小泉セツは小泉八雲の妻。そして創作活動を支えたパートナーでした。
この記事では小泉セツ(節子)がどんな人生を歩み、どの場面で八雲の創作を支えたのかを、年表で追いながら分かりやすく紹介します。
結婚の時期がいつなのか、創作パートナーとしての役割、八雲の死後にどのように暮らしたかなどをわかりやすく紹介します。
この記事で分かること
- 小泉セツの生い立ちから晩年までの流れを年表で紹介。
- 八雲との結婚がいつと言い切れない理由と、夫婦生活の始まり
- セツが作品づくりを支えた具体的な役割(語り・ネタ集め・言葉の橋渡し)
- 八雲の死後、家と作品、子どもたちをどう守り抜いたか
小泉セツってどんな人?
小泉セツ(こいずみ・セツ/節子、1868年2月26日〜1932年2月18日)は、作家ラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)の妻です。
戸籍に書かれた名前は「セツ」ですが、本人は「節子(せつこ)」という表記を気に入っていたと言われます。
ふたりのあいだには三人の息子と一人の娘が生まれました。セツは家事や子育てをしながら、
昔話・怪談を語って聞かせたり、本の内容をかみ砕いて伝えたりして八雲の本を題材にした作品づくりをずっと支えた人です。
次にセツの一生を年表形式で紹介します。
小泉セツ 年表
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1868年2月26日(0歳) 松江で生まれる(戸籍名:セツ)
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1868年3月(0歳) 生後7日で稲垣家の養女となる
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1879年ごろ(11歳) 11歳から機織りで働き、家計を助ける
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1886年ごろ(18歳) 前田為二を婿養子に迎えて結婚
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1887年(19歳) 夫・為二が大阪へ出奔
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1887年(19歳) 実父・小泉湊が死去
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1890年(22歳) 離縁して小泉家に復籍
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1890年4月(22歳) ハーンが来日。横浜に到着
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1890年8月30日(22歳) ハーンが松江に到着
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1890年12月(22歳) セツの回想では「この月ごろ嫁いだ」
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1891年1~2月(22~23歳) 小泉セツがハーンのもとで住み込みで女中になる。
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1891年7月26日(23歳) ハーンが再び杵築を訪問
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1891年7月28日(23歳) セツが呼ばれ杵築で合流
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1891年8月7日(23歳) ハーン・セツ・西田の3人で日御碕神社へ参拝
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1891年8月10日(23歳) 3人で杵築(出雲)大社を出発し、松江へ帰る
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1891年8月14日(23歳) 夫妻が鳥取県東伯郡琴浦町などを訪問(新婚旅行の行程として記載)
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1891年8月30日(23歳) 松江に帰着
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1891年11月15日(23歳) 松江を出発し、熊本へ向かう
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1893年11月17日(25歳) 長男・一雄が誕生
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1894年10月(26歳) 熊本を発ち、神戸へ転居
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1896年2月10日(27歳) ハーンが日本国籍を得て小泉家に入り「小泉八雲」と名乗る。
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1896年9月(28歳) 八雲が東京帝国大学 文科大学の講師になる
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1903年(35歳) 東京帝国大学を退職(後任に夏目漱石)
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1904年3月(36歳) 早稲田大学 文学部の講師に就任
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1904年4月(36歳) 『怪談(Kwaidan)』が出版される
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1904年9月26日(36歳) 小泉八雲が死去(心臓発作)
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1914年(46歳) 回想「思い出の記」が書籍に収められて出版
- 1932年2月18日(満63歳) 小泉セツが死去(脳溢血)
結婚はいつ?
二人の結婚がいつだったのか、実ははっきりした答えはありません。記録によって書かれている時期が少しずつズレているからです。
セツ本人の思い出:「1890年の12月に嫁いだに行った」
セツが書いた「思い出の記」には、1890年の12月に嫁いだとあります。
ただ、公式な記録を見るとハーンが松江にやってきたのはその年の8月末。出会ってからまだ数ヶ月しか経っていません。
「そろそろこの人の家に入ろう」と決めた時期だったのか、それとも後から振り返ったときに、少し記憶が前後してしまったのかもしれません。
一緒に暮らし始めた時期:1891年の2月ごろ
公式な記録でセツがハーンの家で働き始めたのは1891年の2月の初めごろとされています。
この年は記録に残るほどのひどい寒波がやってきて、ハーンも体調を崩して寝込んでしまいました。そこで、身の回りの世話をする人としてセツが呼ばれたのです。
夫婦としての生活:1891年の6月ごろ
1891年の6月にハーンは北堀町という場所へ引っ越しました。おそらくこのタイミングから二人は「夫婦」としての実質的な暮らしをスタートさせたと考えられます。
戸籍の手続き:1896年
それから5年後、ハーンは日本国籍を取るために「小泉八雲」になりました。このとき、セツの家に入る形で手続きをしたので、書類の上ではこの年が結婚した年になります。
とはいえ、これはハーンが日本人になるための手続き上の話。それよりもずっと前から二人の夫婦としての絆はしっかりと結ばれていました。
セツが八雲の仕事をどのように支えたのか
セツは八雲の妻というだけでなく、創作活動のパートナーでした。その中でも一番の功績はやはり「語り部」としての顔です。
彼女は子供のころに聞いた昔話や町で耳にした不思議な噂を自分の言葉で何度も八雲に聞かせました。セツが記憶をたどり、情感を込めて語り直したからこそあの名作「怪談」は生まれたのです。
ただ本棚から本を持ってきて「ここにこんな話がありますよ」と教えるような、事務的なことはしませんでした。彼女は一度その物語を自分の中でしっかり味わってから、自分の言葉で語り直して、夫に聞かせていたのです。
もう一つ、忘れてはいけないのが言葉の橋渡しです。
セツは八雲と意思疎通をするために、自分たちだけの単語帳を作っていました。八雲のたどたどしい日本語を優しく受け止めて、何を言いたいのかを確かめる。逆に自分の話が通じるように言葉を区切って分かりやすく伝える。
家事や育児の合間に、今の通訳者のような仕事を毎日根気強く続けていたのです。
八雲の創作活動においてセツの果たした役目は
- 話のネタを集めること。
- 物語として語り聞かせること。
- 言葉のズレを埋めること。
この三つを同時にこなした点にセツのすごさがあります。
八雲の死後はどのように暮らしたか?
1904年に八雲が急に亡くなると、セツは四人の子供を育てながら夫が残した作品と暮らしの記憶を守る決心をします。
八雲は遺言で、すべての財産を妻に譲ると決めていました。
そのおかげで住み慣れた東京の家と書斎を売らずに済み、セツはそこを守りながら子供たちを立派に育て上げました。作品の印税も家族を支える大きな助けになります。
さらにセツは夫との日々を自分の言葉で書き残しました。
のちに「思い出の記」として出版されるその文章には、夫婦の何気ない日常やお金がなくて苦労した話、取材旅行の舞台裏などが飾らずに綴られています。
それは作家としての小泉八雲がどのような環境でペンを走らせていたのかを伝える大切な証拠になりました。
セツは八雲が亡くなった後も
- 本と家を守ること。
- 四人の子供を自立させること。
- 思い出を形にして後世に伝えること。
という仕事を最後までやり遂げたのです。
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