三好三人衆とは?ドラマではわからない三好政権を支えた三人の実力者の実像

三好三人衆とは、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三人のことです。三好長慶の死後、若い当主 三好義継を補佐し都の政治や軍事を主導した重臣グループでした。

三人はそれぞれ異なる立場から三好政権を支え、畿内の政治を動かしました。

戦国時代を題材にしたドラマや小説では、三好三人衆はあまり良い描かれ機はしません。将軍を殺した側の人物、信長に敗れる敵、小物の悪役のように描かれることが多いです。

しかし実際の歴史を見ると、このイメージはかなり単純化されています。
三好三人衆は三好長慶の死後も畿内で大きな影響力を持ち、将軍擁立にも関わり、足利義昭政権や織田信長と正面から争った勢力でした。

ここでは三好三人衆とは何者だったのか、三好義継や松永久秀との関係、そして信長との対立までを紹介します。

この記事で分かること

  • 三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の人物像
  • 三人が三好政権の中で担っていた役割の違い
  • 三好長慶の死後、三好政権がどのような体制になったのか
  • 足利将軍家や松永久秀との関係と三好政権の変化

 

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三好三人衆とは誰?

三好三人衆とは、三好長逸(みよし ながやす)三好宗渭(みよし そうい)岩成友通(いわなり ともみち)の三人のことです。

いずれも三好長慶に仕えた人物で。永吉存命中から三好政権を支える有力者でした。

永禄7年に長慶が死去すると若い三好義継(みよしよしつぐ)が家督を継ぎました。義継は13歳と若く、長慶の兄弟たちも皆亡くなっています。

そこで長逸・宗渭・友通が三好三人衆が義継を後見する形となって政権運営を行うようになりました。

つまり三好三人衆は長慶政権を支えた実務と軍事の中心層が、そのまま長慶死後の三好政権を動かす立場になった集団といえます。

 

三好長逸(みよし ながやす)とは

三好家親族代表

  • 名前:三好長逸(みよし ながやす)
  • 別名:北斎宗功(ほくさい そうこう)
  • 生年:永正13年(1516年)
  • 没年:不明

三好長逸は三好長慶の叔父にあたる人物。三好一族の重鎮。親族を代表する立場にありました。

長慶の死後には三好義継を支える後見役の一人となり、三好政権の中心的な人物となります。

軍事面でも長逸は畿内の戦いに継続して関わりました。永禄の変や本圀寺の変、さらに野田・福島の戦いでも三好三人衆の一角として行動しています。

このことから、長逸は名目上の宿老ではなく、三好政権の軍事と政治の両方に関わる実力者だったことが分かります。三人衆の中でも三好宗家とのつながりが最も強い人物です。

 

三好宗渭(みよし そうい)とは

三好一門で細川管領家に最も近い人物

  • 名前:三好政生(みよし まさなり)
  • 別名:釣竿斎 宗渭(ちょうかんさい そうい)
  • 生年:不明
  • 没年:永禄12年5月3日(1569年5月28日)または慶長20年5月7日(1615年6月3日)

三好宗渭は畿内で活動している三好一族の一人。細川晴元や足利義輝に従って三好長慶・松永久秀とは対立していましたが。義輝が京から追い出され長慶が京の支配権を握ると長慶に降伏。以後は三好家の勢力拡大に貢献しました。

長慶死後に出家して釣竿斎 宗渭と名乗り、歴史上は三好宗渭として知られます。

旧細川政権の人脈ともつながりが深いため。三好政権は武力だけでなく、京都の政治や都市勢力との関係を調整する必要がありました。そうした中で三好宗渭は調整能力を発揮しました。

 

岩成友通(いわなり ともみち)とは

松永久秀と並ぶ家臣団の出世頭

  • 名前:岩成友通(いわなり ともみち)
  • 生年:不明
  • 没年: 天正元年8月2日(1573年8月29日)

岩成友通は三好家臣団を代表する有力者でした。長慶が畿内で採用した家臣の中では松永久秀とともに最も地位の高い人物です。

長慶時代の友通は軍事面での活躍が目立ち、細川晴元や筒井順慶、六角義賢がとの戦いで活躍しています。

長慶死後も長逸や宗渭とともに軍事面から義継を支えました。

 

三好三人衆の役割

三好長逸・三好宗渭・岩成友通は「三好三人衆」と一括りにされることが多く、事実『言継卿記』や『多聞院日記』など当時の記録でも「三人衆」と書かれてていましたが。三人の立場や役割は違っていました。

  • 三好長逸:三好宗家に近い一門の重鎮
  • 三好宗渭:旧細川政権の人脈と都市勢力につながる人物
  • 岩成友通:家臣団を代表する実務と軍事の中心人物

という違いがあります。こうした役割は長慶時代から続いており、誰か一人が圧倒的な力をもつ事はありませんでした。そのため長慶死後も、それぞれが違う立場から三好政権を支えていたのです。

 

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三好長慶の死後の三好方三人衆

は松永親子とともに義継を支える立場

三好長慶の死後、三好家の家督は甥の義継が継ぎましたが。13歳と若すぎます。長慶を支えた兄弟たちもすでに他界。

そのため長慶を支えていた三好長逸・三好宗渭・岩成友通・松永久秀・松永久通が義継を補佐する体制となりました。

長慶死後の三好家の関係は以下の通り

  • 三好義継:三好宗家当主
  • 三好三人衆:京都政治を掌握する重臣グループ
  • 松永久通:松永家当主・父に代わり中央で活動
  • 松永久秀:中央からは退き領地の大和を拠点に活動

つまり三好政権は一人の指導者の下でまとまった体制ではなく、複数の有力者が並ぶ連立のような形になっていたのです。

この状況は、信長死後の織田家に少し似ています。

若い当主はいても実際の運営は古くからの重臣たちが協力して行います。しかし強力なリーダーのいない組織は重臣たちが対立して崩壊することもあります。

 

義輝殺害までは義継と三人衆は協力していた

長慶の死後、三好家の権威は低下。それに対して将軍・足利義輝が権威復活を目指し二条城増築など活発な活動を開始していました。

この時期の三好三人衆と三好義継・松永親子の間に表だった対立は見られません。

松永久秀・三好義継との対立

転機は足利義輝殺害(永禄の変)

しかし永禄8年(1565年)5月。三好義継や三好三人衆、松永久通は1万の軍勢を引き連れて上洛。二条御所にいた義輝を襲撃、殺害しました(永禄の変)。

彼らが義輝を討った理由は諸説あり、はっきりとはしません。

三人衆と松永久秀の対立

このとき松永久秀は大和にいて参加はしていません。大和にいた足利義昭を幽閉しますが逃げられてしまいます。

さらに反三好勢力により、久秀の弟・内藤宗勝が戦死・丹波の支配を失ってしまいます。

三人衆は失態続きの松永久秀を見限るよう三好義継に要求。義継も認めます。松永親子は三好家とたもとを分かち反三好陣営につきました。

この時点では三好義継を中心に三人衆が彼を支えていました。

足利義栄を担ぎ出す

幕府関係者と大名の間で足利義昭が次の将軍候補として注目される中。

三人衆は阿波三好家と連携して徳島にいた足利義栄の将軍就任を急がせました。

義栄を担ぐ阿波三好家の篠原長房が2万5千の四国勢を引き連れ、畿内に上陸。三人衆も足利義栄を将軍候補として迎え入れます。

 

義継が三人衆から離反・松永側につく

しかしこれに不満をもったのが三好義継でした。三好三人衆は足利義栄が主君であるかのような扱いをします。

三好義継は自分が主導的な立場で幕府の政治に関わりたかったようですが、足利義栄を強く推す阿波三好家の登場で義継の立場が弱くなってしまいました。

そこでそそのかされたこともあり、義継は三人衆のもとを離れて松永久秀と合流してしまいます。

ここで三好陣営の中でも誰を次の将軍にするかで立場の違いが出ました。

  • 足利義栄:三好三人衆・阿波三好家
  • 足利義昭:三好義継・松永親子

やがて、三好三人衆と阿波三好勢は大和の筒井順慶の協力を得て東大寺に陣を置き松永久秀を攻撃。このとき松永久秀の夜襲で東大寺大仏殿が消失。三人衆は撤退します。

14代 将軍 足利義栄 と短かった三好の天下

14代将軍 足利義栄の誕生

足利義栄と三人衆は朝廷へはたらきかけを続け。

永禄11年(1568年)2月6日。足利義栄が征夷大将軍に任命されました。

ついに三好三人衆と阿波三好家の推す将軍が誕生したのです。

その後も、三人衆は畿内では松永親子と対立しつつ、近江の六角義賢や美濃の斎藤龍興、紀伊国の国人衆、高野山等と連携して足利義昭陣営に対抗します。

 

織田信長の上洛

しかし足利義昭は織田信長を頼り美濃に向かいました。

以前から織田信長は上洛を要請されていたのですが、美濃の斉藤氏との戦いで上洛はできませんでした。しかし信長は斎藤龍興を破り、美濃を手に入れると上洛を決定。

永禄11年(1568年)9月7日。信長は軍を率いて京に向かいます。途中、三好三人衆と同盟を結んだ六角氏を破りました。

畿内の三好三人衆も織田軍と抗戦しますが、

このころ足利義栄が病死。三好方の国人衆や幕府要人も次々と織田信長に寝返ります。

三好長逸・三好宗渭は城を落とされると早々と退却。勝竜寺城を居城とする岩成友通は強く抵抗しましたが。勝竜寺城を落とされると撤退します。

そして10月18日。織田信長に守られた足利義昭は15代征夷大将軍となりました。

三好三人衆の天下は短いものでした。

一旦は四国に退き反撃の機会を待つ

三好三人衆はここで織田軍に徹底抗戦するのではなく、戦力を温存。足利義栄の弟・足利義助らとともに四国へと向かい立て直しをはかります。

彼らはまだ諦めていませんでした。

体制を立て直しつつ反撃の機会を待っていたのです。

そして織田信長が京から離れた隙を狙って再び都へと攻め上り、本圀寺の変が発生します。

この続きは 本圀寺の変 とは? 足利義昭暗殺の危機で詳しく紹介ししています。

 

まとめ

三好三人衆は戦国時代の畿内政治を理解するうえで欠かせない存在です。

三好長慶という強力な指導者を失ったあと、政権を支える実力者として活動しました。彼らは長慶の築いた勢力も維持しようとしたのです。

また三人は同じ立場の重臣として語られることが多いものの、実際には三好宗家との関係、京都政治とのつながり、軍事面での役割など、それぞれ異なる立場を持っていました。

こうした違いを知ると三好政権が単純な主従関係ではなく、多くの有力者によって支えられていたことが分かります。

そして三好三人衆の動きはやがて松永久秀や足利義昭、さらに織田信長の上洛へとつながる畿内の大きな政治の流れにも関わっていきます。

ドラマや創作物では悪役・小物として描かれがちな三好三人衆ですが、戦国時代の転換点を理解するうえでも三人衆の存在は興味深い存在といえます。

 

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