織田信澄は信長に討たれた織田信勝の子ですが、信長に助命され柴田勝家のもとで育てられました。のちに明智光秀の娘婿となり、大溝城主や大坂の重要な役目を担いました。
本能寺の変後は光秀との共謀を疑われて殺害されてしまいます。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では織田信澄が本能寺の変に関わっているような描かれ方をして話題になりました。
この記事では史実の信澄像と、ドラマで描かれた黒幕説の違いを紹介。信澄の本能寺の変黒幕説は成り立つのか検証していきます。
この記事で分かること
- 織田信澄のプロフィールと家族構成
- 信澄が織田家一門として重用された理由
- 本能寺の変後に信澄が疑われた背景
- ドラマ『豊臣兄弟』の描写と史実の違い
織田信澄のプロフィールと家族構成
プロフィール
名前:津田信澄/織田信澄(初名は信重)
通称・別名:七兵衛、七兵衛尉、津田坊、御坊様
生年:弘治元年(1555年)または永禄元年(1558年)説
没年:天正10年6月5日(1582年6月24日)
主君:織田信長
居城:近江大溝城
立場:織田家一門衆、大溝城主、大坂城代
墓所:大善寺(滋賀県高島市勝野)
家族構成
父:織田信勝
母:高島局(和田備前守の娘)
養育者:柴田勝家
養父・義父とされる人物:磯野員昌
妻:明智光秀の娘
子:昌澄、元信、女子(京極高知正室)
兄弟:信糺、信兼など
織田信澄の出自と織田家での立場
織田信澄は尾張の戦国大名である織田信秀の三男・織田信勝の嫡男として生まれました。信長の甥にあたります。
父の織田信勝は信長と織田家の主導権をめぐって対立、弘治2年(1556年)に反抗して敗北します。その後、永禄元年(1558年)に信勝は信長によって殺害されました。
父が反乱したため子の信澄にも処分が及ぶ可能性がありましたが、信長は信勝の子どもたちを助命しました。
そして信澄は信長の命令によって柴田勝家のもとで養育されることになります。柴田勝家はかつて信勝の家臣でした。信長は勝家なら信澄を大事に育てると思ったのでしょう。
信澄の母は高島局とされ和田備前守の娘と伝わります。信澄がのちに近江高島郡を拠点にしたことを考えると、母方や近江とのつながりも関係しているのかもしれません。
津田信澄という呼び名と元服の時期
織田信澄は津田信澄とも呼ばれました。織田一門の人物には津田姓を名乗る者がいたため、信澄もその流れで津田を称したと考えられます。
後世の史料である『寛政重修諸家譜』などには、永禄7年(1564年)正月に元服して津田七兵衛信澄を名乗ったという話があります。ただし、この元服時期については誤りともされています。
天正2年(1574年)の信長主催の茶会では、信澄は「御坊様」と呼ばれていました。同じ年、信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取ったときにも、信澄は「津田坊」と呼ばれました。
その後、天正3年(1575年)に越前一向一揆征伐へ出陣します。この戦いを初陣と見るなら信澄は天正2年の夏から天正3年の夏ごろまでに元服した可能性があります。
武将としての活躍
磯野家への養子入り
元亀2年(1571年)。信澄は浅井氏の旧臣 磯野員昌の養嗣子となりました。磯野員昌は佐和山城を引き渡して織田家に寝返った武将です。信澄が磯野家と結びついたことで近江方面との関係が深まっていきます。ただし、信澄が実際に磯野姓を名乗っていたかどうかは、はっきりしません。
天正2年の時点でも「御坊様」「津田坊」と呼ばれているため、養子になる約束はあっても、正式な縁組はまだ整っていなかった可能性はあります。
越前一向一揆征伐と公家への対応
天正3年(1575年)7月、信澄は磯野員昌とともに越前一向一揆征伐に従軍しました。この戦いで信澄は柴田勝家や丹羽長秀とともに鳥羽城を攻め一揆勢を討ったとされます。
同じ年の9月には京都から来た公家の吉田兼見をもてなし、信長への取次役を務めました。10月には兼見が信長へ礼を述べる場で、信澄が進物を披露しています。武将として戦場に出る一方で、信澄は信長のそばで公家とのやり取りにも関わっていました。
高島郡の支配と大溝城の築城
天正4年(1576年)1月、信澄が所領の高島郡から上洛。
同じ年、丹波八上城の波多野秀治が反乱を起こしました。黒井城の戦いで苦戦していた明智光秀を助けるため信澄も救援に向かいます。このときは結局光秀が退くことになりました。
天正6年(1578年)、磯野員昌が信長の叱責を受けて高野山へ出奔しました。その結果、高島郡はそのまま信澄に与えられました。
信澄は新庄城から移り大溝城を築きます。この大溝城の縄張りには、明智光秀が関わったとされます。
大溝城は琵琶湖西岸の高島郡をおさえる拠点であり、信澄はこの地を治める城主となりました。
信澄は領内の復興にも関わり、信長の延暦寺焼き討ち燃えた大善寺の別院を大溝城下に建てて開基となったとされます。
織田家一門衆としての活動と「大坂の司令官」
大溝城主となったあとも信澄は織田家の一門衆として精力的に働きます。
天正6年(1578年)4月、信澄は織田信忠に従い石山本願寺攻めに加わりました。8月には安土城の相撲興行で堀秀政、蒲生氏郷、青地与右衛門らとともに奉行を務めています。9月には、信長が津田宗及の屋敷を訪れた際に供をしました。
さらに、天正6年から天正7年にかけては、荒木村重討伐にも従軍します。摂津伊丹城が開城すると、信澄はそこに置かれ、村重の正室ら一族37名を捕らえて京都へ護送する役目を担いました。
時期は不明ですが信長は明智光秀の娘を信澄の妻としました。織田家の一門と有力家臣である明智家を結ぶ縁組でした。信澄が大溝城を築いたときに光秀が築城に関わったという話からも、二人が織田家の中で近い関係にあったことがうかがえます。
大坂での立場と宣教師の記録
天正7年(1579年)の安土宗論では、信澄は警護役の一人でした。
天正8年(1580年)、石山本願寺から一向宗が退去するとき、信澄は大坂に下向し、検使の矢部家定を警固しました。その後、信澄は大坂に常駐するようになります。宣教師たちは信澄を「大坂の司令官」と呼びました。これは、信澄が大坂方面で一定の権限を持つ立場にいたことを示しています。
また天正8年には、丹羽長秀とともに安土城下の船着き場、道路、堀割の工事を完成させました。その後、信澄は休暇を与えられ、高島へ帰っています。
信澄は城主として領地を治めるだけでなく安土や大坂の整備、警備、軍事行動にも関わっていました。
京都御馬揃えから伊賀攻めへ
天正9年(1581年)正月15日、信澄は左義長に参加しました。2月27日には京都御馬揃えにも出ています。京都御馬揃えでは、織田一門の参加者の中で信澄は5番目に名が挙げられました。10騎を率いて行進し、叔父の織田信包や従弟の織田信孝と同じような扱いを受けています。
織田家の連枝衆、つまり一門衆としてそれなりに高い格式を持っていた人物だったようです。
同じ年の4月、信澄は和泉国の槇尾寺に関わる処分にも参加しました。信長の命令で検地に逆らった槇尾寺の僧侶たちが殺されたあと、信澄、堀秀政、蜂屋頼隆、丹羽長秀、松井友閑らは伽藍の部材を検分し、使える部材を没収して、そのほかの堂塔や僧坊を焼き払いました。
6月には信澄が高島郡の国衆である多胡左近衛門を御内衆として召し抱えています。高島郡の支配を信澄が任されていたことがうかがえます。
9月には伊賀攻めに従軍しました。信澄は従弟の北畠信意(織田信雄)の指揮下で戦いに加わります。伊賀が鎮圧されたあと、10月に信長や信忠が伊賀国を検分したときにも同行しました。
このころ、信澄は信長に大和国の拝領を願い出たと伝わります。しかし信長は許さなかったといわれます。どこまで実際の会話に近いかは慎重に見る必要がありますが、信澄がさらに大きな領地を望んでいたのかも知れません。
本能寺の変の直前と四国遠征軍
甲州攻めにも従軍
天正10年(1582年)、信澄は甲州攻めで信長に従いました。信忠の指揮下ではなく、信長の後発部隊に加わったようです。3月19日、上諏訪の法花寺に陣を置いた部将の中に信澄の名が見えます。
四国遠征軍の副将になる
その後、信長と土佐の長宗我部元親の関係が悪化。5月7日、織田信孝を総大将とする四国遠征軍が編成されました。
このとき丹羽長秀、蜂屋頼隆、信澄の3人が副将につけられます。5月11日、信澄は住吉で四国へ渡海する準備に入りました。さらに5月21日、信長は京都から堺へ向かう徳川家康の大坂での接待を丹羽長秀と信澄に命じています。
本能寺の変の直前、信澄は四国遠征軍の副将で大坂周辺で活動していました。明智光秀の娘婿という立場ではありましたが、信長の命令を受けて動く織田家の一門武将でもあったのです。
なぜ信澄は本能寺の変で疑われたのか?
舅の明智光秀が本能寺の変を起こす
天正10年(1582年)6月2日。明智光秀が京都の本能寺にいた織田信長を襲いました。信長の嫡男・織田信忠も妙覚寺から二条御所へ移り、そこで自害します。
信澄も参加する四国遠征軍は、翌6月3日に淡路へ渡る予定でしたが、本能寺の変によって渡海は中止されました。
信長と信忠が討たれた直後、織田家中は大きく混乱しました。誰が光秀に味方するのか、誰が敵なのか、すぐには判断できない状況です。
その中で、信澄には疑われやすい条件が重なっていました。
- 信澄は、明智光秀の娘婿である。
- 信澄の父・信勝は、かつて信長に反抗して討たれた人物である。
- 信澄は大坂に兵を持っていた。
- 信澄は織田一門で一定の格式と地位を持っている。
こうした事情が重なって大坂の町では「信澄と光秀が共謀した」という噂が流れたとされます。
ただし、信澄が本能寺の変を事前に知っていた、あるいは光秀と計画を立てていたと確認できる材料はありません。
史実としてわかるのは、本能寺の変のあとに信澄が疑われて織田信孝と丹羽長秀に攻められたことです。
信孝と長秀は信澄をそのままにしておくと光秀側につくかもしれないと考えたのかもしれません。
実際に信澄が光秀に味方するつもりだったかどうかは、確かなところはわかりません。
信孝と長秀が信澄を襲撃
天正10年6月5日、信孝と長秀は大坂城千貫櫓にいた信澄を攻撃しました。
信澄は防戦しましたが、丹羽家家臣の上田重安に討ち取られます。その後、信澄の首は信孝の命令で堺の町外れにさらされたとされます。享年は25とも28ともいわれます。
史実とドラマ『豊臣兄弟』の描写
大河ドラマ『豊臣兄弟』では、織田信澄が本能寺の変の黒幕のように見える展開で描かれました。
まず織田信澄は信長や光秀に無断で長宗我部元親と連絡を取っていたことが明らかになり、信長の怒りをかいます。そのとき信長は信澄に信勝の面影を見ています。
周囲が信長をなだめたので信長の怒りは収まりました。
ところが信澄は父の恨みを忘れていませんでした。
なんと足利義昭になりすまして舅の明智光秀に文を送り。光秀が敵と内通しているかのように工作。光秀を追い詰めていきます。
もちろんドラマの信澄の行いはドラマの演出です。事実ではありませんし。可能性としても低いです。
史実でも大坂ではそのような噂が流れていたようですが。ドラマではその噂を「事実」として描いて本能寺の変の黒幕にしてしまいまいした。ある意味、人々がメディアやネットの作った情報を信じて行動している現代ならではの解釈と言えますね。
信澄黒幕説は成り立つのか?
ドラマ「豊臣兄弟」では信澄を黒幕のように描きましたが。現実にはありそうもない出来事です。
現代人と違って戦国時代は親兄弟でも殺し合う世界です。父の仇だからといって即首を狙うということはしません。
信澄の父が兄に逆らったのは事実ですしそのへんの事情は勝家がよく知っています。強い者につくのが当時の常識です。
それに信澄は織田家一問でも高い地位を与えられていました。周囲の賛同を得られそうにない状況で、あえて反乱を起こすメリットがありません。
信澄からみれば父は欲を持ちすぎた。あるいは運がなかったのだと思い。舅をそそのかしてまで信長を殺したいとまでは思わなかったでしょう。
何より光秀が反乱を起こせば真っ先に疑わるのは信澄です。
しかも本能寺の変当日は四国遠征軍が出陣直前。周囲には大軍と大将の織田信孝や重臣・丹羽長秀がいます。光秀の謀反が知られたら信澄は真っ先に殺されてしまいます。
その状況で謀反を起こさせるなんて信澄もそこまで愚かではないでしょう。
光秀の謀反は信澄にとっても想定外だったのではないでしょうか。
信澄の墓とその後
信澄の墓の所在や法名は、はっきり伝わっていません。ただし、信澄が開基となった大善寺(滋賀県高島市勝野)には、供養墓と慰霊の石碑が建てられています。現在も、命日の6月5日には信澄忌として供養が行われています。
信澄には、昌澄、元信、京極高知の正室となった女子がいたとされます。信澄本人は本能寺の変の混乱の中で討たれましたが、子どもたちの名は伝わっています。
信澄の人生をたどると、織田家の一門であることと、明智家の婿であることが最後に大きな障害になってしまったことのように思えます。
信澄は、父が信長に討たれましたが、信長によって助命され、柴田勝家に育てられました。成長後は織田家の一門として大溝城や大坂を任されました。その後、光秀の娘婿になったことで、織田家と明智家を結ぶ存在になります。
当初は政略結婚として意味のある縁組だったのでしょう。ところが本能寺の変が起こると、その縁が信澄を疑わせる理由になったのです。
せっかく周囲の信頼を得ていたのに、最後まで疑いから抜け出すことはできなかった。不運な生涯だったと言えます。

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