長谷川平蔵は「鬼平犯科帳」の主人公として有名です。
でも実在した江戸時代の役人です。火付盗賊改方として数々の悪党を捕らえ、犯罪者からは恐れられるとともに人々から慕われたその生涯は波乱に満ち、数々のドラマを生み出しました。
火付盗賊改方としての活躍だけでなく、人足寄場の設立など、多岐にわたる活躍を見せた人物です。
この記事ではそんな長谷川平蔵の生涯をわかりやすく解説します。
長谷川平蔵宣以の生涯
どんな人?
通称:平蔵(へいぞう)
幼名:銕三郎(てつさぶろう)または 銕次郎(てつじろう)
生年:延享2年(1745年)
没年:寛政7年5月19日(1795年7月5日)
家族
母・戸村品左衛門の娘?
妻 大橋親英の娘
子:宣義(長男)、正以(二男)、
娘(河野弘道室)、娘(渡辺久泰室)、娘
名前
長谷川平蔵は何人もいる
- 長谷川平蔵の本名は長谷川宣以(はせがわ のぶため)。
- 平蔵は長谷川家の当主が代々名乗った通称。
- 幼名は銕三郎(てつさぶろう)。ただし銕次郎(てつじろう)とする史料もあります。
- 若いころは「本所の銕(てつ)」と呼ばれ遊び人としても有名でした。
鬼平とは呼ばれていない
池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」の影響で「鬼平」の呼び方が有名ですが。これは時代劇の設定。実際には「鬼平」と呼ばれた記録はありません。
父・宣雄も有能な火付盗賊改方
宣以の父・長谷川宣雄も火付盗賊改方頭でした。親子で同じ職を担当。宣雄も平蔵を名乗っています。
宣雄も有能な役人で、明和の大火では犯人の真秀を捕らえて火刑に処しました。そのため「長谷川平蔵」の功績には父・宣雄の功績も混同されていることがあります。
本所の銕:若いころは遊び人
長谷川平蔵宣以は1745年に江戸幕府の武士の家に長男として生まれました。
長谷川平蔵宣以は幼い頃からやんちゃで、大人になるまで放蕩な生活を送っていました。「本所の銕」とよばれて恐れられていたといいます。
23歳で家督相続人として認められ。結婚して子供も生まれました。
安永元年(1772年)に父が京都奉行になったため両親とともに京都に引っ越しました。
父の死と江戸への帰還
30歳の時。京都で父が他界したので江戸に戻りました。宣以は家督を継いで「平蔵」と名乗ります。このとき父の部下たちに「江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語して戻ったといいます。
長谷川平蔵宣以の若き日の活躍
幕府の役人へ
長谷川平蔵宣以は30歳で家督を継ぎ、父親と同じ「平蔵」を名乗りました。
幕府の役人となるための最初のステップとして、小普請組という職人集団のリーダー格である長田備中守組に入りました。
このころ宣以は父親が残したお金を使い果たし、流行の服装をして吉原に通うなど派手な生活を送っていたと言われています。
安永3年(1774年)には幕府の役人になるための一般的なコースである「両番」という役職に就き、その後も順調に出世を重ねていきます。
長谷川平蔵の火付盗賊改方への抜擢と活躍
長谷川平蔵は42歳の時に幕府の老中・松平定信によって火付盗賊改方に抜擢されました。火付盗賊改方とは盗賊や放火犯といった凶悪犯を取り締まる役職です。
しかし平蔵の抜擢は周囲から反対の声が多く上がりました。「なぜ、あんな人物をこんな重要な役職に?」と同僚たちは不満を漏らしていたそうです。
平蔵の人柄と人気
平蔵は部下や町の人々にとても人気がありました。部下には酒や食事を振る舞い、盗賊を捕まえてきた町の人には蕎麦をご馳走するなど、気さくで人情味あふれる人物でした。
そのため、人々から「本所の平蔵さま」や「今大岡」と呼ばれるほど慕われていました。
火付盗賊改方とは?
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸幕府の役職。主に火付け(放火)、盗賊、賭博などの重大な犯罪を取り締まる役職でした。現代でいうところの警察のような存在ですね。いざというときには戦闘にも参加。半分軍隊のような組織でした。
火付盗賊改方の仕事内容
- 火災の予防と鎮火: 火事の原因を究明、放火犯を捕まえるだけでなく、火災の予防活動も行っていました。
- 盗賊の取り締まり: 強盗や窃盗犯を捕まえ、治安維持に努めました。
- 賭博の取り締まり: 賭博場を取り締まり、風紀の乱れを防ぎました。
- 町中の巡視: 定期的に町中を巡回し、不審な人物や事件がないかパトロールを行いました。
火付盗賊改方の特徴
- 武力行使: 刀や十手を持ち、必要に応じて武力行使も行うことが許されていました。
- 隊員は軍人:凶悪犯に対処するため町奉行が文官の集まりに対して火付盗賊改方は番方と呼ばれる戦闘要員(武官)で構成されています。
- 強力な権限:町人だけでなく僧侶や武士も捜査・逮捕する権限を持っています。
- 裁判権はほぼなし:重い刑罰を与える場合には老中の許可が必要でした。
- 厳しい取り調べ: 容疑者を厳しく取り調べ、自白をさせることが求められました。
- あまり評判はよくない: 凶悪犯を捕まえる任務の性質上、番方で構成され権限が強いためどうしても捜査が乱暴になり。冤罪も多発。そのため人々からは恐れられあまり評判はよくありません。
- 人気になった人もいる:中には公正で評判のいい人もいます。時代劇で有名な長谷川平蔵は庶民からも人気がありました。
長谷川平蔵と人足寄場
人足寄場設立の背景
江戸時代には、仕事がなくさまよう「無宿人」と呼ばれる人々が社会問題となっていました。幕府は、これらの人々を捕まえ、佐渡の金山で働かせたり、無宿養育所という施設に収容したりするなど、さまざまな対策を講じてきました。しかし、これらの対策は効果が薄く、無宿人の問題は依然として深刻な状況でした。
長谷川平蔵の登場と人足寄場の創設
寛政元年(1789年)、長谷川平蔵は老中・松平定信に、浮浪人などを収容し、自立を支援する施設「人足寄場」の設置を提案。認められました。
平蔵は自らこの施設の建設と運営を指揮し、江戸の石川島に収容所を設け、収容された人々に大工や建具作りなどの技術を教えることで、彼らの更生に尽力しました。
平蔵は限られた予算の中で人足寄場を建設。収容された無宿人たちに大工仕事や建具作りなどの技術を教えることで、彼らの自立を支援しました。収容者から徴収した賃金の一部を積み立て出所時に渡すことで再就職を支援する仕組みも作り上げました。
人足寄場の成果と評価
人足寄場の設立は当時の社会問題であった無宿人問題の解決に大きく貢献しました。収容者の多くは人足寄場で技術を身につけ社会復帰を果たすことができ犯罪率の低下にも繋がりました。
松平定信は人足寄場の成功を平蔵の功績と評価し「長谷川は利益を貪るために山師のような悪行をすると人々が悪く言うが、そうした者でないとこの事業は行えない」と述べています。
人足寄場の特徴と革新性
人足寄場は、単なる収容施設ではなく、教育的な要素を取り入れた革新的な施設でした。
- 職業訓練: 収容者に職業訓練を行い、自立を支援しました。
- 賃金制度: 賃金を支払うことで、労働意欲を高めました。
- 積立制度: 出所後の生活を支援するため、賃金の一部を積み立てました。
これらの取り組みは、現代の刑務所の再犯防止プログラムにも通じるものがあります。
まとめ
長谷川平蔵は、人足寄場の創設を通じて、江戸時代の社会問題解決に大きく貢献しました。彼の功績は、単に犯罪者を捕まえるだけでなく彼らを社会に復帰させるという現代にも通じる人道的な視点を持っていたことがわかります。
長谷川平蔵の最後
町奉行への志望
平蔵は、町奉行という役職を強く希望しており、寛政3年に町奉行の席が空いた際にも有力候補に挙げられました。しかし、最終的には別の者が選ばれました。その理由は、火付盗賊改方から町奉行に転じるという前例がなかったこと、そして町奉行になるためには目付という役職を経験することが慣例であったからです。
平蔵はどれだけ努力しても出世できないことに不満を感じながらも、「越中殿(松平定信)」への信頼を胸に、職務に励んでいました。
定信の失脚と平蔵の死
しかし平蔵を支えていた定信は寛政5年に失脚してしまいます。
そして寛政7年、平蔵は50歳で病に倒れました。11代将軍・徳川家斉から見舞いの言葉と漢方薬を賜りましたが、まもなく世を去りました。
平蔵の墓は東京都新宿区須賀町の戒行寺にあります。
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