蔦屋重三郎は何をした人?生い立ちとTUTAYAとの関係は?

蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は江戸時代の出版界を代表する男。

その生涯は波乱に満ち数々のドラマを生み出しました。遊郭の街・吉原で生まれ育ち、出版の世界に足を踏み入れた重三郎は持ち前の才能と情熱で浮世絵や小説など様々なジャンルの出版物を世に送り出しました。

でも寛政の改革で様々な規制にあい、苦しい時もありました。そんな中でも写楽などの名作を世に送り出し、江戸のエンタメ業界に大きな影響を与えました。

この記事ではそんな蔦屋重三郎のダイナミックな人生を紹介します。

 

この記事でわかること
  • 蔦屋重三郎は何をした人なのか?
  • 蔦屋重三郎はどうして成功を収めたのか
  • 寛政の改革で受けた処罰の内容
  • 晩年をどのように過ごしたのか
  • TSUTAYAとの関係

蔦屋重三郎の生い立ち

蔦屋重三郎は江戸時代中期の1750年、遊郭の街として知られていた吉原で生まれました。現在の東京都台東区にあたります。吉原は当時の流行の発信地でした。

蔦屋重三郎の父親は尾張出身の丸山重助。吉原で遊郭に関連する仕事に携わっていたと考えられています。

母親は江戸の広瀬氏出身の津与。

重三郎は本名を「柯理(からまる)」といいました。7歳で喜多川家の養子となりました。「蔦屋」は喜多川家が営んでいた店の屋号です。

吉原細見を手掛ける

安永2年(1773年)。吉原の「蔦屋次郎兵衛店」を曲がりして本屋「書肆耕書堂」の経営を始めました。この店で重三郎は鱗形屋が中心になって発行していた吉原細見という本の卸しや小売りを始めました。

鱗形屋が処罰され出版できなくなると重三郎が自ら出版を行いました。

吉原細見(よしわらさいけん)
吉原の妓楼や遊女の紹介やランク付け。芸者や引手茶屋などを書いた地図など。様々な情報が載った雑誌のようなもの。春と秋に発行されました。

吉原で生まれ育った重三郎は吉原のことを良く知っています。「籬の花」と名付けられた吉原細見は大ヒット。出版元としての重三郎は順調なスタートをきりました。

蔦屋重三郎の出版活動の広がり

蔦屋重三郎は吉原細見の出版から始まった出版業をますます発展させました。

多様なコラボレーションと出版

  • 西村屋与八との共同出版: 老舗の版元である西村屋与八と共同で礒田湖龍斎という絵師の美しい遊女の絵を集めた『雛形若菜の初模様』を出版しました。この本は遊郭の費用で制作されたとされ、重三郎は出版業界と遊郭の仲介役のような役割を果たしていたようです。
  • 山崎屋金兵衛との共同出版: 山崎屋金兵衛と組んで北尾重政勝川春章といった人気絵師の作品を集めた『青楼美人合姿鏡』を出版しました。この本は吉原の遊女たちの美しさを四季の風景と共に描いたもので、重三郎が企画段階から深く関わっていたと考えられています。
  • 様々な作家との仕事: 重三郎は恋川春町志水燕十喜多川歌麿など、多くの作家と仕事をし様々なジャンルの本を出版しました。特に喜多川歌麿とのコラボレーションは、歌麿の才能を開花させるきっかけとなり、後の浮世絵界に大きな影響を与えました。

出版業の多角化

重三郎は浮世絵だけでなく小説や戯作なども積極的に出版しました。当時の流行の小説である黄表紙洒落本を多く手がけ読者の心を掴みました。また富本節(浄瑠璃の一種)の楽譜集なども出版。出版業の幅を広げていきました。

日本橋進出への布石

重三郎はこのような出版活動を通して出版業界での地位を高めていきました。そして日本橋という江戸の中心地への進出を目指します。日本橋は一流の店が集まる場所。そこで商売することことは重三郎にとっても夢でした。

そのため多くの有名な作家や絵師を起用して豪華な本を出版。実績と名声を高め日本橋での出版業への道を開こうとしていたようです。

日本橋への進出とさらなる発展

天明3年(1783年)。蔦屋重三郎は江戸の出版の中心地である日本橋へと進出しました。日本橋は多くの版元がひしめき合う激戦区でしたが、重三郎は持ち前の才能と人脈でその地位を確立していきました。

日本橋での生活

日本橋に移住した重三郎は実の両親を伴い通油町という地域に店を構えました。この地域はすでに多くの版元が軒を連ねており、重三郎にとって大きな刺激となったことでしょう。

狂歌師としての活動

日本橋での生活を送りながら重三郎は狂歌師としての活動も始めました。狂歌とはユーモアや風刺を込めた短歌のようなもので当時の流行でした。重三郎は蔦唐丸という名前で狂歌を作り多くの狂歌師たちと交流を深めました。

出版業の拡大

狂歌師としての活動を通じて重三郎はさらに多くの人々と知り合い、出版業を拡大していきました。彼の出版する狂歌本は他の追随を許さないほどの人気となり蔦屋は江戸を代表する版元へと成長していきました。

出版規制と蔦屋重三郎への処罰

寛政の改革と出版規制

天明の大飢饉をきっかけに老中 田沼意次が失脚。松平定信が就任しました。

幕府は寛政の改革を行い風紀の粛正を図ります。特に出版物に対する規制が厳しくなり、政治風刺やわいせつな表現などが禁止されました。

蔦屋重三郎への処罰

この改革により蔦屋重三郎も大きな影響を受けました。重三郎は政治風刺を含んだ黄表紙などを多数出版しており、幕府から厳しい処分を受けてしまいます。

具体的には山東京伝という作家と共同で出版した本が摘発され、重三郎は財産の一部を没収されるという重い処分を受けたのです。

全財産の半分が没収は嘘?

通説では「全財産の半分が募集された」とされますが。「倉本初夫」らによると。当時の記録にはそのようなものではなく「全財産の半分が募集された」というのは俗説。実際には年収の一部が没収されたといわれます。

とはいえ様々な規制はうけますし、大手の蔦屋は幕府からも目を付けられています。路線変更しなくてはいけません。

出版活動の変化

この出来事をきっかけに重三郎は戯作(小説のようなもの)の出版を控え、学術書などの物之本と呼ばれる種類の出版物を中心に活動するようになりました。

これにより蔦屋は地本問屋(浮世絵などを扱う問屋)だけでなく、書物問屋としても地位を確立しました。

 

喜多川歌麿とのコラボレーションと美人画の流行

蔦屋重三郎は喜多川歌麿という才能ある絵師と出会い、美人画と呼ばれる女性の美しさを描いた絵画を数多く世に送り出しました。

歌麿は重三郎のアイデアを取り入れ女性の表情や仕草を巧みに表現することで大衆の人気を集める作品を作り出しました。

特に「寛政三美人」と呼ばれる3人の女性をモデルにした作品は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。

寛政三美人の人気と規制

しかし美人画の人気は幕府から厳しい目を向けられることになります。幕府は美人画が社会の風紀を乱す恐れがあると判断、美人画への規制を強化しました。

重三郎はこの規制を避けるために様々な工夫を凝らしましたが、最終的には美人画の出版を控えざるを得なくなりました。

東洲斎写楽との出会い

美人画の出版が難しくなった重三郎は今度は東洲斎写楽という謎の浮世絵師と出会い、役者絵と呼ばれる歌舞伎役者の絵を共同で制作しました。

写楽の描く役者絵は役者の特徴をリアルに描き出したもので当時の人々を驚かせました。しかし、この役者絵は役者本人やファンから評判が悪く、短期間でその活動を終えてしまいます。

 

蔦屋重三郎の最後

東洲斎写楽とのコラボレーションが終わり、喜多川歌麿との関係もややこじれてしまった蔦屋重三郎は寛政の改革による厳しい出版規制の中で何とか事業を続けようと必死でした。

売れない本の版木を売ったり、歌麿との関係修復を試みたりと様々な努力をします。

しかしそんな中、重三郎の体は徐々に弱っていき、寛政9年47歳で亡くなってしまいました。

死因は当時の国民病とも呼ばれていた脚気だったと言われています。

重三郎は吉原に近い正法寺に埋葬されました。

 

蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係

書店・レンタルビデオの大手「TSUTAYA」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブと蔦屋重三郎は関係あるのか気になりますよね?

「越後屋」と現在の「三越」のようにつながりがあると思っている人もいるかも知れません。

結論から言うと、蔦屋重三郎と現在のTSUTAYA関係ありません

なぜ「TSUTAYA」と名乗っているのでしょうか?理由はいくつかあります。

  • 祖父が経営していた店の屋号だから:TSUTAYAの創業者 増田宗昭氏の祖父が経営していた置屋の屋号が「蔦屋」でした。増田氏は創業時になじみのある「蔦屋」を屋号にしました。
  • 名前にあやかる: そして江戸時代の有名な版元で浮世絵文化の発展に大きく貢献した「蔦屋重三郎」にあやかってその名前を屋号に使ったのです。

だからTSUTAYAの創業者は蔦屋重三郎の子孫ではありませんし。TSUTAYAの組織は蔦屋重三郎の店を受け継いだものではないのですね。

参考文献

・倉本初夫,「探訪・蔦屋重三郎」、1997年、れんが書房出版。

・安藤優一郎,「蔦屋重三郎と田沼時代の謎」、2024年、PHP新書。

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