松平武元:吉宗・家重・家治に仕え田沼とともに改革を行った老中の史実

松平武元(まつだいら たけちか)は徳川吉宗、家重、家治の三代将軍に仕えた人物。

江戸時代中期、幕政の中枢を担い、徳川家治に深く信頼された老中です。

松平武元は親藩出身。老中として活躍し徳川家治の治世を支えました。重商主義を推進し、田沼意次とともに数々の改革を行いました。中山道伝馬騒動では冷静な判断で事態を収束させました。

この記事では以下のことがわかります。
  • 松平武元の生涯と経歴: 生い立ちから幕政の中心人物としての活躍、晩年まで。
  • 幕政改革への貢献: 重商主義、株仲間の育成、新貨幣の発行など具体的な政策。
  • 徳川家治との関係: 「西丸下の爺」と呼ばれるほど深い信頼関係にあった二人の関係。
  • 中山道伝馬騒動における役割: 危機的な状況を冷静に判断し事態を収束させたエピソード。
  • 晩年と死後: 老中を辞めようとした晩年や、死後の幕府の変化。

 

松平武元とはどんな人?

松平武元は、江戸時代中期に活躍した大名で幕政の中枢を担った人物です。

生誕: 享保4年1月11日(1719年3月1日)
没年: 安永8年7月25日(1779年9月5日)
出身: 常陸国府中藩第3代藩主・松平頼明の四男として誕生
家系: 越智松平家

家族

父:松平頼明
母:婉(林氏)
養父:松平武雅
子供:
武寛、戸田氏教、松平忠泰正室、房姫、
安藤信成正室、松平忠済正室、森忠興正室、泰、侶姫ら
 

8代 徳川吉宗の時代

松平武元は1719年(享保4年)に常陸国 府中藩の藩主の家に生まれました。幼い頃に養子縁組により上野国 館林藩の藩主となり。その後、陸奥国 棚倉藩 5万4千石へと国替えになりました。

その後は者番、寺社奉行、主計頭を歴任しました。

9代 徳川家重の時代

延享2年(1745年)徳川家重が将軍に就任。

吉宗は存命。大御所として家重をサポートしていました。

 

延享3年(1746年)。江戸城西の丸を取り仕る西丸老中に就任。再び館林藩 5万4千石に国替えになりました。徳川家治に仕えます。

吉宗は次の将軍として孫の家治に期待していました。その家治を任せたのも松平武元への信頼が厚かったからでしょう。

延享4年(1747年)。老中に就任。

宝暦元年(1751年)大御所・徳川吉宗が死去。

家重は父・吉宗の遺志を継ぎ武元を信頼し政治を任せたと言われています。家重は病弱だったため政治の実務は武元をはじめとする老中たちに委ねられており、武元の経験と能力は家重の治世を支える上で欠かせないものとなりました。

ただし家重の晩年は病状が悪化。言語が不明瞭になり大岡忠光しか聞き取れなくなったため側用人制度を復活。大岡忠光が将軍と老中の取次役となりました。

 

10代 徳川家治の時代:西丸下の爺

老中首座になる

宝暦10年(1760年)。家重が死去。家治が将軍就任。

松平武元老中首座になりました。家治の時代に側用人になったのは田沼意次です。

 

徳川家治との深い絆

武元が特に深い関係を築いたのは十代将軍徳川家治です。

家治将軍は若くして将軍になったため政治の経験が少なく多くのことを武元に頼っていました。武元は老中首座となり家治を支えました。

武元は家治将軍のことをまるで孫のように優しく思っており、政治のアドバイスをしたり、時には厳しく叱ったりしながら家治将軍が立派な将軍になれるよう温かく見守っていました。

西丸下の爺

家治将軍はそんな武元を「西丸下の爺」と呼び慕っていました。

幕政改革への貢献:松平武元の政策

松平武元は老中として幕政改革に大きく貢献、江戸時代の経済や社会に大きな影響を与えました。

重商主義と殖産興業政策

吉宗の時代末期から家重の時代にかけて、年貢による収入増に限界を感じた幕府は新しい税の取り方を模索。重商主義的な政策を進めます。

すでに吉宗の時代から新しい産業を起こして収入を得る方法が研究されていましたが。家重・家治の時代にさらに進めました。

重商主義
米や農産物ではなく商業を発展して税収を増やそうという政策。田沼意次によって進められたと言われることがありますが。実際には田沼以前から行われています。その中心になっていたのが松平武元です。

幕府の専売制

国産化に成功した人参を幕府の専売制にするなど、銅、鉄、真鍮、朱などを幕府の専売制にしました。

田沼意次との協力関係

明和6年(1769年)。田沼意次が老中格となり、3年後には老中に就任。松平武元は田沼意次と緊密に協力し幕政改革を推進しました。

俗に「田沼時代」とよばれる時代の到来です。

田沼意次はさらに民間資本を活用した重商主義的な政策を推進。武元は田沼とともにその実現に尽力しました。

具体的な政策とその影響

株仲間の育成:

武元は商工業の発展を促進するため、株仲間の育成を奨励しました。株仲間は享保の改革で制度化されましたが、家治の時代にさらに範囲を拡大。全国に広めます。

株仲間
商業の安定化を図るため特定の商人に販売権の独占などの特権を与え、その見返りとして幕府に上納金を納める仕組み。

 

五匁銀の発行

明和2年(1765年)。金銀交換レートの安定化を目指して五匁銀が発行されました。江戸時代で額面が固定された唯一の貨幣です。しかし実際の銀の価値と交換レートが合わず、かさばって不便なこともあり両替商や市場に受け入れられず数年で回収されました。

南鐐二朱銀の発行

五匁銀の失敗を受けて発行されたのが南鐐二朱銀です。8枚で小判1両の交換できるというもの。これも両替商の抵抗がありましたが、優遇措置をとるなどして普及を図りました。

武元は、貨幣制度の改革を行い南鐐二朱銀という新しい貨幣を発行しました。この貨幣は、従来の貨幣よりも安定した価値を持つものであり、経済活動の円滑化に貢献しました。

新貨幣発行の目的

こうした新貨幣の発行は改鋳による利益を出すのが第一の目標です。同じ額面でも金や銀の含有率を減らせばその分幕府の利益が出るからです。

小口の貨幣大量に流通させ、両替の手間を省いて取り引きを増やす目的もあったとされます。しかし両替商の反発もありました。

松平武元は田沼意次との協力のもと数々の政策を推進し、江戸時代の経済や社会に大きな影響を与えました。

中山道伝馬騒動と松平武元の冷静な判断力

騒動の発端

江戸時代。幕府は全国各地を結ぶための重要な道路として五街道を整備。街道沿いには宿場町がいくつも作られました。宿場町は旅人が宿泊したり馬や人を交換したりする場所として機能しました。

宿場周辺の村には人や馬を提供させる制度が作られました。 これが「助郷制度」です。家重から家治の時代。幕府は周辺住民への負担を増やしました。

明和元年(1764年)。中山道沿いの農民たちが増助郷という新たな負担に反発。大規模な一揆を起こしました。参加人数は10万とも20万ともいわれます。もし一揆勢が江戸になだれ込めば大変なことになります。

この危機的な状況下で老中として活躍したのが松平武元です。

武元の解決策

幕府は一揆側の要求を聞き入れ、松平武元は増助郷の中止という決断を下しました。一見すると幕府の威信を傷つけるように思えます。しかし武元は武力で鎮圧すれば、かえって事態が悪化し幕府の統治が揺らぐことを恐れていました。

しかし、譲歩した後も収まらず暴徒化した人々が打ち壊しを行ない中山道がマヒしました。そのため幕府は各村の代表を処分、とくに名主・遠藤兵内を処刑して一揆の沈静化をはかりました。

対応を間違えば大規模な争いになるところでしたが。松平武元は住民の要求をのみ、それでも破壊活動を行う場合には断固とした態度で挑みました。ただし代表者の処分に留めるという比較的穏便な方法でこの危機を乗り越えました。

松平武元の最後

老中の職を辞めようとした晩年

長きにわたり幕政の中枢を担い徳川家治の信頼も厚かった松平武元ですが、晩年には老中の職を辞めようとする動きが見られました。長年の政務に疲弊していたことや、後進に道を譲りたいという思いが背景にあったと考えられます。

しかし家治は武元の引退を惜しみ引き留めました。家治にとって武元の存在は不可欠だったのです。

安永8年(1779年)7月25日。松平武元が死去。享年61。

武元は死ぬまで老中首座にありました。

墓所は東京都荒川区東日暮里の関妙山善性寺にあります。

武元の死後、幕府はどのように変化していったのか

武元の死後。幕府の権力は田沼意次に集中。田沼意次は周囲を自分の息のかかった者でかため、自分の地位も息子に譲ろうとします。

田沼意次の独裁的な行いを止められる者はいません。そのため周囲の反発を受けました。

さらに天明の飢饉が起きても幕府は有効な対策を打つことができず民衆の不満は高まります。

 天明6年8月25日(1786年)。将軍・徳川家治が死去。すると幕府への不満を一身に受ける形で田沼意次が失脚することになります。

松平武元のような親藩出身で老獪な政治家が幕府にいれば、幕府や田沼意次への批判は違ったものになったのかもしれません。

 

まとめ

松平武元は徳川吉宗、家重、家治の三代に仕え、特に家治との関係は深く「西丸下の爺」と呼ばれていました。重商主義を推進、株仲間の育成や新貨幣の発行など幕政改革に大きく貢献しました。

武元の死後、幕府は田沼意次の独裁的な政治へと移行。それまでの政策への不満や飢饉対策の遅れから民衆や周囲の不満が爆発。田沼意次が失脚しました。

近年では逆に田沼意次を持ち上げるあまり松平武元を古い勢力の代表、賄賂政治家と表現することもありますが。それも公平な評価とはいえません。

松平武元は田沼意次より先に重商主義的な政策を行い、田沼意次とともに改革を行うようになってからは独断的な田沼意次のブレーキ役として共に政治を行いました。よき仲間といえます。

ドラマ

・八代将軍吉宗 1995年、NHK大河ドラマ、演:香川照之
・大奥 2024年、フジテレビ 演:橋本じゅん
べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜 2025年、NHK大河ドラマ、演:石坂浩二

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました