大山巌は明治の日本で陸軍を率い日露戦争を戦った名将として知られます。西南戦争では従兄弟の西郷隆盛と戦いました。
この記事では若き日の活動から陸軍の頂点に立つまでの流れをたどりながら、西郷家との関係や妻・捨松との結婚も含めて、大山巌の生涯を紹介します。
この記事で分かること
- 大山巌の出自や西郷家との関係など
- 戊辰戦争から日清戦争・日露戦争までの主な経歴と功績
- 山川捨松との結婚や家族にまつわる特徴的な話
- 元老・内大臣として晩年に果たした役割と人物像
大山巌とは
大山巌は薩摩藩士の家に生まれ、のちに日本陸軍の頂点まで上りつめた人物です。軍人としてだけでなく、元老、内大臣として政治の中枢にも入りました。
その生涯は長く幕末から大正までを生き抜きました。そのため若いころの薩摩藩士としての顔と、晩年の元帥・重臣としての顔では印象がかなり違います。
プロフィール
- 名前:大山巌(おおやま いわお)旧字体:大山巖
- 生年月日:1842年11月12日(天保13年10月10日)
- 没年月日:1916年12月10日
- 家紋:丸に隅立て四つ目
家族構成
- 父:大山綱昌
- 母:競子(大山綱毅女)
- 兄:大山成美
- 弟:大山誠之助
- 先妻:沢
- 後妻:山川捨松
- 子:信子、美津子、芙蓉子、留子、高、久子、永子、
- 柏従兄弟:西郷隆盛、西郷従道
出身一族と家族
大山家と西郷家は親戚
大山巌は天保13年(1842年)。薩摩国鹿児島城下の加治屋町で薩摩藩士・大山綱昌の次男として生まれました。幼名は岩次郎、通称は弥助です。
父は大山綱昌
西郷家の出身で綱昌の兄・吉兵衛は西郷隆盛の父です。大山家の婿養子となりました。
母は競子
薩摩藩士・大山綱毅の娘。
兄の大山成美の妻は西郷隆盛の妹・安、弟の大山誠之助の妻は西郷隆盛の娘・菊草でした。
大山自身も西郷隆盛、西郷従道と従兄弟の関係にあります。大山は西郷家とかなり近い親族関係の中で育った人物でした。
鹿児島城下の加治屋町周辺は薩摩藩の武士の子弟が集まる地域でした。大山も、そうした薩摩武士の中で育っています。
先妻は沢
巌の最初の妻は 伯爵吉井友実の長女・沢
子どもには、長女の信子、次女の美津子、三女の芙蓉子、四女の留子などがいます。信子は三島彌太郎に嫁ぎましたが、肺結核のため一年あまりで離縁となり、1896年に20歳で亡くなりました。美津子は夭折しています。
後妻は山川捨松
沢の死後。巌は捨松と結婚しました。
捨松は会津藩家老山川浩の妹で、日本最初の女子留学生の一人として知られています。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性でもありました。
二人の子には、高、久子、永子、柏がいます。長男の高は海軍兵学校を出たあと、巡洋艦「松島」の爆沈事故で殉職しました。
若いころの大山巌
過激な尊王攘夷派だった
若いころの大山巌は同じ薩摩藩の有馬新七らに影響を受け、尊皇攘夷の過激派志士として活動していました。
文久2年(1862年)の寺田屋騒動では、公武合体派の薩摩久光の命を受けた薩摩藩士に襲撃されて大山は投降。帰国は謹慎となりました。
ところが、その後の薩英戦争で状況が変わります。大山は謹慎を解かれ砲台に配属されました。ここで西欧列強の軍事力を目の当たりにして強い衝撃を受けます。のちに幕臣・江川英龍の塾で、黒田清隆らとともに砲術を学びました。
戊辰戦争での働き
鳥羽伏見の戦いに参戦
戊辰戦争では新式銃隊を率いて鳥羽・伏見の戦い、会津戦争など各地を転戦しました。
また12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行っています。大山が設計した砲は、幼名の弥助にちなんで「弥助砲」と呼ばれ、のちに日露戦争まで長く使われました。
会津戦争では負傷
会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍しています。
初日で負傷
鶴ヶ城攻撃初日、大山は大手門前の北出丸からの射撃で進軍に手間どる土佐藩部隊を援護するために出動しました。
その際、右股を弾丸が貫いて負傷。翌日には後送されています。大山が鶴ヶ城で実際に戦ったのは攻撃初日だけで、城への砲撃を長く指揮したわけではありませんでした。
勝利に貢献したという俗説
よく「大山が会津若松城に大砲を撃ち込み、勝利に大きく貢献した」といわれますが、後世の作り話です。
大山巌を撃ったのは山本八重?
このとき、大山を狙撃したのは山本八重だったという話があります。
当時、北出丸で戦っていたのは山本八重と少数の兵たちだったとされるからなのですが。これはあくまで「そう言われている」という推測です。史実として確認はできません。
後の妻・捨松も会津にいた
なお、このときの会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していました。
のちに夫婦になる二人がこの戦争では敵味方に分かれていたことになります。
留学と西洋軍事の学習
維新後の明治2年(1869年)、大山は渡欧して普仏戦争などを視察しました。さらに明治3年(1870年)から明治6年(1873年)にかけて、ジュネーヴに留学しています。
この留学時代には、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合いました。のちにメーチニコフが東京外国語学校に教師として来日しますが、これは大山の影響によると言われています。
明治4年(1871年)に軍制視察のためフランスに留学。
このとき当時「大山岩」と名乗っていたものを、在留邦人の助言で「大山巌」に改めたとされます。
かつて攘夷活動に夢中になり幕末に外国の軍事力に衝撃を受けた若者が、今度はヨーロッパに行って軍制を学ぶようになったのです。人間変わるものです。
滝を身振りで説明
留学当初の大山はフランス語がほとんど話せず、パリで滝を見たいと思ったとき、両手を上下に動かしながら「シャーシャー」と声を出して、水が落ちる様子を身振りで伝えようとしたという話があります。
のちにこの出来事は「大山の滝見物」として在留邦人の間で語り草になったとされています。
西南戦争と陸軍卿・陸軍大臣
士族の反乱を鎮圧・西郷隆盛と戦う
帰国後の大山は西南戦争をはじめとする士族反乱の鎮圧にもあたりました。西南戦争では政府軍の攻城砲隊司令官として城山に立てこもった西郷隆盛を相手に戦っています。
西郷隆盛は大山の従兄弟です。大山はこのことを生涯気にしており、二度と鹿児島へ帰ることはなかったとされています。
ただし西郷家との関係が断たれたわけではなく、とくに西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあったとされています。
陸軍卿となる
明治13年(1880年)には陸軍卿となり、その後、第1次伊藤内閣で最初の陸軍大臣となりました。
1884年2月16日には陸軍卿として、川上操六、桂太郎らをともなって欧州兵制視察のため横浜を出発し、1885年1月25日に帰国しています。
大山は、戦場で戦うだけの人物ではありませんでした。1882年1月4日には、明治天皇から「軍人に賜りたる勅諭」を拝受しています。
日清戦争や日露戦争の指揮官としてだけではなく、近代日本陸軍の制度や規律にも関わった人物でもあったのです。
日清戦争と日露戦争
日清戦争の直前には右目を失明していたという記録が残っています。それでも日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官を務めました。
明治32年(1899年)5月16日には参謀総長に就任、元帥になりました。
さらに1903年6月22日には、参謀総長として朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出しました。
日露戦争
日露戦争では1904年6月20日、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任します。
日本陸軍全体の顔ともいえる立場で戦争を指揮し、日本の勝利に大きく関わりました。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と呼ばれたのもこのころです。
ドイツ・ライプチヒの新聞が日本人だけでロシアに勝てるはずがないとして、大山をフィンランド人だと報じました。これは当時、大山の指揮が海外でどれほど強い印象を与えたかがよく分かる話です。
大山の経歴をたどると日露戦争の勝利は突然手にしたものではありません。若いころに砲術を学び、ヨーロッパで軍制を学び、軍政を担い、参謀総長となった積み重ねの上に日露戦争があったといえます。
山川捨松との結婚
大山巌の人生でも山川捨松との結婚は大きな出来事です。
捨松はかつての敵・会津藩家老の娘
捨松は会津藩家老の家の出身。会津戦争ののち、日本初の女子留学生の一人としてアメリカへ渡りました。帰国後に大山と結婚します。
でも、この結婚は周囲にすんなり受け入れられたわけではありませんでした。
何しろ薩摩と会津は戊辰戦争で敵味方に分かれた関係です。そのため、両家の親類から強い反対があったとされています。
親類の反対を押し切って結婚
それでも二人は結婚しました。会津戦争では敵同士の側にいた二人が、のちに夫婦になったのは、なんという運命のめぐり合わせでしょうか。
捨松は結婚後に社交界で広く知られる存在となり、看護や慈善の分野でも活動しました。
捨松の詳しい生涯については大山捨松とは何をした人?をご覧ください。
元老・内大臣としての晩年
大山は陸軍を代表する存在として元老の一人としても活動しました。ただ大山は自分の意見を通すよりも陸軍全体の意向を優先するタイプだったようです。そのため黒田清隆や西郷従道が亡くなった後は、一時期はメンバーから外されていた時期もありました。
その後、大正4年(1915年)4月23日には内大臣となり、宮中に入りました。
ここまでくると、大山はもう明治国家を支える最重要の重臣の一人といえるでしょう。
大山巌の最期
大正5年(1916年)。大山は大正天皇に供奉して、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観しました。
その帰りに胃病で倒れ、胆嚢炎を併発します。療養中の12月10日、内大臣在任のまま亡くなりました。享年75。
病床についてから死の直前まで、永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられています。本人がたいへん気に入っていた曲だったようです。
臨終の枕元には、山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨らが集まり、まるで元帥府がそのまま大山家に移ったようだったとも言われます。
大山の死は夏目漱石の死の翌日でした。新聞各紙の多くは漱石の死を大きく報じたため、大山の訃報は他の元老の死去のときほど大きく扱われなかったとされます。
12月17日の国葬では、ロシア大使館付武官ヤホントフ少将が大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、花輪を供えました。かつての敵国だったロシアの軍人から、このような丁重な弔意を受けたのは、大山と後の東郷平八郎の二人だけだったとされています。
大山は那須に葬られました。墓所は現在の栃木県那須塩原市にあります。遺品は陸上自衛隊宇都宮駐屯地に多く収蔵され、資料館に展示されています。
大山巌のエピソード
大山巌は肥満だった?
大山は従兄弟の西郷隆盛と同じく大柄で、肥満体として知られていました。その体型と顔つきから「ガマ」と呼ばれていました。
息子の大山柏の回想によると、40センチ以上ある鰻の蒲焼がのった鰻丼を平らげ、ビーフステーキとフランスから輸入した赤ワインを好み、体重は最も重いときで95キロを超えていたといいます。その結果、晩年は糖尿病に悩まされました。
妻の捨松が友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています」とこぼしていたという話も残っています。
ただし別の伝承では、肥満になったのは晩年からで、若いころはむしろ痩せ気味だったともされます。槍術を得意としていたという話もあり、若年期から晩年までずっと太っていたわけではわけではありません。
西郷隆盛像のモデル
イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネの西郷隆盛肖像画はよく知られています。ただ、西郷は生前に写真や肖像画を残していませんでした。
この肖像画については顔の上半分を西郷従道、下半分を大山巌をモデルにして描いたといわれています。上野の西郷隆盛像も、この肖像画をもとにしているとされます。
君が代制定への関わり
大山は日本国歌となる君が代の制定に関わったとされることがあります。
でも大山家側の伝承としては曾孫の大山格が「巌が国歌制定に関わったという話は大山家に全く伝わっていない」とされます。
一方で、大山自身の談話として、明治3年末もしくは4年初めごろ、薩摩バンド隊員がイギリスの軍楽隊長フェントンから国歌や儀礼音楽の必要を告げられたとき、大山が宝祚の隆昌を祈る歌を選ぶべきだと述べ、愛唱歌だった「蓬莱山」を提案したという話が残っています。
ただし大山自身は、その後どのような経緯で「君が代」が国歌となったのかは知らないと述べています。さらに、君が代を提案したのは乙骨太郎乙だとする説もあります。
西洋趣味と家庭生活
大山は西洋文化への憧れが強く、造詣も深かったとされています。後藤象二郎、西園寺公望らとともに、ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初期の人物として、顧客名簿に自筆サインが残っています。
捨松との再婚の披露宴招待状は全文フランス語で書かれ、人々を驚かせました。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸は、ドイツの古城をもとにしたものでした。ただ、その見た目については訪れたアリス・ベーコンがかなり厳しく評したともいわれています。
大山自身は新居に満足していましたが、妻の捨松は子どもたちが洋式生活に慣れすぎて日本の風俗になじめなくなることを心配し、子ども部屋を和室にしていたとされています。
政治家としての立場
大山は明治前期、陸軍卿として谷干城、曾我祐準、鳥尾小弥太、三浦梧楼ら、いわゆる四将軍派との内紛に勝利し、陸軍の分裂を防ぎました。彼らの拠点だった月曜会も解散させています。
その後も長く陸軍大臣を務め、元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大きな実力者となりました。
ただし政治的野心や権力欲は乏しく、総理大臣候補になるのを終始避け続けたとされています。
また、大隈重信は大山が郷土の縁故による頼みごとに乗らず、公平にふるまう人物だったと回想しています。山縣有朋もまた私心がなく公平だったと述べています。
軍の有力者ではありましたが、政争の先頭に立って権力を握ろうとするタイプではなかったようです。
まとめ
大山巌という人物をたどっていくと、日露戦争の名将や元老という大きな肩書だけでは語りきれない、いくつもの顔が見えてきます。
薩摩藩士として幕末の動乱を生き、戊辰戦争や西南戦争を経て、日本陸軍の中枢へ進んだ歩みはそれだけでも激動の時代そのものです。
けれども印象に残るのは、従兄弟の西郷隆盛と敵味方に分かれて戦ったことや、会津戦争で敵側にいた山川捨松と後に夫婦となったことなど、人と人との関係の深さかもしれません。
功績の大きさだけでなく、時代の変化の中で立場を変えながら生きた一人の人間として見ると歴史上の名将としてだけでなく、近代日本を形づくった人物一人として、その生涯をあらためて見直したくなる人物です。
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