有馬新七とは?寺田屋事件で命を落とした薩摩の尊皇攘夷派

有馬新七は、幕末の薩摩藩で強硬な尊皇攘夷派として知られた人物です。

薩摩藩士といえば、西郷隆盛や大久保利通を思い浮かべる人が多いかもしれません。でも幕末の薩摩には、西郷や大久保とは違う方法で国を変えようとした人たちもいました。

有馬新七は、その代表的な人物です。

有馬新七は倒幕を急ぎ、京都で大きな行動を起こそうとしました。しかし、その計画は島津久光の方針と正面から食い違います。

その結果、有馬新七は伏見の船宿・寺田屋で、同じ薩摩藩士たちと斬り合いになり、命を落としました。

有馬新七とはどんな人物だったのでしょうか。

なぜ薩摩藩の中で孤立し、寺田屋事件で死ぬことになったのでしょうか。

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有馬新七とはどんな人?

  • 名 前:有馬正義
  • 通 称:新七
  • 生 年:文政8年 1825年
  • 没 年:文久2年 1862年
  • 父:坂木四郎兵衛
  • 出身:薩摩国日置郡
  • 所属:薩摩藩
  • 思想:尊皇攘夷

有馬新七は文政8年 1825年に薩摩国で生まれました。没年は文久2年 1862年です。

元の名は有馬正義。新七は通称です。

父は薩摩国日置郡の郷士・坂木四郎兵衛でした。父が薩摩の城下士である有馬家の養子になったため、新七も有馬姓を名のることになりました。

このため有馬新七は郷士の家に生まれ、のちに鹿児島城下で暮らすようになります。

薩摩藩では城下士と郷士の間に身分の違いがありました。郷士は地方に住む武士で城下士とは扱いに差がありました。

有馬新七は藩の中でも地位の低い武士だったのですね。

 

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有馬新七の生涯

幼いころから剣術を学ぶ

有馬新七は幼いころから剣術を学びました。伯父の坂木六郎は剣術に優れた人物だったとされます。有馬新七は伯父から真影流を学びました。

幕末の志士には学問だけでなく剣術にもすぐれた人物が少なくありません。有馬新七もその一人でした。

寺田屋での最期を見ると有馬新七がただ思想を語るだけの人物ではなかったことがわかります。実際に刀を取り自分の考えを行動で示そうとした人物でした。

もちろん、その行動が正しかったのかは別の問題です。

ただ有馬新七が武士としての覚悟を強く持っていたことは確かなようです。

 

江戸で儒学を学び尊皇攘夷に傾いた

有馬新七は江戸に出て儒学者の山口菅山のもとで学びました。この経験は、有馬新七の思想に大きな影響を与えました。

有馬新七が学んだのは崎門学と呼ばれる学問です。崎門学は山崎闇斎の流れをくむ儒学で君臣の関係をとても大切にしました。

この学問では主君に対する忠義を強く考えます。そして日本では天皇を中心にした秩序を大切にする考え方と結びつきました。

有馬新七は、こうした学問を通して尊皇攘夷の考えを強めていきます。

尊皇攘夷とは、天皇を尊び外国勢力を退けようとする考えです。

幕末の日本ではペリー来航以後、外国との関係をどうするのかが大きな問題になりました。幕府は開国へ向かいますが、その方針に強く反発する人たちもいました。

有馬新七は、その幕府の方針に反発を持った人物でした。

有馬新七は学問所の教授になる

安政4年(1857年)有馬新七は万学問所教授になりました。

万学問所は薩摩藩の教育に関わる場所です。そこで教授になったということは有馬新七が学問の面でも藩から認められていたことを意味します。

尊皇攘夷の考えを持つ人物が教育の場にいたことは、のちの薩摩藩内の志士たちにも影響を与えたかもしれません。

詳しい記録がどこまで残っているかは限られますが、有馬新七が思想と行動の両方で目立つ存在になっていたことは確かです。

井伊直弼暗殺計画にも関わろうとした

やがて有馬新七は幕府への反発を強めていきました。安政の大獄で多くの尊皇攘夷派が処分されると幕府への怒りはさらに高まります。

このころ、有馬新七は水戸藩士たちとともに井伊直弼暗殺を計画したとされます。

井伊直弼は大老として幕政を主導した人物です。日米修好通商条約に調印し、反対派を厳しく処分しました。

尊皇攘夷派から見ると井伊直弼は天皇の意向を軽んじ、外国との条約を進めた人物でした。

有馬新七が井伊直弼暗殺に関わろうとしたことは、彼の考えがかなり強硬だったことを示しています。

ただし、薩摩藩内の同志の賛成を得られず有馬新七は実行に参加しませんでした。

万延元年(1860年)井伊直弼は桜田門外の変で水戸藩浪士らに討たれます。

有馬新七はその場にはいませんでしたが、幕府の中心人物を討つという考えを持っていたことは、この時点ですでにはっきりしています。

村の役人として働いた時期もある

有馬新七には、強硬な志士という顔だけでなく、地方役人として働いた時期もありました。

万延元年(1860年)有馬新七は伊集院郷石谷村の役人になりました。

このとき、有馬新七は村の治安や道路整備にも関わったとされます。

犯罪を厳しく取り締まり、罪を犯した者に道路工事をさせるなど、実務にも関わりました。有馬新七の指示で作られた道が現在も残っていると伝えられています。

強い思想を持ち幕府要人の暗殺計画にも関わろうとした人物が、一方では村の実務も担っていました。不思議ですね。

幕末の志士は過激なイメージがありますが、京都や江戸で政治活動ばかりしているわけではありません。藩の仕事をしながら時代の変化に強い関心を持っていた人物も多かったのですね。

 

西郷隆盛との関係

有馬新七は西郷隆盛とも交流がありました。

西郷隆盛も薩摩藩の下級武士出身で、藩の政治や日本の将来について強い関心を持っていた人物です。

ただし、有馬新七と西郷隆盛は、同じ方向を見ていたわけではありません。

二人とも幕府のあり方に問題を感じていました。でもその方法は違いました。

有馬新七は京都で一気に行動を起こし、幕府寄りの公家や役人を討つことで薩摩藩を倒幕に向かわせようとしました。

西郷隆盛は有馬たちの行動を危険だと考えたようです。

西郷は有馬新七たちの決起を思いとどまらせるため、京都へ向かいました。しかし島津久光の命令に従わなかったため、のちに処分されます。

この点は、有馬新七と西郷隆盛の関係を考えるうえで大切です。

西郷は有馬新七たちに同情していたかもしれません。でも有馬新七たちの計画をそのまま認めていたわけではありません。西郷隆盛にとっても、有馬新七の行動は扱いの難しい問題だったのでしょう。

 

島津久光の上洛に志士たちは期待

文久2年(1862年)島津久光は兵を率いて上洛しました。

この出来事に全国の尊皇攘夷派は大きな期待を寄せました。

薩摩藩が兵を率いて京都へ向かうということは、幕府を倒すための行動に見えたのです。

有馬新七たち薩摩藩内の強硬派も久光の上洛を倒幕の好機と受け止めました。

ところが、島津久光の考えは違いました

久光は幕府をただちに倒そうとしていたのではなく、公武合体を進め、幕府の政治を改革しようとしていました。

公武合体とは、朝廷と幕府を結びつけて政治を安定させようとする考えです。

有馬新七たちは、ここで大きく失望したはずです。

久光が兵を率いて京都へ向かうなら薩摩藩が倒幕の先頭に立つはずだ。

有馬新七たちは、そう考えていました。

でも久光は幕府を倒さずに政治を変えようとしていました。

この考えの違いが有馬新七の最期につながっていきます。

有馬新七は京都で決起を計画

有馬新七は柴山愛次郎、橋口壮介たちとともに京都で行動を起こそうとしました。

彼らは他藩の尊皇攘夷派とも連絡を取り、幕府寄りと見なした人物を襲う計画を立てます。

標的とされたのは関白の九条尚忠や京都所司代の酒井忠義でした。

九条尚忠は朝廷の中心にいた公家です。酒井忠義は京都所司代として、京都における幕府の支配を担う人物でした。

有馬新七たちは、この二人を討ち、その首を持って島津久光に倒幕の挙兵を迫ろうとしたとされます。

有馬新七が文久2年4月23日に伏見の寺田屋に同志と集まり、九条尚忠や酒井忠義を倒して義兵を挙げようとしたことが分かっています。

かなり強引な計画ですよね。

有馬新七たちは久光を説得するだけでは薩摩藩は倒幕に向かわないと考えたのでしょう。そこで先に事件を起こし久光が後戻りできない状況を作ろうとしたのかもしれません。

ただし、これは島津久光から見れば藩の統制を乱す危険な行動でした。

 

島津久光は有馬新七たちを止めようとした

有馬新七たちの計画を知った島津久光は強く怒りました。久光にとって有馬新七たちは自分の政治方針を壊しかねない存在でした。

久光は、まず大久保一蔵、有村武次、奈良原喜左衛門らを送って有馬新七たちを説得させようとします。

しかし、有馬新七たちは説得を受け入れませんでした。

この時点で久光は有馬たちの決行が近いのではないかと判断したようです。

久光は奈良原喜八郎、大山格之助、道島五郎兵衛ら剣術にすぐれた藩士たちを鎮撫使として寺田屋へ向かわせました。

鎮撫使とは騒ぎをしずめるために送られた使者です。

ただし、久光は説得だけを命じたわけではありません。有馬新七たちが従わない場合は討つことも命じました。同じ薩摩藩士同士なのに事態はここまで切迫していたのですね。

 

寺田屋で何が起きたのか

文久2年4月23日、有馬新七たちは伏見の船宿・寺田屋に集まっていました。寺田屋は薩摩藩士も利用していた宿です。

 

寺田屋

現在の寺田屋(伏見鳥羽の戦いのあと再建)

そこへ島津久光の命令を受けた鎮撫使たちが到着しました。

最初は話し合いでした。

鎮撫使たちは久光の命令に従うよう求めしたが、有馬新七たちは自分たちの計画を変えようとしませんでした。

話し合いはまとまらず、ついに斬り合いになります。

有馬新七も刀を取りました。

有馬新七は道島五郎兵衛と組み合い、道島を押さえつけたとされます。そのとき、有馬は近くにいた橋口吉之丞に自分ごと道島を突くよう命じました。

橋口吉之丞はその命令に従い、有馬新七と道島五郎兵衛はともに命を落としました。

文久2年4月23日(1862年5月21日)に、伏見の寺田屋で薩摩藩士同士の戦いが起き、有馬新七らが討たれました。

有馬新七は、幕府と戦う前に同じ薩摩藩士に討たれることになったのです。

 

有馬新七の死が意味したもの

有馬新七の死は薩摩藩の方針が大きく変わる分かれ目でした。薩摩藩は尊皇攘夷派の熱意だけで行動する藩ではなくなっていきます。

島津久光や大久保利通たちは、朝廷と幕府の間で政治的な発言力を高めようとしました。

一方、有馬新七たちは幕府寄りの人物を討ち、薩摩藩を強制的に倒幕へ向かわせようとしました。

ここに同じ尊皇でも大きな違いがあります。

有馬新七は、天皇を中心にした政治を実現するためには幕府に近い人物を実力で排除する必要があると考えました。

久光は藩の軍事力と政治力を使い、朝廷と幕府の関係の中で薩摩藩の立場を強めようとしました。

 

薩摩殉難九烈士として葬られた

寺田屋事件で死亡した有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵。

さらに後に処刑された田中謙助、森山新五左衛門、山本四郎。

この九人は、のちに薩摩殉難九烈士、寺田屋殉難九烈士などと呼ばれるようになります。

九人は伏見の大黒寺に葬られました。

 

薩摩殉難九烈士

寺田屋騒動で死亡した有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵。
あとで処刑になった田中謙助・森山新五左衛門・山本四郎。

この9人は伏見の大黒寺に葬られました。大黒寺は京都における島津家の菩提寺になっていました。

のちに西郷隆盛が私財を投じて有馬たちの墓を建ててます。彼らを止められなかった想いがそうさせたのかもしれません。

有馬新七の墓

有馬新七の墓

 

有馬たち9人は寺田屋殉難九烈士、薩摩九烈士、薩摩殉難九烈士などと呼ばれました。

有馬新七たちは薩摩藩の方針に背いた人物として処分されました。しかし明治になると、尊皇のために命を落とした人物として名誉を回復していきます。

時代が変わると、同じ人物への評価も変わるんですね。

大黒寺(京都市伏見区)には有馬達9人の墓と、西郷隆盛が建てたことを示す石碑があります。

西郷隆盛の九烈士石碑

この石碑は昭和62年に大黒寺を改築したときに新しく建てられたものです。

 

有馬新七はなぜ強硬な行動を選んだのか

有馬新七が強硬な行動を選んだ理由は、いくつか考えられます。

彼は江戸で儒学を学び、尊皇攘夷の考えを深く受け入れていました。

幕府が外国と条約を結び、朝廷の意向を十分に尊重しなかったことに強い不満を持っていたのでしょう。

次に、有馬新七は薩摩藩が大きな力を持つ藩だと知っていました。薩摩が本気で兵を出せば日本の政治を変えられる。

そう考えたからこそ島津久光の上洛に期待したのだと思います。

ところが久光は倒幕のために上洛したわけではありませんでした。有馬新七から見ると、久光の方針は生ぬるく見えたのかもしれません。

もう一つは、幕末という時代そのものです。

この時代は、まだ新しい政治の形ができあがる前の時代です。幕府を残すのか、朝廷中心に変えるのか。外国と戦うのか、条約を結んで国を守るのか。藩は幕府に従うのか、それとも独自に行動するのか。

答えがはっきりしない中で、多くの志士が自分の信じる道を選びました。有馬新七もその一人でした。

ただし、有馬新七の計画は多くの人を巻きこむ危険なものでした。

関白や京都所司代を襲えば、京都は大きな混乱に包まれます。薩摩藩も朝廷や幕府から責任を問われたでしょう。

島津久光が有馬新七たちを止めようとしたのは、単に意見が合わなかったからではありません。薩摩藩全体が危険な立場に置かれると判断したからです。

 

有馬新七とはどんな人物だったのか

有馬新七は、学問を修めた薩摩藩士でした。

剣術にもすぐれ、若いころから尊皇攘夷の考えを強く持っていました。

藩の役人として村を治めた経験もあり、ただの過激な志士として片付けることはできません。

一方で、有馬新七は自分の考えを実現するために、実力行使を選ぼうとしました。

その行動は、島津久光の政治方針と大きく食い違いました。

有馬新七は幕府を倒すために京都で決起しようとしました。

島津久光は、薩摩藩の統制を守りながら幕政改革を進めようとしました。

この違いが、寺田屋での斬り合いにつながりました。

有馬新七は、幕末の薩摩藩が一枚岩ではなかったことを示す人物です。

薩摩藩の中にも、すぐに倒幕へ向かおうとする者、公武合体を進めようとする者、藩主や久光の命令に従おうとする者がいました。

有馬新七の生涯を見ると、幕末の薩摩藩がどれほど複雑だったのかが見えてきます。

彼が幸せだったのかはわかりません。

でも、有馬新七という人物が、尊皇攘夷の信念を強く持ち、寺田屋で命を落としたことは確かです。

そしてその死は、薩摩藩が感情的な決起ではなく、藩としての政治判断を優先する方向へ向かったことを示す出来事でもありました。

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