織田信長 年表・主な合戦と生涯の流れが一目で分かる

織田信長の生涯は有名な出来事が多いぶん、「結局どれがいつ起きたのか」が迷いやすいですよね。

この記事では桶狭間・上洛・比叡山・長篠・本能寺といった定番の事件を押さえつつ、信長の歩みを年表(数え年)で年表にしました。

ドラマや小説の場面を思い浮かべながら、尾張統一から天下人へ向かう流れまで、順番で追えるようにまとめました。

 

この記事で分かること

  • 信長の人生を「いつ何が起きたか」で追える詳細年表(数え年)
  • 桶狭間〜美濃平定〜上洛〜包囲網崩し〜本能寺までの時系列の流れ
  • ドラマで頻出の出来事が年表のどこに入るか、整理できる
  • 「革新者」像と近年の見直し点を、年表の出来事と結びつけて理解できる

 

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織田信長とは

織田信長プロフィール

生年:1534年(天文3年)

没年:1582年(天正10年)

出身:尾張国

父:織田信秀 母:土田御前

 

織田信長は従来の説やドラマでの描かれ方と現代の学説では違う部分があります。

かつての信長像:「革新者」

  • 古い価値観・制度を破壊する。
  • 楽市・楽座・関所の廃止など画期的な政策を初めた。
  • 鉄砲を使い戦い方を変えた
  • 「天下布武」を掲げて日本統一を目指した
  • 古いしがらみを廃して実力主義の人材登用を貫いた
  • 神や仏を恐れない無神論者

 

最近よく言われる信長像:「全部を最初に始めた人」ではない

  • 楽市・楽座・関の廃止は信長が初めたのではありません。先に行っている大名は何人もいます。
  • 天守閣付きの城、鉄砲の大量導入も信長が最初ではない。
  • 「天下布武」は「武力で日本統一」を宣言するものではない可能性が出てきた。
  • 信長は朝廷や幕府、寺社勢力など古い勢力とも協力。必要な時は手を組み、勅命や和睦も使って戦を進めました。
  • 家柄にこだわらない実力採用は信長以前の戦国大名もやっている。
  • 現場の指揮や開拓は新規採用者に行わせ、仕上げの段階は血縁者で固めることが多い。

などの学説が出ています。確かに信長は新しい者が好きで積極的に取り入れましたが、意外と室町時代から続く武家の価値観で生きてる部分も多いです。

 

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ドラマや小説によく出る出来事

詳しい年表を見る前に。ドラマや小説で出て着やすい大きな出来事を一覧にして紹介します。どの出来事がいつごろ起きたのか知っておきましょう。

  • 1560年(永禄3年・27歳)桶狭間の戦い:今川義元を討ち取り、一気に名が広まります。

  • 1567年(永禄10年・34歳)美濃平定:稲葉山城を落とし、拠点を岐阜へ移します。

  • 1568年(永禄11年・35歳)上洛:足利義昭を連れて京都へ入り、将軍にします。

  • 1571年(元亀2年・38歳)比叡山焼き討ち:延暦寺を焼き討ちします。

  • 1573年(天正元年・40歳)義昭追放:将軍が京都を追われ、幕府は終わったと見られます。

  • 1575年(天正3年・42歳)長篠設楽原の戦い:織田・徳川が武田軍を破ります。

  • 1578年(天正6年・45歳)第二次木津川口:九鬼水軍が毛利水軍を退けたとされます。

  • 1581年(天正9年・48歳)第二次天正伊賀の乱:信長側が大軍で伊賀へ侵攻します。

  • 1582年(天正10年・49歳)本能寺の変:明智光秀の急襲で最期を迎えます。

 

織田信長 年表(詳細版・数え年)

織田信長の生涯を、ドラマの流れを追いやすい形で紹介します。

※年齢はすべて数え年(1534年生まれ=この年1歳)です。

誕生〜尾張をまとめるまで

  • 1534年(天文3年・1歳)
    尾張国で生まれます。幼いころの名前は吉法師(きっぽうし)。

  • 1546年(天文15年・13歳)
    元服して大人の仲間入りをし「三郎信長」と名乗ります。

  • 1548〜1549年ごろ(天文17〜18年ごろ・15〜16歳)
    織田家は美濃の斎藤道三と手を結びます。
    その証として、信長は道三の娘・濃姫(帰蝶)を正室として迎えました。

  • 1552年(天文21年・19歳)
    父・織田信秀が亡くなり、信長が家督を継ぎます。
    ※信秀の没年は天文18年・20年とする説もあります。

  • 1552年(天文21年・19歳)
    清洲方との争いが激しくなり、萱津(かやづ)の戦いなど合戦が続きます。

  • 1553年(天文22年・20歳)
    重臣の平手政秀が自害します。
    信長は政秀を弔うために政秀寺を建てたと伝えられます。

  • 1554年(天文23年・21歳)
    村木城の戦いで今川方の軍勢を破り、尾張での力を強めます。

  • 1555〜1556年(弘治1〜2年・22〜23歳)
    織田大和守家を打ち破り、清洲城を自分の勢力下に置きます。

  • 1556年(弘治2年・23歳)
    稲生(いのう)の戦いで弟・信勝(信行)と争い、信長側が勝利します。

  • 1558年(永禄元年・25歳)
    再び謀反を起こした信勝を討ち取り、一族同士の争いに決着をつけます。
    ※信勝を討った年は1557年とする説もあります。

  • 1559年(永禄2年・26歳)
    およそ500騎を引き連れて上洛し、13代将軍・足利義輝に目通りします。
    「尾張の新しい実力者」として自分を認めさせようとした動きと見られます。

 

桶狭間〜美濃平定

  • 1560年(永禄3年・27歳)
    桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、周辺の大名たちから一気に名を知られるようになります。

  • 1561年(永禄4年・28歳)
    美濃へ攻め入り戦を重ねます。
    北近江の浅井長政と同盟を結び、妹・お市を長政に嫁がせます。

  • 1562年(永禄5年・29歳)
    三河の徳川家康と手を結び、互いに助け合う関係になります。
    ※のちに「清洲同盟」と呼ばれますが、いつ・どの段階で同盟とみなすかは諸説あります。

  • 1563年(永禄6年・30歳)
    美濃を攻めやすくするため居城を小牧山城へ移します。
    ここから美濃攻略の体制づくりが進みます。

  • 1565年(永禄8年・32歳)
    犬山城主・織田信清を破り、尾張一帯の支配がいっそう進みます。

  • 1566年(永禄9年・33歳)
    中濃地方の領主たちを攻め、稲葉良通・氏家直元・安藤守就ら「西美濃三人衆」を味方に引き入れます。

  • 1567年(永禄10年・34歳)
    稲葉山城の戦いで斎藤龍興を追い払い美濃を手に入れます。
    城下町「井ノ口(いのくち)」の名前を「岐阜」に改め、本拠地を岐阜城へ移します。

 

義昭を奉じて上洛(京都での主導権争い)

    • 1568年(永禄11年・35歳)
      亡命していた足利義昭をかついで上洛します。
      六角氏などを破って京都を押さえ、義昭を15代将軍にします。

    • 1569年(永禄12年・36歳)
      将軍・義昭の政治の進め方を定めた「殿中御掟」が出されます。
      幕府の運営ルールが文章として示され、信長が将軍の動きに口を出し始めたことが分かります。

    • 1570年(元亀元年・37歳)
      越前の朝倉義景を討つために出陣しますが、同盟相手だった浅井長政が裏切り、挟み撃ちにされて金ヶ崎から命からがら退きます(「金ヶ崎の退き口」)。

    • その後の姉川の戦いでは、浅井・朝倉の連合軍を打ち破ります。

    • 1571年(元亀2年・38歳)
      比叡山延暦寺を攻め、山上や坂本一帯を焼き討ちにします。
      同じ頃、伊勢長島の一向一揆とも戦いが続きます。

    • 1572年(元亀3年・39歳)
      甲斐の武田信玄が西へ進軍し、徳川領へ攻め込みます。
      三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は大敗し、家康が命からがら浜松城へ逃げ帰った話は有名です。

  • 1573年(天正元年・40歳)
    足利義昭が諸勢力と組んで信長に対抗しますが戦いに敗れ、京都から追放されます。
    一般には、この義昭追放をもって室町幕府の終わりとみなされています。

 

「天下人」へ(包囲網を崩していく)

  • 1573年(天正元年・40歳)
    越前の朝倉義景を攻め滅ぼし、その勢いで小谷城も落として浅井長政らを追い詰めます。
    浅井家は滅亡し、北近江は信長の支配下に入ります。

  • 1574年(天正2年・41歳)
    第三次長島攻めを行い、伊勢長島の一向一揆を徹底的にたたいて鎮圧します。

  • 1575年(天正3年・42歳)
    長篠の戦いで、設楽原(したらがはら)に鉄砲隊を並べて武田勝頼軍を破ります。
    このころ、嫡男・信忠に織田家の家督と岐阜城をゆずり、自身は近江の安土城の築城を始めます。

  • 1576年(天正4年・43歳)
    大坂の石山本願寺との戦いが激しくなり、第一次木津川口の戦いで信長方の水軍は毛利水軍に敗れます。そのため、九鬼嘉隆に大型の安宅船を作らせることを命じます。

  • 1578年(天正6年・45歳)
    第二次木津川口の戦い(海戦)が行われ、九鬼水軍が毛利水軍を打ち破ったとされています。石山本願寺包囲戦の行方にも大きく関わる海の戦いです。

  • 1579年(天正7年・46歳)
    完成した安土城に移り。政治の中心が安土へ移ります。
    同じころ、伊賀の地では第一次天正伊賀の乱と呼ばれる戦いが起きた時期にあたります。

  • 1580年(天正8年・47歳)
    長く対立していた本願寺が大坂の拠点を明け渡し、石山合戦が大きく進展します。
    同時に古くからの重臣を追放するなど、家中の入れ替えも進めます。

  • 1581年(天正9年・48歳)
    第二次天正伊賀の乱が起こり、信長方は大軍を送り込んで伊賀を攻めます。伊賀国の勢力は大きく打ち砕かれ、織田方の支配が強まります。

 

甲州征伐〜本能寺

  • 1582年(天正10年・49歳)2〜3月
    甲州征伐を行い、織田・徳川・北条などの連合軍が武田領に攻め込みます。
    高遠城が落ちたあと、武田勝頼・信勝父子は田野で自害し、武田氏は滅亡します。

1582年(天正10年・49歳)5月29日
中国方面の戦いに向けて出陣準備を進めていたころ、
信長は少数の家臣だけを連れて上洛し、本能寺に宿泊します。
嫡男の信忠は別行動で堺から上洛し、二条御所に入ります。

1582年(天正10年・49歳)6月2日(本能寺の変)
明智光秀が突然軍勢を返して本能寺を取り囲み、夜明け前に襲撃します。
信長はわずかな手勢で応戦しますが、多勢に押され、自ら火を放って自害したと伝えられます。
二条御所にいた信忠も光秀軍に攻められ、自害して果てます。

  • 1534年(天文3年・1歳):尾張国で誕生。幼名は吉法師。

  • 1546年(天文15年・13歳):元服し「三郎信長」と名乗ります。

  • 1548〜1549年ごろ(天文17〜18年ごろ・15〜16歳):織田家が斎藤道三と和睦、濃姫(帰蝶)と結婚します。

  • 1552年(天文21年・19歳):父・信秀が死去。家督を継ぎます。※没年は天文18・20説なども出ます

  • 1552年(天文21年・19歳):清洲方との争いが深まり、萱津の戦いなどが続きます。

  • 1553年(天文22年・20歳):平手政秀が自害。信長は政秀寺を建てて弔います。

  • 1554年(天文23年・21歳):村木城の戦いで今川勢を破ります。

  • 1555〜1556年(弘治1〜2年・22〜23歳):織田大和守家を倒し、清洲城を押さえます。

  • 1556年(弘治2年・23歳):稲生の戦い。弟・信勝(信行)と争い、信長が勝ちます。

  • 1558年(永禄元年・25歳):信勝を誅殺し、内輪もめを終わらせます。※1557年説もあります

  • 1559年(永禄2年・26歳):およそ500騎で上洛し足利義輝に会いました。

 

桶狭間〜美濃平定

  • 1560年(永禄3年・27歳):桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ります。

  • 1561年(永禄4年・28歳):美濃へ出兵。浅井長政と同盟し、お市を嫁がせます。

  • 1562年(永禄5年・29歳):徳川家康と協力関係へ。
    ※「清洲同盟」と呼ばれますが、成立の説明や扱い方は諸説あります。

  • 1563年(永禄6年・30歳):美濃攻略のため本拠を小牧山城へ移します。

  • 1565年(永禄8年・32歳):犬山城主・織田信清を破り尾張統一が進みます。

  • 1566年(永禄9年・33歳):西美濃三人衆を味方に引き入れます。

  • 1567年(永禄10年・34歳):稲葉山城を落として美濃を取ります。井ノ口を「岐阜」と改め、岐阜城へ移ります。

 

義昭を奉じて上洛(京都での主導権争い)

  • 1568年(永禄11年・35歳):足利義昭を奉じて上洛。京都を押さえ、義昭を将軍にします。

  • 1569年(永禄12年・36歳):「殿中御掟」が出され、幕府の運営ルールが条文で示されます。

  • 1570年(元亀元年・37歳):越前へ出兵するが浅井が離反。金ヶ崎から退きます。姉川で浅井・朝倉に勝ちます。

  • 1571年(元亀2年・38歳):比叡山を焼き討ちします。長島一向一揆との戦いが続きます。

  • 1572年(元亀3年・39歳):武田信玄が西へ進み、三方ヶ原で織田・徳川が大敗します。

  • 1573年(天正元年・40歳):義昭が挙兵するが敗れ、京都から追放されます。

 

「天下人」へ(包囲網を崩していく)

  • 1573年(天正元年・40歳):朝倉義景を滅ぼし、小谷城で浅井長政らを追い詰めます。

  • 1574年(天正2年・41歳):第三次長島攻めで長島一向一揆を鎮めます。

  • 1575年(天正3年・42歳):長篠の戦いで武田勝頼軍を破ります。信忠に家督と岐阜城を譲り、安土城の築城を始めます。

  • 1576年(天正4年・43歳):第一次木津川口の戦いで信長側が大敗し、のちに九鬼嘉隆へ大船の建造が命じられます。

  • 1578年(天正6年・45歳):第二次木津川口の戦い(海戦)。九鬼水軍が毛利水軍を退けたとされます。

  • 1579年(天正7年・46歳):安土城へ移り政権の中心が安土に移ります。伊賀では第一次の戦いが起きた時期に当たります。

  • 1580年(天正8年・47歳):本願寺が退去し、石山合戦が大きく動きます。

  • 1581年(天正9年・48歳):第二次天正伊賀の乱。信長側が大軍で伊賀へ侵攻します。

 

甲州征伐〜本能寺

  • 1582年(天正10年・49歳)2〜3月:甲州征伐。武田勝頼・信勝父子が自害。武田氏が滅びます。

  • 1582年(天正10年・49歳)5月29日:少数の伴の者を連れて上洛し、本能寺に宿泊します。信忠は二条御所へ入ります。

  • 1582年(天正10年・49歳)6月2日(本能寺の変):明智光秀が本能寺を急襲。信長は自害。信忠も二条御所で自害しました。

 

よくある質問(FAQ)

Q1. 数え年って何ですか?

数え年は、昔の日本で広く使われた年齢の数え方です。
生まれた年を1歳として数え、正月が来るたびに1つ年が増えます。

現代の満年齢より だいたい1〜2歳年上になります。たとえば「49歳で本能寺」と書かれていても、満年齢の49歳とは限りません。

 

Q2. 信秀が亡くなった年は何年?

命日は3月3日説が有力。
没年で多いのが 1552年説 です。
ただし1551年 とされることがあります。

Q3. 清洲同盟はいつ?

1562年(永禄5年)に結ばれた、と言われることが多いです。
ただ「同盟」の範囲は不明。最初は、まず戦をやめる。手を出さない。から始まり、その後に助け合う(兵を出す)と段階を踏んだ可能性もあります。

 

Q4. 「天下布武」は何を言いたかった?

「天下布武」印は1567年(永禄10年)から使い始めたことが確認されています。

意味の解釈は様々な説があります。「天下」の意味は時期によって変化します。従来は「武力で天下を統一」するという意味にとらわれていましたが。最近は「畿内に安定をもたらす」と解釈する人もいます。

ただしハンコの文面であり、それほど大げさな政治的なスローガンではなく。武将がやりがちな自己アピールの一貫とも受け取れます。

 

Q5. 楽市・楽座は信長が最初?

近江の六角氏や今川氏など、信長より前の例が知られていて「信長の発明」とは言えません。
ただ信長が勝者となり後世に名を残したため信長の功績と語られやすいです。

 

Q6. 比叡山は全山が燃えたのですか?

焼き討ち自体は有名ですが、被害の見積もりや範囲は諸説あります。根本中堂や大講堂は燃えたものの、考古学的には意外と燃えた範囲が狭かったのではないかとも言われます。当時は坂本など比叡山周辺に移り住む者も多く。半僧半俗の僧兵たちが家族とともに暮らしていました。宗教施設を全滅させたと言うより、山とその周辺を含めた武装勢力の拠点を燃やしたと言えるかもしれません。

Q7. 木津川口の戦いは何が大事?

1576年に海で負け、信長は九鬼嘉隆に大きい船の建造を命じた、と説明されます。
その後の1578年の戦い(第二次)は、石山本願寺の包囲に影響した、とされます。

Q7. 伊賀の戦いは1回だけ?

天正伊賀の乱は第一次(1578–79)と第二次(1581)に分けて行われました。最初は信長の命を受けた織田信雄がおこないましたが失敗(第一次)。そのため信長が大軍を派遣して征服しました(第二次)。

 

Q9. 本能寺で信長の遺体(首)は見つかった?

見つかりませんでした。ただし持ち出された可能性はあります。

 

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