本圀寺(本国寺)の変は1569年に三好三人衆らが京都の本圀寺で足利義昭を襲撃した戦いです。織田信長上洛後も京都は不安定で足利義昭政権の危うさが明らかになった大事件でした。
将軍になったばかりの足利義昭が京都でいきなり命を狙われたと聞くと、当時の京都がどれほど不安定だったのか気になってきます。織田信長の上洛後も京都の情勢は落ち着いてはいなかったのです。
この記事では、本圀寺の変が起きた理由や戦いの流れ、その後に信長と義昭の体制へどんな影響を与えたのかを分かりやすく紹介します。
この記事で分かること
- 本圀寺の変が起きた背景と、三好三人衆が義昭を狙った理由
- 本圀寺での戦いの流れと、明智光秀ら守備側の動き
- 信長の上洛後も京都支配が安定していなかった実情
- この事件が信長・義昭体制の立て直しに与えた影響
本圀寺の変とは何?
本圀寺の変は戦国時代の永禄12年(1569年)1月に起きた戦いです。三好三人衆の三好長逸、三好宗渭、石成友通らが京都六条の本圀寺にいた15代将軍・足利義昭を襲撃しました。この戦いは六条合戦とも呼ばれます。
本圀寺とは?なぜ将軍が宿泊?
本圀寺は日蓮宗の寺院で当時は「本国寺」と名乗っていました。本圀寺になったのは水戸光圀の時代です。
足利義昭の上洛直後には、将軍が使えるた御所がありませんでした。そこで一時的に京都六条にある本圀寺を仮の居所として用いていました。
本圀寺は寺院なので将軍のために作られた本格的な政治・軍事拠点ではありませんが。当時の寺は塀や構えをもちある程度の防御力を持ちます。そのため重要人物の滞在先として使われました。
でも正式な御所に比べれば、防御面で不安が残る場所だったと考えられます。
なぜ本圀寺の変が起きたのか?
義輝亡き後の将軍争いが原因
永禄8年(1565年)5月。室町幕府13代将軍 足利義輝が三好三人衆・三好義継・松永久通によって討たれ。三好勢により14代将軍 足利義栄が擁立されました。しかし三好勢が分裂、三好義継・松永久通が三好三人衆と対立します。
反三好勢は義輝の弟・足利義昭を擁立しようとしますが、三好三人衆によって阻まれていました。そこで義昭は織田信長の助けを求めます。
1568年織田信長は足利義昭とともに上洛。足利義栄を病で失っていた三好三人衆は織田軍とは戦わずに京から後退しました。
一般には信長が上洛した時点で京都の主導権は争いは決着がついて三好勢力は終わった勢力のように見られがちです。たしかに信長の上洛そのものは大成功でした。義昭は将軍となり信長は将軍を補佐して政治的影響力を強めます。
でも三好勢が消えたわけではありません。三好三人衆は自分たちの手で都を支配することを望んでいました。そのためには足利義昭と彼を担ぐ勢力は邪魔でした。そこで信長が美濃へ帰ると、四国から軍勢を呼び寄せ都の奪還を目指したのです。
三好三人衆とはどんな勢力だったのか?
三好長慶亡き後に三好家は分裂
本圀寺の変を理解するためには三好三人衆を知ることが重要です。
三好三人衆とは三好長慶の死後に三好政権を支えた有力家臣・三好長逸・三好宗渭・岩成友通のことです。松永久秀とともに畿内で三好政権を支えた重臣でした。
しかし三好長慶の死後、当主となった三好義継と松永久通・三好三人衆は足利義輝を殺害。その後、松永久秀・久通と三好三人衆が対立します。さらに足利義栄擁立後後は三好三人衆と三好義継が対立。
松永久親子と足利義輝は足利義昭支持に周り、三好三人衆と対立する事になりました。ここでかつて畿内を支配した三好勢は分裂しました。
信長の上洛が比較的進みやすかった理由のひとつに、三好勢の分裂があったと考えられます。
しかし三好勢が分裂していたからといって、三好三人衆が完全に力を失っていたわけではありません。彼らは本拠地の阿波三好家と協力。四国勢を畿内に上陸させ、畿内の勢力回復を狙っていました。
斎藤龍興も参加・反信長・義昭連合軍だった
さらに三好の勢力には、織田信長に美濃を追われた斎藤龍興や、武田氏の圧迫で信濃を失った小笠原貞慶らも参加していました。
三好三人衆の陣営はただの三好の残党ではなく、信長の上洛によって立場を失った反信長勢力の受け皿になっていたといえます。小笠原氏も三好長慶の時代から交流のある勢力です。
三好三人衆は畿内での主導権の回復、龍興や小笠原氏は旧領回復の足場を求めていました。彼らの目的は違いますが、信長と義昭の新体制を壊したいという点では利害が一致していました。
つまり本圀寺の変は新将軍を三好三人衆が襲った事件というだけではなく。織田信長に支えられた足利義昭の政権に抵抗する勢力が起こした、政権打倒の戦いだったと言えます。
本圀寺の変の経緯
三好三人衆が本圀寺を襲撃
永禄12年(1569年)1月4日。三好三人衆はまず将軍地蔵山を襲撃。ここはいざというとき足利将軍が立てこもる城でした。足利義昭の逃げ場を先に潰したのです。
1月5日。三好長逸、三好宗渭、岩成友通を中心とする三好勢 約1万余りが本圀寺にいた足利義昭を襲撃しました。
この三好方には先程も書いたように斎藤龍興・小笠原貞慶らも加わっています。
本圀寺では明智光秀らが防戦した
本圀寺を守る側には、明智光秀、細川藤賢、若狭衆などがいて寺に立てこもって防戦しました。とくに光秀はこの戦いのころから『信長公記』に登場する人物として注目されます。
三好方は突入を試みましたが、守備側は持ちこたえ、三好方は短時間で義昭を討ち取ることができませんでした。
畿内の幕府方が来援し、形勢が逆転した
本圀寺での防戦が続くあいだに細川藤孝、三好義継、池田勝正、荒木村重らが駆けつけました。
これによって三好方は短期決戦に失敗。本圀寺の包囲を続けるのが難しくなります。
挟み撃ちになった三好勢は総崩れとなります。
三好方は退却し、事件は失敗に終わった
増援の到着で戦況が悪化した三好方は退却。その後、追撃戦となり桂川付近でも戦いが続いたとされます。
三好三人衆は義昭の討伐に失敗。足利義昭は生き延びることができました。
この事件は美濃にいた織田信長にも報告され。信長は10日には都に到着。同じ頃、松永久秀も都に到着しています。
足利義昭は本当に危なかった
本圀寺の変はあまり有名な戦いではありませんが。これを将軍が少し危ない目にあった事件程度に考えると、この出来事の重要性が分かりづらいです。
ここで思い出しておきたいのが、義昭の兄・13代将軍 足利義輝の最期です。
義輝は永禄8年(1565年)に永禄の変で三好義継、三好三人衆、松永久通らに襲撃され討たれました。
三好三人衆はこの再現を狙ったわけです。もし援軍の到着が遅れていれば義昭も兄と同じ運命になったかも知れませんし。そうなれば織田信長が畿内に影響力をおよぼす足がかりを失います。室町幕府再建も挫折した可能性もありました。
そうなれば三好三人衆の主導で将軍の後継者が決められた可能性もあり、畿内は再び混乱したかもしれません。
本圀寺の変が示した信長の勝利はまだ途中だったという事実
信長は1568年に義昭を奉じて上洛、将軍就任を実現させました。これだけを見れば幕府は再興され、信長の政治的な目的は達成したように感じられます。
でも実際には翌年の正月に将軍の仮御所が襲われました。これは信長が来ただけでは都は安定しない。義昭の政権は不安定だということです。上洛によって信長は中央での政治の主導権を得たかも知れませんが、それはあくまで入口にすぎません。京都の秩序を本当に安定させるには、さらに手を打たなければならなかったのです。
しかも「信長・義昭側」対「三好三人衆」という単純な二大勢力の対立ではありません。三好家内部の分裂、松永氏の動向、畿内の諸勢力の思惑が絡み合う非常に複雑な状況でした。
そうした様々な勢力を排除しなければ足利義昭の政権は安定しなかったのです。
本圀寺の変のあと、何が変わったのか
本圀寺の変の後。信長と義昭は京都支配の立て直しを急ぎました。
京都支配の不十分さが明らかになる
この襲撃は信長にとっては大きな衝撃だったと考えられます。信長は義昭を将軍に擁立して上洛を成功させました。でも本圀寺の変で畿内の支配は十分ではなく、将軍の身辺すら守り切れていないことが明らかになりました。
もし義昭が討たれていれば、信長の面目は大きく傷つきました。天下統一は大きく遅れたか、実現できなかった可能性もあります。
信長は都への介入を更に強める必用性に迫られるようになります。
自信をつけた足利義昭?
義昭にとってもこの事件は大きな意味があります。 『上杉家文書』によると義昭はこの戦いで自ら馬に乗って軍勢を指揮して敵に切り懸かったとされます。
ただ守られる将軍ではなく自ら戦う将軍として、自らの武威を示そうとする意図がうかがえます。表現には誇張もあるかも知れませんが義昭は本圀寺の変で生き延び、しかも信長の力を借りずに撃退に成功しました。この成功が義昭に自信を与えた可能性は考えられます。
二条御所の整備
事件後の対応として重要なのが、将軍御所の再整備と幕府秩序の引き締めです。信長は義昭のために二条御所の整備を進め、本圀寺のような仮の滞在先ではなく、より防御性と政治的格式を備えた拠点を用意しようとしました。ただの初重施設ではなく将軍政権の中枢を守る体制づくりでした。
さらに信長は永禄12年(1569年)1月に殿中御掟を定め、幕臣の行動統制にも乗り出しています。義昭方の幕臣の中には公家や寺社領に介入して混乱を招く者もおり、そうした内部の緩みが敵対勢力につけ込まれる一因になったと受け止められた可能性があります。
本圀寺の変は義昭政権に敵対する勢力だけでなく、政権の内側を引き締める必要も信長に痛感させた事件だったのでしょう。
三好対策で毛利とも協力?
また、義昭はこの襲撃を重く見て、対三好政策をより強く意識するようになります。信長の側も毛利氏との連携を進め、阿波などへ退いた三好三人衆を牽制する布石を打っていきました。
本圀寺の変の影響は京都だけでなく、その後の対三好包囲にも影響した出来事といえるかもしれません。
信長と義昭の関係を考えるうえでも重要
本圀寺の変は、知名度だけなら本能寺の変ほど広く知られてはいません。でも歴史の流れの中では決して小さな事件ではありません。
本圀寺の変は足利義昭が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれた大事件でした。義昭が倒れればん信長の勢力拡大一も難しくなります。
信長は足利義昭を上洛させ将軍にしましたが。維持できなければ意味がありません。畿内にはまだ三好三人衆ら足利義昭と織田信長を脅かす力は残っていたのです。その不安を排除しなければ、幕府の再興も、信長の目指す天下布武も実現はできません。
本圀寺の変は、信長と義昭、三好勢力、そして京都政局の不安定さが一度に表れた事件です。信長上洛直後の歴史を本当に理解したいなら、見落とせない重要事件と言えるでしょう。
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