田安賢丸の史実:若き日の松平定信と田沼意次との因縁

田安賢丸(たやす まさまる)は後の松平定信。

江戸時代中期に活躍した大名。吉宗の孫で田安家に生まれ、幼少期は賢丸と呼ばれました。

正式な名は徳川賢丸ですが。田安徳川家のため田安賢丸と呼ばれることも多いです。

将軍候補と目されていたものの白河藩の藩主となります。この養子縁組には田沼意次も関わっていました。

白河藩の人間となった松平定信は天明の大飢饉で苦しむ藩を救います。

後に幕政の中枢を担い「寛政の改革」を推進。日本の歴史に大きな足跡を残すことになるのですが。今回はそんな松平定信の若き日々を紹介します。

 

田安賢丸とはどんな人?

田安賢丸は、江戸時代中期に活躍した大名で幕政の中枢を担った人物です。後の松平定信です。

生年:宝暦8年12月27日(1759年1月25日)
没年:文政12年5月13日(1829年6月14日)
名前:徳川賢丸(幼名)後に 松平定信
家系:田安徳川家→久松松平家

生まれと家族

松平定信は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、田安徳川家で生まれました。

幼い頃は「賢丸」という名前で呼ばれていました。

生まれたのは1759年。

田安賢丸の父親:徳川宗武

田安徳川家の初代当主の徳川宗武です。

田安賢丸の母親:香詮院

母のとや(香詮院)は徳川宗武の側室。
とやは 尾張藩の家臣だった山村家の出身。宗武の寵愛を受けていました。

田安賢丸の兄弟

定信は七男。兄が何人かいましたが残念ながら早くに亡くなってしまいました。家督を継いだ五男・治察も病弱でした。

そのため定信は将来、田安家を継いで将軍になるかもしれないと期待されていたのです。

幼少期

定信は幼い頃からとても聡明で将来を期待されていました。

生まれたばかりの定信は体が弱く、幼い頃には一度危篤状態に陥ったこともありました。しかし聡明な子供として周囲から期待され、将来は将軍になるのではないかとも言われていました。

定信が6歳の頃には住んでいた屋敷が火事で全焼してしまうという大きな出来事にも見舞われました。その後も病気を患うなど、波乱に満ちた幼少期を過ごしたのです。

 

将軍候補としての田安賢丸

田安賢丸(松平定信は)は幼い頃から非常に聡明で知られていました。兄の治察が体が弱く、その才能も定信には及ばなかったため一時は田安家の後継者として期待を受け。

さらには将軍・徳川家治にも世継ぎがいなかったので次の将軍になるのではないかとも噂されていたのです。

白河藩藩主の養子に

しかし17歳の時、定信は白河藩の藩主の養子になることが決まりました。定信の兄や田安家は定信を養子に出すのは反対でした。

しかし白河藩主・松平定邦が家格を上げるため田沼意次の協力を得て実現したと言われています。

なぜ将軍になれなかったのか?

定信が将軍になれなかったのは、主に以下の理由が考えられます。

  • 松平定邦の希望:御三卿から養子を迎えて家格向上を目指しました。
  • 白河藩への養子縁組: 田沼意次の力によって白河藩へ養子に行かされたため、将軍になる道が閉ざされた。
  • 田沼意次の思惑: 田沼意次は関係の深い一橋家から次の将軍を出そうとしていました。定信が将来のライバルになることを恐れて、わざと白河藩へ追いやったとも考えられます。

白河藩養子:松平定信と田安家後継問題

兄が亡くなり田安家の後継者がいなくなる

松平定信は白河藩の養子になった後も、しばらくの間は江戸の田安家の屋敷に住んでいました。しかし兄の治察が亡くなり田安家に後継者がいなくなったので定信は白河藩の養子縁組を解消したいと願い出ました。

でも、この願いは認められず田安家は長らく当主のいない状態が続きました。

定信の自伝「宇下人言」によると、兄が危篤状態にあった時に定信が田安家を継ぐ話が持ち上がっていたものの、その後その約束が破られたと記されています。

これは当時の有力者である田沼意次らが何らかの理由で約束を反故にしたと思われます。

白河藩の者として生きて養父の願いを叶える

白河藩の藩主となった定信は、養父の意向に従い幕閣に働きかけ白河藩の家格向上を目指します。もともと家格向上は養父・松平定邦の悲願で、定信を迎えた理由でした。

定信は養父の願いを叶えるため、田沼に賄賂を贈るなど積極的な行動をとりました。しかし定信の要求が叶ったのは田沼が老中を解任された後でした。

田沼への遺恨?

松平定信としては田安家の跡継ぎにもなれず、養父の願いも叶えてもらえない。自分は何のために白河藩主の養子になったのか無念の思いがあったでしょう。

松平定信は田沼意次をことさらに批判。田沼家やその派閥にも容赦ありませんでしたが。こうした田沼意次への恨みがあったのかもしれません。

天明の大飢饉が起きる

天明2年の西国での凶作と翌年の東北地方での冷害が重なり天明の大飢饉が起こりました。各地で大きな被害が出ました。

東北地方の悲劇:

  • 江戸への米の売り出し: 東北地方は平年作でしたが、江戸の米価が高騰していたため諸般は利益を得ようと多くの米を江戸に売りました。
  • 備蓄の不足: 次の不作が予想されたにも関わらず、備蓄はほとんど行われず江戸への廻米が続けられました。
  • 民衆の反発: 江戸への廻米に反対し、打ちこわしが発生しました。
  • 幕府の無策: 幕府は東北地方への援助をほとんど行いませんでした。

幕府の対応:

  • 江戸への米の集中的な調達: 江戸の米価を抑えるために、幕府は全国の城に蓄えられていた城米を江戸に集めました。
  • 矛盾した政策: 米の買占めを禁止しながらも、江戸への廻米を促進するなど矛盾した政策をとりました。

結果:

  • 東北地方の壊滅的な被害: 餓死者数が膨大に上り、地域社会が崩壊するほどの大きな被害が出ました。
  • 幕府の権威失墜: 幕府の無策が民衆の不満を招き、幕府の権威は大きく失墜しました。

天明の大飢饉における松平定信の活躍

天明の大飢饉は東北地方を襲った未曾有の災害でした。白河藩も例外ではなく、藩内の米不足は深刻で家臣への俸禄の支給が遅れるなど藩政を揺るがす事態に陥っていました。

この危機的な状況の中、藩主の松平定邦(定信の養父)は飢饉対策として以下のような施策を行いました。

  • 越後からの米の輸送: 山間部を除き被害の少なかった越後国(現在の新潟県)から、白河藩の飛び地にあった米を輸送しました。
  • 会津藩との交渉: 会津藩に江戸扶持米を与える代わりに、会津藩の米を譲り受ける交渉を行い6000俵の米を白河に運ばせました。
  • 他藩・上方からの米購入: 他の藩や上方からも米を積極的に購入しました。

これらの施策は、定信の助言に基づいたものでした。

定信が家督を相続した後も藩政の立て直しに尽力しました。近隣の藩主である本多忠籌は、定信の飢饉対策を高く評価しその方法を学びたいとまで述べています。

定信の飢饉対策が評価された理由

  • 迅速な対応: 飢饉発生直後から積極的に対策を講じました。
  • 多角的な視点: 越後からの輸送、他藩との交渉、米の購入など、様々な方法で食料の調達を行いました。
  • 人材の活用: 定信の周囲には有能な人材が集まり、彼らの知恵を借りて対策を立てました。

定信の飢饉対策は後の「寛政の改革」へとつながる重要な経験となったと言えます。

そして松平定信がいよいよ幕府の政治にかかわることになります。

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました