。まひろとは親しくなります。やがて新しい父親が九州に赴任することになり、まひろとは分かれます。

演じるのは野村麻純さん。

 

さわのモデル・筑紫の君

平安時代の女流作家、紫式部。彼女には幼くして亡くなった実の姉がいました。しかし紫式部の周りにはもう一人特別な存在の女性がいました。その女性は紫式部が「姉君」と慕い深い友情で結ばれていたのです。

筑紫の君との出会い

この「姉君」と呼ばれる女性は紫式部と同じように妹を亡くした悲しみを抱えていました。二人は互いを亡くなった姉妹の代わりにしようと誓い合い、深い絆で結ばれていきます。紫式部は彼女を「姉君」と呼び、彼女は紫式部を「中の君」と呼び、親しく文通を交わしていました。

別れと再会

しかし、二人の幸せな日々は長くは続きませんでした。父の仕事の都合で紫式部は越前(福井県)、姉君は筑紫(九州)の肥前国(佐賀・長崎県)へと遠く離れてしまうことになったのです。

長い年月が経ち二人は再び京で再会を果たしました。姉君は肥前で見た美しい風景や人々の暮らしを紫式部に話しました。この時、姉君が語った話が後の紫式部の代表作『源氏物語』の中に生きているのではないかと言われています。

永遠の別れ

しかし喜びも束の間、二人は再び別れることになります。姉君は再び地方へと旅立たなければならなかったのです。

 

紫式部を代表する和歌「めぐりあひて」

筑紫の君との別れのときに作った歌

このとき紫式部が作った歌が

めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲隠れにし夜半の月かな

なき弱る籬の虫もとめがたき秋の別れや悲しかるらむ

「紫式部集」

という和歌。この歌は「紫式部集」の最初に載っています。この歌は小倉百人一首にも選ばれており、紫式部を代表する歌として広く知られています。

この歌は「久しぶりに再会した友人とすぐに別れなくてはならない」という切ない思いを歌っています。まるで夜空に現れた月が、すぐに雲に隠れてしまうように、儚くも美しい再会だったことを表現しているのです。

秋の虫の鳴き声に重ねた永遠の別れ

もう一つの歌「なき弱る籬の虫もとめがたき秋の別れや悲しかるらむ」は、秋の虫の鳴き声を聞きながら永遠の別れを嘆く歌です。

秋の虫の鳴き声は秋の深まりを感じさせ、物悲しさを感じさせます。この歌は友人との別れが自分にとってどれほど悲しいものだったかを歌っています。

友情の深さを物語る歌

これらの歌は単なる別れを歌ったものではありません。紫式部が友人の筑紫の君をどれほど大切にしていたか、そして、その別れが彼女にとってどれほど大きな出来事だったかが、痛いほど伝わってくるのです。

なぜ「紫式部集」の最初に?

なぜ紫式部はこの歌を「紫式部集」の最初に置いたのでしょうか?

それは、筑紫の君との出会いと別れが紫式部の人生でも特に重要な出来事の一つだったからなのでしょう。

親や夫の死を悼む歌ではなく、友人の死を歌ったものが、彼女の歌集の最初に置かれているという事実は、当時の価値観から見ると非常に異例のことでした。

でも紫式部にとって友情は家族の絆と同じくらい、あるいはそれ以上に大切なものだったのかもしれません。

 

友達の死を招いた?紫式部一生の不覚

しかし、この歌にはもう一つの意味が隠されているのではないか?と文学研究家の廣田収氏は指摘しています。それは歌の中に出てくる「雲隠れ」という言葉です。

「雲隠れ」の意味

平安時代において「雲隠れ」という言葉は単に「雲の中に隠れる」という意味だけでなく「死」を意味することもありました。万葉集など古い和歌の中には「雲隠れ」という言葉が死を暗示する言葉として使われている例がいくつもあります。

紫式部の後悔

紫式部は後に親友であった筑紫の君を亡くします。そして自分の歌の中に「雲隠れ」という言葉を使ったことを深く後悔したのではないか?というのです。もしかしたら、自分の言葉が、友人の死を招いたのではないか、と。

紫式部の性格と平安時代の信仰

紫式部は非常に聡明で博学な女性でした。しかし同時に、マイナス思考で物事を悲観的に捉える一面も持っていました。平安時代の人々は言葉には不思議な力があると信じていました。特に呪いや言霊といった概念は人々の生活に深く根付いていました。

現代社会との共通点

現代にでも親しい人を亡くした時に、自分の言動が原因だったのではないかと自責の念に駆られる人は少なくありません。言葉の力、そして、死に対する畏怖は時代を超えて共通する人間の感情と言えるでしょう。

 

紫式部を取り巻く女友達たちと、友情の変化

紫式部には筑紫の君以外にも女友達がいました。

物語を通して心の交流を深めた日々

夫を亡くした紫式部は悲しみを乗り越えるため、気の合う友人たちと物語を読み、感想を交換し合いました。

また疎遠になっていた友人とも文通を再開し、心の交流を深めていきました。やがて既存の物語に満足できなくなった紫式部は自ら物語を書き始めます。

そしてその創作活動の中で生まれたのが後の『源氏物語』です。

宮仕えと友情の岐路

『源氏物語』が評判となり紫式部は宮中に仕えることになります。しかし宮仕えは紫式部と友人たちの関係に大きな変化をもたらしました。

宮中で働くことは当時の女性にとっては、ある種のステータスですが。多くの男性と関わる機会が増えることになります。当時の貴族女性の間では「むやみに男性に会うのははしたない」という考え方がありました。

そのため紫式部は「友達から軽蔑されているのではないか」と不安に感じていました。これは当時の女性に対する固定観念や、紫式部自身の内向的な性格が影響していたと考えられます。

友情の終わりと、その理由

紫式部の友人たちが都を離れる理由も様々でした。親の仕事の関係で地方に赴任したり、結婚して地方に移住したりするなど、当時の社会状況が友人たちとの別れを加速させていたのです。

友情が『源氏物語』に与えた影響

紫式部を取り巻く友人たちとの出会いや別れ、そして友情の変化は『源氏物語』の世界にも色濃く反映されています。物語に登場する女性たちの関係性や、主人公の光源氏の心の動きなど紫式部の私生活と深く結びついた描写が多く見られます。

まとめ

紫式部は友人たちとの深い交流の中で『源氏物語』を執筆しました。

特に筑紫の君との別れは紫式部に深い傷跡を残し「めぐりあひて」などの名歌を生み出しました。

しかし、宮仕えが始まると友人たちとの距離は開いていきます。この経験は紫式部の作品世界に大きな影響を与え、彼女の心の奥底を映し出す鏡となりました。友人たちとの出会いと別れ、そして友情の変化は紫式部の人生を彩り、彼女を文学史に残る作家へと成長させたといえるかもしれません。

 

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