大山捨松は鹿鳴館の花とよばれ華やかに語られることも多い人ですが、近代日本の女子教育と看護婦教育を支えた人物です。
生涯をみると会津藩家老の家に生まれ幕末の戦乱を経験、官費留学生として渡米、学士号を得て帰国したのち、慈善事業と教育支援を続けました。
この記事では、後世の評判や小説による印象と、史実として確認できる大山捨松の歩みを紹介します。
この記事で分かること
- 大山捨松が会津戦争と斗南移住を経て留学に向かった背景
- 日本人女性としていち早く学士号を得た留学時代の学びと経験
- 鹿鳴館での社交だけでなく、看護教育や慈善活動に尽くした実績
- 女子英学塾の支援など、帰国後も女子教育に関わり続けた歩み
大山捨松 とは
プロフィール
- 名 前:大山捨松(おおやま すてまつ)
- 旧 姓:山川
- 幼 名:さき、のち咲子
- 生 年:安政7年2月24日(1860年3月16日)
- 没 年:大正8年2月18日(1919年2月18日)
- 出身地:陸奥国会津
- 身 分:華族、教育者
- 宗 教:キリスト教(プロテスタント、会衆派)
家族
- 父:山川重固
- 母:えん
- 夫:大山巌
- 子:大山柏ほか
- 別名:山川咲子、山川捨松
日本最初の女子留学生の一人であり、大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性です。大山巌の妻となったのちも、看護婦教育、慈善事業、女子教育の支援を続けました。
会津藩家老の家に生まれる
捨松は安政7年、会津若松に生まれました。父は会津藩国家老の山川重固です。二男五女の末娘で、父は捨松が生まれたときにはすでに亡くなっていました。幼いころは父方の祖父重英が親代わりとなりました。
祖父重英は会津藩の財政再建に関わり、種痘や新式銃にも早くから理解を示した人物でした。母えんは西郷氏の出身で、会津藩でも知られた歌人でした。厳しい気性の持ち主で、子どもたちに軍記物を読み聞かせ、懐剣もすぐ抜けるように持たせていたといいます。捨松がのちに激しい時代を生き抜いた背景には、この家の気風がありました。
会津戦争で少女時代を送る
慶応4年8月、新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族とともに籠城しました。城内では弾薬運搬も手伝っていたとされます。戦闘中、食事をしていた部屋で砲弾が炸裂し、長兄大蔵の妻トセが大やけどを負い、さき自身も首に傷を負いました。トセは激しい苦痛の中で息を引き取っています。
この時期については、さきが焼夷弾に濡れ布団をかぶせる「焼玉押さえ」をしたという話もあります。ただしこれは子孫の大山格が、幼いさきにその作業は難しいとして事実とは見ていません。会津戦争の場にいたこと自体は確かでも、どこまで何をしたかについては後から加わった話を分けて見る必要があります。
なお、のちに夫となる大山巌は当時新政府軍の砲兵隊長でしたが、若松攻撃初日に負傷、翌日には後送されていました。実際に若松にいたのは2日間だけです。
斗南への移住と離別
会津戦争の敗北後、会津藩は改易となり、のちに陸奥斗南3万石へ移されました。しかし斗南は寒さも厳しく、実収も乏しい土地でした。飢えと寒さで命を落とす者もいたほどです。
この間に祖父重英は亡くなり、長兄の山川浩が藩の重臣となります。山川家では生活をしのぐため、末娘のさきを函館の沢辺琢磨のもとへ里子に出し、その紹介でフランス人家庭に預けることになりました。後に大山柏は、時期ははっきりしないものの、アメリカ人宣教師に預けられたとも語っています。幼い捨松はこの時期に、西洋の生活にふれることになります。
アメリカに留学
官費留学生に選ばれる
明治4年、新政府は若者をアメリカへ留学させる大計画を立てました。北海道開拓に役立つ知識を学ばせるためで、当初から男女を募る珍しい方針でした。兄の山川健次郎もこの留学生に選ばれています。
当時、少女を10年間も異国へ送り出すことは大きな決断でした。女子の応募者は集まらず、再募集の末に集まった5人全員が合格しました。捨松はその一人でした。応募者が旧幕臣や賊軍の娘たちだったことも、この留学が当時いかに特別だったかを物語っています。
このとき母えんは懐剣を渡し、「捨てたつもりで帰りを待つ」という思いを込めて、さきに「捨松」の名を与えました。捨松がアメリカへ向けて出発した翌日、大山弥助改め大山巌もまた留学のため横浜を発っています。
アメリカで学び、学士号を得る
5人の女子留学生のうち、年長の2人はその年のうちに帰国しました。一方、捨松、永井しげ、津田うめの3人は現地の生活に順応し、自分たちを「ザ・トリオ」と呼びました。この3人のつながりは帰国後も続き、日本の女子教育に結びついていきます。
捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派牧師レナード・ベーコン宅に寄宿し、4年近く家族同様に暮らしながら英語を身につけました。兄健次郎は日本語の勉強も続けるよう命じましたが、捨松はこれが最も難しかったと回想しています。健次郎はキリスト教への入信を望みませんでしたが、捨松は1876年に洗礼を受けました。
ベーコン家の末娘アリス・ベーコンは、のちに捨松の親友となります。捨松はヒルハウス高校を経て、ニューヨーク州のヴァッサー大学に進学しました。永井しげが音楽科を選んだのに対し、捨松は通常科に入り、英文学を専攻します。
当時のヴァッサー大学では、東洋から来た女子留学生はきわめて珍しい存在でした。捨松は学内の人気者となり、学業でも優秀でした。学内誌への寄稿、学級委員長、創立記念日の実行委員長などを務め、生物学も得意としていました。日本の国際情勢や内政にも関心を持ち、シェイクスピア研究会やフィラレシーズ会にも参加しています。
明治14年、留学期間満了による帰国命令が出ますが、捨松は学士号取得まであと1年だったため延長を願い出て認められました。明治15年6月14日、学年3番目の成績で「偉大な名誉」を得て卒業します。大学を卒業し学士号を取得した最初の日本人女性でした。卒業式では卒業生総代の一人として、卒業論文「イギリスの対日外交政策」にもとづく講演を行い、新聞にも高く評価されました。
さらに捨松は、前年に設立されたアメリカ赤十字社に関心を持ち、ニューヘイブン病院で2か月間看護の実地経験を積み、看護婦の免許を取得しています。
帰国後
帰国後に味わった失望
明治15年11月22日、捨松は11年ぶりに帰国しました。彼女には、日本で女子のための学校を作りたいというはっきりした希望がありました。アリス・ベーコンを招き、津田梅子とともに学校を開く構想も抱いていました。自分で学校を作れなくても、東京女子師範学校で教える道を考えていました。
ところが、帰国した捨松に政府は仕事を用意しませんでした。帰国時の捨松は日本語をかなり忘れており、日常会話はできても読み書きはできなかったとされます。ヴァッサー大学で学んだのは一般教養で、すぐに職務に直結する専門技能を示しにくかったこともありました。語学力を条約改正交渉に生かす案もあったようですが、実現しませんでした。
捨松は私塾を作って女子に英語を教えようとし、アリスに設立資金100ドルの援助まで頼みました。しかし兄健次郎の反対で頓挫します。その後、文部省から東京女子師範学校で動物学と生理学を教えてほしいと打診され、年俸600円の好条件も示されました。けれども着任まで2週間という条件では、日本語の教科書を使い、日本語で板書する準備が間に合いません。捨松は辞退するしかありませんでした。
帰国時の捨松は満22歳でした。当時の日本では結婚が遅い年齢と見られ、本人もアリスへの手紙で、そのことへの不満を書き送っています。英語学者の神田乃武から縁談もありましたが、捨松は受けませんでした。
大山巌との結婚
そのころ後妻を探していたのが、大山巌でした。大山は前妻沢子との間に3人の娘をもうけていましたが、沢子は三女出産後に亡くなっていました。子どもの養育を誰に任せるかが問題となり、再婚が現実の課題になっていました。
大山はフランス語とドイツ語を使いこなし、外交官や武官との交渉ができる陸軍卿でした。当時の外交には夫人同伴の夜会や舞踏会が欠かせず、語学ができ、西洋式の礼儀作法にも通じた妻が必要でした。アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業した捨松は、その条件に合っていました。一般には大山が捨松を見初めたと語られますが、先に捨松に着目していたのは吉井友実だったとされています。
初対面の場面については、永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴で「ヴェニスの商人」を演じたときとも、益田孝邸でテニスをしていたときとも伝わります。いずれにせよ、大山は捨松に強く惹かれました。
ただし山川家にとって、会津と薩摩の縁組は簡単に受け入れられるものではありませんでした。兄の山川浩はすぐに断ります。そこへ西郷従道が説得に入り、最終的に本人の意思を問うことになりました。捨松はまず大山の人柄を知りたいとして会うことを求めます。最初は薩摩弁と会津弁で会話がかみ合いませんでしたが、フランス語になると話が弾みました。年齢差は大きかったものの、捨松は大山の人柄に惹かれ、交際3か月ほどで結婚を決意します。
明治16年11月8日、二人は結婚しました。1か月後には完成したばかりの鹿鳴館で盛大な披露宴が開かれます。一方で、会津と薩摩の婚姻は郷里の人々には受け入れられにくく、曾孫の大山格は、その後大山家が薩摩と会津の双方で親戚づきあいを絶たれたと述べています。
鹿鳴館での社交
明治政府は条約改正を進めるうえで、欧米式の社交の場を必要としていました。夜会や舞踏会は外交の一部であり、その常設の社交場として建てられたのが鹿鳴館です。政府高官やその夫人たちは、外交官と接するためここに集まりました。
その中で捨松は目立つ存在でした。英語、フランス語、ドイツ語を使い、冗談も交えながら外国人と会話し、社交ダンスも自然にこなしました。背が高く、ドレスの着こなしにも優れていたため、やがて「鹿鳴館の花」と呼ばれます。
慈善事業
しかし捨松の仕事は華やかな社交だけではありませんでした。あるとき有志共立東京病院を見学した際、看護婦がおらず、雑用係の男性が病人の世話をしている現状に驚きます。そこで院長高木兼寛に、患者のためにも女性の職業のためにも看護婦養成学校が必要だと説きました。
高木も必要性は認めていましたが、資金が不足していました。そこで捨松は明治17年6月12日から3日間、日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開きます。品揃え、告知、販売まで自ら先頭に立ち、政府高官夫人たちをまとめました。3日間で1万6000円を集め、その全額を病院へ寄付しています。この資金をもとに、2年後、日本初の看護婦学校である有志共立病院看護婦教育所が設立されました。
その後も捨松は、日本赤十字篤志婦人会の発起人となり、日清戦争と日露戦争では寄付金集め、婦人会活動、包帯作り、戦傷者の看護に携わりました。看護婦資格を持っていたため、現場の仕事にも関わっています。さらにアメリカ赤十字にも寄付を送り、アメリカの新聞へ投稿して日本の立場や財政事情を伝えました。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンを通じて日本に送られ、慈善活動に使われました。
女子教育を支え続ける
捨松は帰国後、自ら教壇に立つ道を失いました。それでも女子教育への関心は衰えませんでした。
明治17年には、伊藤博文の依頼で下田歌子とともに華族女学校の設立準備委員となり、津田梅子やアリス・ベーコンを教師として招くなど整備に関わります。ところが実際の教育内容は儒教的道徳観に強く寄っており、捨松はここでも望んだ形の女子教育を実現できませんでした。
その後、明治33年に津田梅子が女子英学塾を創設すると、捨松は瓜生繁子とともに全面的に支援します。アリスも再び日本へ招きました。津田は教育方針への干渉を避けるため金銭援助を受けたがらず、捨松たちはボランティアとして支えました。捨松は資金募集の委員会会長、顧問、理事、同窓会長を務め、津田が渡米している間は校長代理として卒業証書を授与することもありました。女子英学塾の運営に深く関わった人物の一人です。
家庭生活と晩年
結婚後、捨松は大山との間に二男一女をもうけ、前妻の子ども3人を含む6人の子どもを育てました。さらに大山家の不動産管理も担っており、大山巌が知らぬ間に広い邸宅を手に入れて驚いたという話も残っています。
巌は日清戦争後に侯爵、日露戦争後に公爵となり、元老にも列しました。晩年は内大臣として宮中に仕え、暇があれば那須で家族と過ごしました。
長男の高は、父の七光りと言われるのを避けて海軍へ進みますが、明治41年、卒業直後の遠洋航海で乗っていた巡洋艦松島が台湾の馬公軍港で火薬庫爆発を起こし、艦とともに沈みました。次男柏は近衛文麿の妹武子と結婚し、大山家の後継者となります。
大山捨松の最後
大正5年、嫡孫梓が生まれた直後から、巌は病に伏しました。糖尿病と胃病を患い、同年12月10日に75歳で亡くなります。国葬後、捨松は公の場からほとんど退き、家の資産管理に専念しました。
大正8年、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は再び前面に立って運営を取り仕切ります。津田の後任選びにも奔走しましたが、その最中に体調を崩し、当時世界的に流行していたスペインかぜにかかります。新塾長の就任を見届けた翌日、倒れ、そのまま回復せず58歳で亡くなりました。
大山捨松の逸話と評判
『不如帰』と捨松の風評
捨松には、小説によって広まった誤解もありました。大山巌の前妻の娘、信子をモデルにしたとされる徳冨蘆花の『不如帰』では、主人公浪子が冷たい継母に苦しめられる筋立てになっています。読者の多くはこの継母のモデルを捨松だと思い込み、匿名の中傷まで送ったといいます。
ただし実際には、信子が結核になった際、捨松は看護の知識を生かして家族への感染を防ぐため住まいを分け、信子の看護にもあたっていました。巌が戦地から戻ると、病状が落ち着いた機会を見て親子3人で旅行にも出ています。連れ子たちも捨松を「ママちゃん」と呼んで慕っていました。
蘆花自身も、大正8年になって『不如帰』は涙を誘うため姑と継母を誇張して描いたと述べています。『不如帰』による捨松像は、文学作品によって強められた印象として見ておく必要があります。
「鹿鳴館の貴婦人」としての後世の印象
捨松はしばしば、華やかな鹿鳴館の貴婦人として語られます。その呼び名自体は当時の社交界で目立つ存在だったことをよく表しています。けれども実際の活動を見ると、彼女が続けたのは舞踏会で目を引くことだけではなく、看護婦養成学校の設立資金集め、日本赤十字の活動、女子英学塾の支援など、具体的な仕事でした。
また、会津戦争での体験、11年に及ぶ留学、帰国後の就職難、結婚後の教育支援という順に見ていくと、捨松の生涯は一つひとつの場面がつながっています。会津で受けた衝撃、アメリカで身につけた語学と学位、看護の知識、人脈、そのすべてが帰国後の活動に使われました。
洋風の夫婦として知られた晩年
大山巌と捨松は仲の良い夫婦として知られていました。捨松は人前でも夫を「イワオ」と呼び、大山もそれを受け入れていました。熟年になってから喧嘩をしたという話もありますが、争点は牛臥山の標高だったといいます。次男柏に判定を求めたというのですから、家庭の様子がうかがえます。
捨松は記者に「閣下はやはり奥様のことを一番お好きなのですか」と聞かれたとき、「一番は児玉さん、二番目が私、三番目がビーフステーキ」と機知を交えて答えたと伝わります。こうした会話のうまさも、当時の人々の印象に残りました。
巌はビーフステーキと赤ワインを好み、欧州風の暮らしを愛しました。日清戦争後に建てた自邸はドイツの古城風で、近所を驚かせたといいます。捨松は、西洋生活に慣れすぎると子どもが日本の生活に馴染みにくくなると考え、子ども部屋だけは和室に変えさせました。夫婦そろって西洋文化に親しみながらも、子どもの育て方には現実的な目配りをしていたことが分かります。
捨松の生涯をたどると、会津藩の少女、アメリカ帰りの学士、大山家の夫人、慈善事業の主導者、女子教育支援者というそれぞれの顔があり、「鹿鳴館の華」という華やかな呼び名や小説の印象だけでは収まらない人物でした。
ドラマの大山捨松
- ハイカラさん NHK連続テレビ小説、1982年 演:丘山美央
- 春の波涛 NHK大河ドラマ、1985年 演:大原穣子
- 鹿鳴館 映画、東宝、1986年 演:森田遙
- 八重の桜 NHK大河ドラマ、2013年 演:水原希子
- 津田梅子〜お札になった留学生〜 テレビ朝日、2022年 演:池田エライザ
- 風、薫る NHK連続テレビ小説、2026年 演:多部未華子

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