小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生涯を年表形式でわかりやすく紹介

ラフカディオ・ハーンは『怪談』の作者。ギリシャ、アイルランド、アメリカ、マルティニークを経て日本に至り、明治期の庶民生活や怪談を英語で描いた作家として評価されました。

日本に帰化して「小泉八雲」と名乗り、『怪談』『知られぬ日本の面影』などを発表し日本文化を世界へ紹介しました。

この記事では彼の各地での体験と代表作の関係をたどり彼の生涯をわかりやすく紹介します。

この記事で分かること

  • 小泉八雲の生い立ちから日本での最期までの、年代順の流れ
  • アメリカやカリブ海での経験と「周縁の人々」への共感
  • 松江・熊本・神戸・東京それぞれの土地での記憶がどのように作品に影響しているか
  • 日本国籍取得や家族との生活を通じて「日本文化の語り手・橋渡し役」としての役割をどのように形作っていったか

 

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小泉八雲とは?

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850〜1904)は、ギリシャ生まれアイルランド育ちの作家・英文学者です。『怪談』『知られぬ日本の面影』『骨董』などで、日本文化を世界に紹介した「日本紹介者」として知られています。

幼少期に両親が離婚し、厳格なカトリック教育のもとで育てられた一方、本人はキリスト教の教義に馴染めませんでした。その反動から、神話・伝説・民話・民間信仰・アニミズムに強く惹かれていきます。

19歳で単身アメリカに渡ると、シンシナティやニューオーリンズで新聞記者として活動。クレオール文化やブードゥー教など「周縁の文化」を取材しながら、文章家としての地位を固めました。その延長線上に、日本文化との出会いがあります。

1890年に来日した八雲は、松江・熊本・神戸・東京と職場を移りながら英語教育に尽くし、多くの日本文化論・怪談集を執筆しました。1896年には日本に帰化して「小泉八雲」と名乗り、日本を終のすみかと定めます。

『雨月物語』や『今昔物語』などを題材にした再話文学のほか、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」といった怪談を英語で紹介した功績は大きく、今も海外の読者に強い印象を残しています。彼の作品は、日本人自身が見落としがちな明治期の風俗・信仰・心情を映し出す鏡にもなっています。

 

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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)年表

※西暦+そのときのおおよその年齢で並べています。


1850年(0歳)
・6月27日、イオニア諸島レフカダ島で誕生。
 父:イギリス軍医チャールズ・ハーン(アイルランド系)、母:ギリシャ人ローザ・カシマティ。

1852年ごろ(2歳)
・一家でアイルランド・ダブリンへ移住。ここで幼少期を過ごす。

1854年ごろ(4歳)
・父が西インドに赴任中、母が精神を病みギリシャへ帰国。
・両親はのちに離婚し、八雲は父方の大叔母サラ・ブレナンに引き取られる。
・厳格なカトリック教育を受け、かえってキリスト教に反発し、神話や民話・民間信仰に関心を深めていく。

1850年代後半(5〜9歳)
・大叔母とともに、夏はアイルランド・トラモアで過ごすのが慣例となる。

1860年代前半(10代前半)
・フランスの学校、続いてイギリス・ダラム大学セント・カスバーツ・カレッジで教育を受ける。

1865年(15歳)
・学校の回転ブランコで遊んでいる際、ロープの結び目が左目に当たり失明。
・以後、写真は右側からのみ撮らせるようになる。

1866年(16歳)
・父が西インドからの帰路で死去。
・大叔母の経済状況が悪化し始める。

1867年(17歳)
・大叔母が破産し、学業を中断してロンドンへ。生活が不安定になる。

1869年(19歳)
・リヴァプールから移民船でアメリカ合衆国へ渡航。ニューヨーク経由でシンシナティへ。
・所持金も少なく、ホームレス同然の状態からスタートする。

1870年代前半(20代前半)
・印刷屋ワトキンに拾われ、印刷技術を学ぶ。
・フランス語力と文章力を生かし新聞記者となり、ジャーナリストとして頭角を現す。

1872年(22歳)
・シンシナティの「トレード・リスト」紙副主筆となる。

1874年(24歳)
・「インクワイアラー」紙に入社。
・黒人女性マティ・フォリーと結婚(当時のオハイオ州では違法とされた異人種間婚で、周囲の反発も大きかった)。

1875年(25歳)
・マティとの結婚問題なども関係し「インクワイアラー」紙を退社。

1876年(26歳)
・ライバル紙「シンシナティ・コマーシャル」社に入社。

1877年(27歳)
・マティと別れ、シンシナティの環境悪化から逃れるためニューオーリンズへ移る。

1879年(29歳)
・ニューオーリンズの「アイテム」紙編集助手となる。
・同時に食堂「不景気屋」を経営するが失敗。

1882年(32歳)
・「タイムズ・デモクラット」紙文芸部長に就任。
・クレオール文化やブードゥー教などをテーマにした記事・随筆を多く執筆。

1884年(34歳)
・メキシコ湾のグランド・アイランドに滞在。
・ニューオーリンズ万国博覧会で日本の展示に感銘を受け、服部一三・高峰譲吉ら日本人と交流。
・日本文化への関心が決定的に高まる。

1887〜1889年(37〜39歳)
・フランス領マルティニーク島に滞在し、現地の生活や文化を取材・執筆。

1890年(40歳)
・雑誌「ハーパーズ」系の通信員として日本行きを決意。
・4月4日、横浜港に到着。直後に契約トラブルで通信員契約を破棄。
・一時は横浜の英国人学校で教えるがうまくいかず、失職状態に。
・服部一三の斡旋により、島根県尋常中学校・師範学校の英語教師に採用される。
・8月30日、松江に到着。山陰での生活が始まる。

1891年(41歳)
・1月、松江士族・小泉湊の娘 節子(セツ)が住み込み女中として八雲の家に入る。
・ほどなく惹かれ合い結婚(八雲にとっては再婚)。
・旧松江藩士・根岸家の屋敷を借り、新居とする(のちに「小泉八雲旧居」として保存)。
・11月、チェンバレンの紹介で熊本の第五高等中学校英語教師に転じ、家族で熊本へ移る。
・同年、長男・一雄誕生。

1894年(44歳)
・熊本を離れ、神戸の英字新聞「ジャパン・クロニクル」社に就職。神戸に転居。

1896年(46歳)
・東京帝国大学文科大学(英文学)講師に就任。
・日本に帰化し、「小泉八雲」と名乗るようになる(「八雲」は出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に由来)。
・東京・牛込区市谷富久町に転居。

1897年(47歳)
・次男・巌が誕生。

1899年(49歳)
・三男・清が誕生。

1901年(51歳)
・巌を妻セツの養家・稲垣家の養子とし、家を継がせる手続きをとる。

1902年(52歳)
・西大久保(現在の新宿区周辺)に転居。

1903年(53歳)
・東京帝国大学を退職(後任は夏目漱石)。
・長女・寿々子が誕生。

1904年(54歳)
・3月、早稲田大学講師として教壇に立つ。
・9月26日、狭心症のため東京・自宅で死去。満54歳。
・雑司ヶ谷霊園に埋葬される。


没後の主な出来事

1915年
・小泉八雲に従四位が追贈される。

1940年
・松江時代の旧居が国の史跡に指定される。

 

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生涯

ギリシャ生まれとアイルランドでの幼少期(1850〜1868年)

八雲は、イオニア諸島レフカダ島に生まれ、幼くしてアイルランド・ダブリンへ移りました。父は軍医として各地を転任し、母は精神を病んで帰国してしまい、家庭は早くから崩壊します。

彼を育てたのは、裕福だが信仰に厳しい大叔母でした。カトリックの教義を徹底的に叩き込まれた結果、むしろ教会に反発し、神話や民話、異教の宗教世界に強い関心を持つようになります。

15歳で左目を失明した経験も、のちの「闇」「片目」「異形」といったモチーフへの感受性を深めたと考えられます。光と影、人間の内面に潜む恐れや祈りを描く視線は、この時代に育まれたと言えるでしょう。

アメリカ移住とジャーナリスト時代(1869〜1889年)

経済的な行き詰まりから、八雲は19歳で移民船に乗り込み、単身アメリカへ向かいます。到着当初はホームレスに近い暮らしでしたが、印刷屋に拾われたことをきっかけに新聞の世界に足を踏み入れました。

フランス語の素養と文章力を買われ、シンシナティの新聞で副主筆を務めるまでに成長します。黒人女性との結婚を含む個人的な事情で職を失うこともありましたが、ニューオーリンズでクレオール文化やブードゥー教を取材し、「周縁に生きる人々の声」をすくい上げるルポを書き続けました。

マルティニーク島への長期出張では、植民地社会の現実や自然災害の恐怖を目の当たりにします。こうした体験は後年の作品にあらわれる「異国の宗教と精霊」「災厄と人間の心」といったテーマへとつながっていきます。

 

日本との出会いと松江・熊本時代(1890〜1894年)

1880年代後半、万国博覧会や友人たちの話を通じて、八雲は日本文化に強く惹かれていきます。古事記の英訳を読んだことも、日本行きを決断する大きなきっかけとなりました。

1890年4月、40歳で横浜に到着した八雲は、すぐに通信員契約を失うという不運に見舞われます。そこで、かつてアメリカで知り合った服部一三の尽力により、島根県尋常中学校・師範学校の英語教師として松江へ赴任しました。

松江では士族の娘・セツと出会い、結婚して家庭を築きます。武家屋敷の旧宅での暮らし、日本海側の厳しい冬、人々の素朴な信仰や妖怪譚との出会いが、『知られぬ日本の面影』やのちの怪談作品の源泉となりました。その後、熊本の第五高等中学校へ転任し、長男一雄も生まれます。

 

神戸・東京時代と日本国籍取得(1894〜1904年)

熊本での教職を終えた八雲は、神戸の英字新聞社で働いたのち、1896年に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就任します。同年、日本国籍を取得し、自らの居住地である出雲国にちなむ「小泉八雲」という名を与えられました。

東京では、英文学教育に携わる一方で、日本文化論・随筆・怪談集を精力的に発表します。『怪談』『骨董』など、今日も読まれる代表作の多くがこの時期に書かれました。家庭では次男巌、三男清、長女寿々子と子どもが増え、セツは「ヘルンさん言葉」を唯一理解できるパートナーとして、夫の創作活動を支えます。

1903年には東京帝大を退職し、後任には夏目漱石が就きました。1904年、早稲田大学で講義を続けていた最中に狭心症で倒れ、54歳で生涯を閉じます。墓所は東京・雑司ヶ谷霊園にあり、今も多くのファンが訪れています。

 

代表作と執筆時期の関係(簡単整理)

小泉八雲は日本滞在の期間中を通して執筆活動を行いました。でも最初から怪談話を書いていたわけではありません。時期によっても作品の趣が異なります。

  • 松江・熊本時代:地方での生活体験をもとに、日本の風景・信仰・生活を描いた随筆が増える。
  • 神戸・東京時代:怪談や民話を再話した作品がまとまり、『怪談』『骨董』などが刊行される。

それぞれの作品が「どの土地の記憶」を反映しているかを押さえておくと、年表と作品を一緒に味わえる。

名前の変遷と国籍の変化

  • 出生名:パトリック・ラフカディオ・ハーン
  • 通称:ラフカディオ・ハーン
    ファーストネームの「パトリック」はほとんど用いていません。キリスト教嫌いのため、聖人から名前をとった「パトリック」が気に入らなかったといわれます。
  • 松江では「ヘルン」と呼ばれていました。
  • 帰化後の名前:小泉八雲

「ラフカディオ(レフカディオ)」は生地レフカダ島に由来するミドルネームで、「ハーン」はアングロ・ノルマン系の姓です。

日本名「八雲」は『古事記』に登場する和歌「八雲立つ」にちなみ、小泉セツの祖父が選んだと伝えられています。

 

家族から見た小泉八雲の年表

1891年:松江でセツと出会い結婚。

1891年:長男・一雄誕生。

1897年:次男・巌誕生(のちに稲垣家を継ぐ)。

1899年:三男・清誕生。

1903年:長女・寿々子誕生。

セツは英語が話せず、八雲は日本語が達者ではなかったため、夫婦の会話は独特の「ヘルンさん言葉」でした。この言葉を理解し、周囲に通訳できたのはセツだけで、次男の巌は『父八雲を語る』でその姿を温かく振り返っています。

 

まとめ:年表から見える小泉八雲の特徴

多文化を渡り歩いた「境界人」

ギリシャ・アイルランド・アメリカ・カリブ海・日本と、複数の世界を体験したことで、どの文化も「外から」冷静に観察する目を持っていました。

周縁の人々への共感

黒人社会、クレオール、ブードゥー教、そして日本の庶民や怪談。いつも主流ではない人々や物語に耳を傾け、その声を文章に残しました。

日本文化を世界に伝えた橋渡し役

明治の日本人にとって「当たり前」だった怪談や信仰を、英語で丁寧に描き出し、世界に紹介しました。現在も『怪談』を通して日本文化に触れる海外読者は少なくありません。

 

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