大河ドラマ「べらぼう」に登場する喜多川歌麿とは?史実との違いは?

喜多川歌麿

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」にあの有名な浮世絵師 喜多川歌麿が登場します。

歌麿といえば誰もが知る美人画の有名人ですが、実はその生涯は謎に包まれている部分が多いです。そのためなのか今回の「べらぼう」では大胆なアレンジが加えられています。

この記事では大河ドラマ「べらぼう」で描かれる喜多川歌麿の人物像やキャスト情報そして史実における彼の生涯と作品について詳しく解説していきます。

 

スポンサーリンク

大河ドラマ「べらぼう」の喜多川歌麿とは?

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で喜多川歌麿を演じるのは実力派俳優の染谷将太さんです。幼少期は渡邉斗翔さんが演じました。

ドラマでは歌麿の出自や版元である蔦屋重三郎との出会いが独自の設定で描かれます。

ドラマが描く喜多川歌麿の人物像と波乱の幼少期

ドラマ「べらぼう」では喜多川歌麿はなんと貧しい夜鷹の子として生まれ、幼い頃から過酷な環境で育ったとされています。母親からから虐待を受けたり、7歳からは売春を強いられたりと吉原よりも悲惨な生活を送っていたという設定には驚きですね。

さらに明和の大火の際、瓦礫の下敷きになった母親を見捨てて逃げ出したという過去も描かれるようです。

江戸時代の大火事のイメージ

大火事のイメージ画像

このような過去があるので、深い罪悪感破滅願望を抱える複雑な人物として描かれることになりそうですね。本音をなかなか語ろうとせず、周囲からは理解されにくい面もあるでしょう。

しかし絵の才能は天才的。本人もその腕には強い自信を持っているようです。

蔦屋重三郎との運命的な出会いと名前の変遷

ではなぜそんな歌麿が浮世絵師になったのでしょうか?

明暦の大火のとき。火の中に飛び込もうとしていた歌麿を保護したのが蔦屋重三郎でした。記憶喪失を装っていた歌麿に蔦重は自身の幼名「唐丸(からまる)」と名付け、蔦屋の小僧として迎え入れます。

幼い唐丸は礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい)の絵を完璧に模写するほどの画才を見せ、蔦重は彼を「当代一の絵師」にすると約束したそうですよ。うまいところに目をつけたものですね!

唐丸は一度は行方不明になりますが、約6年後の安永9年(1780年)に絵師となっていたところを蔦重に発見され、「歌麿」として戻ってきます。

この間捨吉(すてきち)と名乗り絵の代筆や春を売る危険な生活を送っていたようです。最終的に蔦重が彼の過去を受け入れ「生きたいならいくらでも手を貸す」「自分が生きる言い訳になる」と語りかけたことで歌麿は蔦重の元に戻る決意をするんですね。

人別上での名前は「勇助(ゆうすけ)」です。ドラマでは二人の間に築かれる信頼と友情が歌麿の才能を大きく開花させる過程が描かれることでしょう。これは見逃せませんね!

スポンサーリンク

史実における喜多川歌麿の生涯と作品

さてドラマでの設定は興味深いですが、実際の喜多川歌麿(きたがわ うたまろ1753年? – 1806年)はどのような人物だったのでしょうか?

史実の彼は江戸時代に活躍した浮世絵師ですが、その来歴には不明な点が多く謎に包まれています。

喜多川歌麿の肖像画

喜多川歌麿の肖像画

attributed to Chōbunsai Eishi (1756 – 1829), Public domain, via Wikimedia Commons

 

史実で不明な出自と確かな画業の始まり

歌麿の本姓は北川、後に喜多川を名乗りました。幼名は市太郎、後に勇助(または勇記)名は信美とされています。

しかし生年・出生地・出身地は正確には分かっていません。通説では1753年(宝暦3年)生まれとされますが、川越説や江戸市中説など出身地についても諸説あるようですね。

歌麿は鳥山石燕(とりやませきえん)のもとで浮世絵を学びました。1770年(明和7年)に「石要(せきよう)」名義で初作を発表しています。

その後「豊章(ほうしょう)」を経て天明初年ごろから「歌麻呂」「哥麿」と号するようになります。

生前は「うたまる」と呼ばれていましたが、19世紀以降に「うたまろ」と呼ばれるようになりました。俳諧では石要木燕燕岱斎狂歌名では筆綾丸紫屋を名乗っていたといいますから多才だったことがうかがえますね。

美人画の革新者としての活躍

天明3年(1783年)ごろから「歌麿」名義の作品が増え始めます。この頃の美人画は鳥居清長(とりいきよなが)の影響を受けたものでしたが、安定した構図と配色衣装の緻密さから彼の高い技量が窺えますね。

天明6年(1786年)から寛政2年(1790年)にかけては蔦屋重三郎を版元として狂歌絵本を多数刊行しました。特に『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』『汐干のつと』『百千鳥狂歌合』などは高く評価されています。

歌麿は蔦屋重三郎の製作助力によりそれまで全身画が主だった美人画に「大首絵(おおくびえ)」を取り入れ大人気になりました。

背景を省略し白雲母を散りばめる技法で人物の表情を際立たせるという画期的な手法だったのです。仕草や着物髪型の微妙な変化で喜怒哀楽の感情や性格心の様子を詳細に描くことを可能にしたのですから斬新ですよね。

「寛政三美人」 喜多川歌麿

「寛政三美人」 喜多川歌麿

Kitagawa Utamaro, Public domain, via Wikimedia Commons

 

寛政2-3年(1790-91年)から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの「美人大首絵」で不動の人気を確立します。

これらは女性の外面から内面を読み取る趣向で歌麿が女性の美しさを深く追求した姿勢を示していますね。

寛政5-6年(1793-1794年)ごろの「歌撰恋之部」ではさらに女性の心境を描き分け無線摺(むせんずり)や朱線(しゅせん)といった彫摺法を用いて肌や衣装の質感量感を工夫しました。

特に「娘日時計」では体の強い輪郭線を使わず背景の色画面だけで肌の柔らかさを表現する画期的な画法を用いたんです。これはまさに技術と感性の融合ですね。

社会情勢と晩年

寛政の改革により表現に対する規制が厳しくなると歌麿の作品にも影響が出てしまいます。

美人画に記すモデル名が禁じられ、判じ絵で抵抗するも削除を命じられたそうです。

それでも寛政7-8年(1795-96年)ごろには40もの版元から依頼が殺到するほどの人気でした。どれほど彼が売れっ子だったかが分かりますね。しかしこの頃から濫作の傾向も見られ、美人画のマンネリ化が進んだとの指摘もあります。

寛政9年(1797年)には彼の才能を支えた蔦屋重三郎が死去してしまいます。

これは彼にとって大きな痛手だったのではないでしょうか?その後も歌麿は制作を続けますが1804年(文化元年)に豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことが問題となります。幕府に捕縛され入牢・手鎖の刑を受けてしまったのです。

この事件以降、歌麿は病気になり2年後の1806年(文化3年)に亡くなりました。墓所は世田谷区烏山の専光寺にあります。波乱に満ちた人生だったのですね。

まとめ

2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は喜多川歌麿が登場。史実でも謎の多い喜多川歌麿の生涯に、ドラマ独自の解釈と設定が加えられ。今までにない歌麿になっています。より人間味あふれる物語を描き出してくれそうですね。

特に幼少期の過酷な経験や蔦屋重三郎との運命的な出会いは、ドラマの大きな見どころとなるでしょう。

史実では歌麿の出自は不明ですが、美人画の分野で革新的な技法を次々と生み出し、浮世絵の芸術性を高めた優れた絵師です。

ドラマを通して彼の複雑な人間性や時代を彩った浮世絵の魅力に触れてみてはいかがでしょうか。喜多川歌麿という人物の新たな一面を発見し彼の作品に込められたメッセージをより深く感じ取ることができるはずです。

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました