豊臣秀吉は、尾張の下層民の出とも言われる身分からついには関白・太政大臣にまで上りつめた戦国の「成り上がり」の代表的存在です。
織田信長の家臣として頭角を現し、中国攻めの最中に本能寺の変を知ると一気に畿内に戻り山崎の戦いで明智光秀を討ちました。その後は柴田勝家・徳川家康ら有力大名との駆け引きに勝ち、豊臣政権を築き上げます。
一方で、晩年は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、後継者問題で秀次を自害に追い込み家族を粛清するなど影の部分も大きくなっていきました。ここでは秀吉の一生を年表で整理しつつ「どんな人物だったのか」を時代の流れの中で見ていきます。
この記事で分かること
- 豊臣秀吉の生涯を幼少期から死去まで年表形式で整理できる。
- 長浜城主期や中国攻め、小田原征伐・九州平定を通じて、秀吉の軍事・調略スタイルの特徴が理解できる。
- 関白就任や豊臣姓下賜、刀狩令・太閤検地など、豊臣政権が近世国家の枠組みを形作っていくプロセスが分かる。
- 文禄・慶長の役や秀次事件、後継者問題が豊臣家の短命と徳川政権成立への伏線となっていく流れを把握できる。
豊臣秀吉の生涯 年表まとめ
(生年は天文6年(1537年)生まれ説を採用)
幼少期〜松下家臣時代
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1537年(天文6年)ごろ
尾張国愛知郡中村郷(現・名古屋市中村区)に生まれる。父母や身分については諸説あり、足軽・下層農民・行商など多くの説がある。 -
1550年前後(天文19年前後)
継父と折り合いが悪かったとされ、家を出て諸国を放浪。のちに遠江国で今川氏配下の松下之綱(頭陀寺城主)に仕え、今川家の陪臣となるが、ほどなく退転したと伝わる。
織田家に仕官・木下藤吉郎の出世
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1550年代半ば(天文23年ごろ〜永禄年間)
尾張の戦国大名織田信長に小者として仕える。草履取り・台所奉行・普請奉行など雑務を率先してこなし、信長の信頼を得ていく(仕官時期には1554年説・1558年説などがある)。 -
1561年(永禄4年)
清洲城の普請で成果を上げる。
同年、浅野長勝の養女・ねね(北政所)と結婚。 -
1564年(永禄7年)
美濃攻めに参加し、斎藤龍興配下の城主たちに対する誘降工作を成功させる。 -
1565年(永禄8年)11月2日
坪内利定宛ての知行安堵状に「木下藤吉郎秀吉」として副署。現存史料上で秀吉の実名が確認できる最初の例。 -
1567年(永禄10年)
斎藤氏滅亡後、竹中重治らが与力として付けられ、信長軍の一角を担うようになる。 -
1568年(永禄11年)
近江箕作城攻めなどで武功。信長上洛後、明智光秀・丹羽長秀らとともに京都の政務も担当。 -
1570年(元亀元年)
朝倉義景討伐に従軍。浅井長政の裏切りによる「金ヶ崎の退き口」で殿軍を務めて信長軍の撤退を支え、その後も姉川の戦い・小谷城攻めで大功を立てる。
羽柴秀吉と長浜城主時代
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1573年(天正元年)7月20日
姓を木下から羽柴に改める(羽柴秀吉)。
同年、浅井氏滅亡後、旧浅井領の北近江三郡を与えられ、長浜城主となる。 -
1575年(天正3年)
長篠の戦いに従軍。のちに筑前守に任官したとされ、武将としての格式も上昇していく。 -
1577年(天正5年)
信長から「中国攻め」の総大将に任命され、播磨に出陣。姫路城を拠点とし、播磨・但馬方面の攻略を進める。 -
1578〜1580年(天正6〜8年)
播磨三木城主・別所長治を長期の兵糧攻め(三木合戦)で降し、但馬では山名氏を屈服させて平定を完了。 -
1581年(天正9年)
因幡国・鳥取城の兵糧攻めで吉川経家を降伏させる。淡路・但馬も勢力下に収め、中国地方への橋頭堡を築く。
中国攻めと本能寺の変・山崎の戦い
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1582年(天正10年)
備中高松城を水攻めにして毛利方を追いつめていた最中、6月2日 本能寺の変が発生。
→ 清水宗治の切腹を条件に毛利と講和し、
→ いわゆる「中国大返し」で迅速に畿内へ引き返す。-
6月13日:山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の実権を掌握。
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6月27日:清洲会議で信長の後継・三法師(織田秀信)を擁立し、自身も播磨・丹波などを加増される。
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豊臣秀吉 天下人への道
柴田勝家との対立・賤ヶ岳の戦い
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1583年(天正11年)
柴田勝家・織田信孝らと対立が深まり、-
賤ヶ岳の戦いで柴田軍に勝利。勝家は北ノ庄城で自害し、織田信孝も自害に追い込まれる。
→ 織田家中で「筆頭家臣」「実質の後継者」としての地位を確立。
同年、大坂城の築城を開始。
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小牧・長久手の戦いと朝廷への接近
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1584年(天正12年)
織田信雄・徳川家康と対立し、小牧・長久手の戦いが勃発。
長久手で池田恒興・森長可らが戦死し苦戦するが、最終的に信雄と和睦し、家康とも人質・縁組を通じて和解へ進む。
同年10月、従五位下・左近衛権少将に叙任され、公家社会への進出を本格化。 -
1585年(天正13年)
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紀州征伐:雑賀・根来などを平定。
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四国攻め:弟・秀長を総大将とする軍で長宗我部元親を降し、土佐一国のみを安堵。
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7月11日:関白宣下を受け、近衛前久の猶子となって朝廷の最高政務職に就く。
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1586年(天正14年)
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9月9日:後陽成天皇から「豊臣」姓を賜る。
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12月25日:太政大臣に就任。
→ 名実ともに「豊臣政権」の最高権力者となる。
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九州平定・バテレン追放令・聚楽第
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1587年(天正15年)
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豊臣秀長・毛利輝元らを動員した大軍で九州平定。島津義久を降し、西国の戦乱をほぼ終結させる。
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キリスト教宣教に制限を加えるバテレン追放令を発布。
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京都・内野に聚楽第を築き、豊臣家の本邸とする。
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北野大茶湯を開催し、大名・町人を巻き込んだ大規模な茶会を開く。
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1588年(天正16年)
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4月14日:後陽成天皇の聚楽第行幸を実現し、天下人としての権威を誇示。
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刀狩令・海賊停止令を全国的に施行し、武装解除と治安統制を進める。
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小田原征伐・天下統一と奥羽仕置
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1589年(天正17年)
淀殿との間に鶴松が誕生し、正式な後継と位置づけられる。
名胡桃城事件をきっかけに、後北条氏討伐の大義名分を固める。 -
1590年(天正18年)
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小田原征伐:20万の大軍で後北条氏を包囲し、3か月の籠城戦の末に開城させ、氏政・氏照を切腹させる。
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参陣した伊達政宗・最上義光らに対して奥羽仕置を行い、東北諸大名の所領再編を実施。
→ この時点で事実上の天下統一を完成。
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1591年(天正19年)
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奥羽で再度起きた一揆・反乱(九戸政実の乱)を、秀次を総大将とする再仕置軍で鎮圧。
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弟・豊臣秀長と嫡子鶴松が相次いで死去。
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甥の秀次を養子とし、関白職を譲って自らは太閤と称されるが、実権は握り続ける。
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重用してきた茶人千利休に切腹を命じる。
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京都の周囲に御土居を築き、洛中と洛外の区分・都市防衛を整備。
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朝鮮出兵(文禄の役)と政治の動揺
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1592年(文禄元年)
「唐入り」を掲げ、肥前名護屋城を拠点として文禄の役を開始。
宇喜多秀家らの軍が朝鮮半島に侵攻し、釜山・漢城・平壌などを占領するが、やがて明軍の介入により戦線は膠着。 -
1593年(文禄2年)
明との講和交渉が始まる。
8月3日:淀殿が秀頼を出産。
秀吉は伏見城に移り、聚楽第は秀次に任せる形となる。 -
1595年(文禄4年)
甥・豊臣秀次に謀反の嫌疑がかけられ、高野山で切腹。妻子・側室・侍女ら多数も三条河原で処刑される(秀次事件)。
→ 聚楽第は「謀反人の邸宅」として徹底的に破却され、豊臣政権のイメージは大きく揺らぐ。
慶長伏見地震・禁教強化と慶長の役
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1596年(文禄5年/慶長元年)
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慶長伏見地震が発生し、方広寺大仏(京の大仏)や伏見城が大きな被害を受ける。
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土佐に漂着したスペイン船をめぐるサン=フェリペ号事件が起こり、禁教政策が再び強化される。
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1597年(慶長2年)
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秀吉の命により、京都・大坂などのキリスト教徒が捕縛され、長崎で日本二十六聖人が処刑される。
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小早川秀秋を総大将として再度の朝鮮出兵(慶長の役)を開始。朝鮮南岸に多数の倭城を築いて防衛線を構築。
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晩年と死
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1598年(慶長3年)
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3月15日:醍醐寺で「醍醐の花見」を開催。各地から集めた桜700本のもとで、秀頼や側室たちと盛大な宴を開く。
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5月以降、病状が悪化。
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7月4日:伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び、幼い秀頼の後見を依頼。五大老・五奉行に対して遺言を出させ、誓紙に血判させる。
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8月18日:伏見城で死去(数え62歳)。
遺骸は阿弥陀ヶ峰に葬られ、後に豊国大明神として神格化される。
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豊臣秀吉とはどんな人物か
豊臣秀吉の一生は「身分の低さ」と「権力の高さ」のギャップが際立ちます。尾張の下層民から、朝廷の最高職である関白・太政大臣にまで出世した例は他にありません。
軍事面では、三木・鳥取・高松で見られる兵糧攻めのように、時間と資源をかけて味方の損害を抑える戦い方を得意としました。一方で、一度敵と見なした勢力には容赦なく圧力をかけ、徹底して屈服を求めています。
政治面では、太閤検地や刀狩令を通じて土地と人を把握し、石高制にもとづく全国統一の枠組みを作りました。これは江戸幕府にも引き継がれ、日本の近世体制の基盤となります。
文化面では、豪華な城郭・寺院の造営、茶の湯・美術工芸への庇護などにより、後に「桃山文化」と呼ばれるきらびやかな文化を開花させました。その反面、晩年の朝鮮出兵や一族粛清など、無理の大きい政策も多く、豊臣家の短命につながっていきます。
幼少期と出自の謎
秀吉の幼少期については、史料の不足に加えて、江戸時代の軍記物や講談による脚色が多く、確かなことがあまり分かっていません。父は足軽とする説、行商人・技術者・還俗僧などとする説までさまざまで、母についても名前は伝わるものの詳細ははっきりしていません。
本人の命で作られた伝記『天正記』では、関白就任後になると「母が宮仕え時代に帝の落胤を授かった」と匂わせる記述まで現れますが、これは明らかに自分の権威付けのための演出と見られています。一般には「尾張中村の下層民の出」という理解が主流です。
「貧しい少年時代」「継父からの虐待に耐えて家出した」という話も広く知られていますが、どこまでが事実なのかは慎重に見る必要があります。確かなのは、若い頃に遠江で松下之綱に仕え、その後に織田家に奉公に出たという点です。
織田家での台頭と中国攻め
織田家に入った秀吉は、最初は草履取りや台所仕事といった雑務から出発しました。城の普請や物資管理を任されるうちに、数字や現場の指揮に強い「仕事の出来る家臣」として頭角を現していきます。
やがて、美濃攻めでの調略、北近江での浅井氏との戦い、小谷城攻めなどを通じて、前線の指揮官としての実績も積み重ねました。1573年には浅井氏の旧領を与えられ、長浜城主として地方経営も任されるようになります。
中国攻めでは、播磨・但馬・因幡・備中と戦線を広げ、兵糧攻めを駆使して毛利方の拠点を次々と屈服させました。この最中に本能寺の変が起きたことが、秀吉の人生を決定的に変える転機となります。
豊臣政権の成立と天下統一
本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を倒した秀吉は、清洲会議で信長後継問題を主導し、柴田勝家を破って織田家中の序列一位に躍り出ます。
その後、小牧・長久手で徳川家康と対立しつつも、最終的には和睦と縁組で関係を調整し、朝廷への接近を強めて関白・太政大臣に就任。豊臣姓を賜ることで、「織田家の家臣」から「全国の大名を束ねる存在」へと立場を変えました。
軍事面では、紀州征伐・四国攻め・九州平定・小田原征伐と段階的に各地の大名を服属させ、反抗した大名は改易・減封し、従った大名には所領を与えて勢力を再編していきます。この過程で、徳川家康を東国最大の大名として残したことが、後の政権交代の伏線にもなりました。
文禄・慶長の役
天下統一を果たした後、秀吉は「日本国内の戦争を終わらせた天下人」としての役目から、外征に目を向けていきます。それが朝鮮出兵、文禄・慶長の役です。
しかし朝鮮では当初こそ日本軍が各地を電撃的に制圧したものの、戦局を大きく変えたのは明軍の本格参戦でした。朝鮮水軍や義兵(ゲリラ)の活動も日本軍の補給線を圧迫しましたが、日本側の犠牲の多くは厳しい寒さや疫病・飢えによるものでした。
この戦いは秀吉の死によって終わりを迎えますが。莫大な軍事費と兵力の投入は豊臣政権の財政と諸大名への負担を大きくし国内統治にも陰りを落とします。
後継者問題と晩年の秀吉
一方、後継問題でも大きな揺れが生じました。鶴松の死後、甥の秀次を関白に立てたものの、秀頼誕生後に秀次事件が起こり一族の大規模な粛清が断行されます。この出来事は大名たちに強い不安感を与え政権の求心力低下につながりました。
晩年、秀吉は醍醐の花見など華やかな行事で威光を示しつつも、病に倒れ、幼い秀頼を徳川家康ら五大老に託して世を去ります。
その後、豊臣政権内部での対立と徳川家康の勢力拡大により関ヶ原の戦いへとつながっていくのは周知の通りです。
豊臣秀吉についてのQ&A
Q1:秀吉はいつ「天下統一」を果たしたと考えればいい?
一般には1590年の小田原征伐と奥羽仕置をもって天下統一が完了したとされます。後北条氏を滅ぼし、東北諸大名の所領を再配置することで日本列島の大名支配はほぼ豊臣政権の下に一元化されました。
Q2:どうして身分の低い出から関白になれたのか?
秀吉は、武力だけでなく朝廷との関係づくりや人事・検地など内政面での手腕を発揮。「戦を終わらせて世を安定させる存在」として受け入れられました。近衛家の猶子となることで形式上も藤原氏の一員となり関白への道を開いています。
Q3:徳川家康との関係は仲が良かった?悪かった?
小牧・長久手では敵対しましたが、その後は妹・朝日姫との婚姻や大政所を人質として送る形で関係を調整しました。秀吉から見れば「警戒しつつも利用すべき有力大名」、家康から見れば「一時的に従うが、次の機会をうかがう相手」という微妙な関係だったと言えます。
Q4:朝鮮出兵は秀吉にとって何だったのか?
秀吉は天下統一の前からこの計画を持っていましたが。彼のオリジナルではなく織田信長の構想を引き継いだものでした。大量の鉄砲を保有する当時の日本が明に対抗可能な軍事大国に見えたのは確かで、イエズス会も信長にそのような進言をしています。
他にも様々な思惑が重なっていたと考えられます。
- 信長以来の明征服構想
- 鉄砲火力への過信
- 「天下=国境なき支配圏」という東アジア的世界観
- 余剰兵力を外へ向けて国内の治安を保つ意図
しかし結果的には財政や人心を疲弊させ、豊臣政権崩壊の要因のひとつとなりました。

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