柴田勝家は織田信長に仕えた有力な武将です。若いころは信長の弟である織田信勝に仕え、稲生の戦いでは信長と戦い敗北しました。その後は信長の家臣となり、越前北ノ庄城を拠点に北陸方面を任されるようになります。
本能寺の変の後は羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いに敗れて北ノ庄城で亡くなりました。
この記事は、そんな柴田勝家の生涯を年代順にまとめた年表記事です。いつ、どのような出来事に関わったのかを紹介します。
この記事で分かること
- 柴田勝家の生涯を年表で確認できる
- 織田信勝・信長・秀吉との関係が分かる
- 北ノ庄城を拠点にした北陸支配の流れが分かる
- 賤ヶ岳の戦いから最期までの流れが分かる
- 柴田勝家とはどんな人?
- 柴田勝家の年表
- 1522年(大永2年)ごろ 柴田勝家が生まれる
- 1551年 (天文20年) 織田信秀が亡くなる
- 1552年 (天文21年) 萱津の戦いで武功をあげる
- 1556年 (弘治2年) 稲生の戦いで信長に敗れる
- 1557年 (弘治3年) 信勝の計画を信長に知らせる
- 1568年 (永禄11年) 信長の上洛に参加する
- 1569年 (永禄12年) 本圀寺の変後に京都で任務にあたる
- 1570年 (元亀元年) 姉川の戦いに参加する
- 1571年 (元亀2年) 長島一向一揆攻めに参加する
- 1573年 (元亀4年) 足利義昭との戦いに参加する
- 1573年 (天正元年) 朝倉氏攻めに参加する
- 1574年 (天正2年) 長島一向一揆攻めに参加する
- 1575年 (天正3年) 越前を与えられ北ノ庄城主となる
- 1576年 (天正4年) 北陸方面を任される
- 1577年 (天正5年) 手取川の戦いで上杉軍に敗退
- 1580年 (天正8年) 加賀を平定する
- 1581年 (天正9年) 京都御馬揃えに参加する
- 1582年 (天正10年) 魚津城を攻める
- 1582年 (天正10年) 本能寺の変が起こる
- 1582年 (天正10年) 清洲会議が開かれる
- 1582年 (天正10年) お市の方と結婚する
- 1583年 (天正11年) 賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れる
- 1583年 (天正11年) 北ノ庄城で自害する
- 柴田勝家の生涯
- 柴田勝家の年表で重要な出来事
- 柴田勝家と関係の深い人物
- 柴田勝家の年表でよくある疑問
柴田勝家とはどんな人?
柴田勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。当初は織田信秀やその息子の織田信勝に仕え、のちに織田信長の家臣となりました。通称は「権六」と呼ばれています。
信長のもとでは越前北ノ庄城を拠点にして、北陸方面の支配を任されるほどの信頼を得ました。信長の死後は、信長の妹であるお市の方と結婚しました。最後は羽柴秀吉との主導権争いに敗れ、お市とともに生涯を閉じました。
なお、勝家が生まれた年については、1522年説、1526年説、1527年説などがあり、確かな生年はわかっていません。
柴田勝家の年表
1522年(大永2年)ごろ 柴田勝家が生まれる
柴田勝家は尾張国で生まれたとされています。生年には1522年説、1526年説、1527年説などがあり、確かな年はわかっていません。
1551年 (天文20年) 織田信秀が亡くなる
主君・織田信秀が他界。
その後は信長の弟 織田信勝に仕え家老となります。
1552年 (天文21年) 萱津の戦いで武功をあげる
勝家は、清洲城主である織田信友との戦いで武功をあげました。萱津の戦いでは、敵方の家老を討ち取ったと伝わります。
1556年 (弘治2年) 稲生の戦いで信長に敗れる
勝家は織田信勝を織田弾正忠家にすべく織田信長を排除しようとします。しかし稲生の戦いで敗北。信長と信勝の母である土田御前の願いもあり、勝家は許されました。
1557年 (弘治3年) 信勝の計画を信長に知らせる
信勝が再び信長に対抗しようとしたとき、勝家はその動きを信長に知らせました。信勝は清洲城へ呼び出され殺害されます。これ以降、勝家は信長の家臣として活動していきます。
1568年 (永禄11年) 信長の上洛に参加する
信長が足利義昭とともに京都へ向かうと勝家も従軍しました。京都周辺や畿内の戦いに関わり、信長軍の有力武将として活動します。
1569年 (永禄12年) 本圀寺の変後に京都で任務にあたる
三好三人衆が足利義昭を襲った本圀寺の変が起こると、勝家は信長とともに京都へ向かいました。その後、京都や畿内の政治・軍事に関わります。
1570年 (元亀元年) 姉川の戦いに参加する
浅井長政が信長から離反し、朝倉義景と結びました。勝家は信長軍の一員として姉川の戦いに参加します。この時期の勝家は近江や畿内周辺の戦いにも関わっています。
1571年 (元亀2年) 長島一向一揆攻めに参加する
長島一向一揆攻めに参加しました。退却の場面で勝家の隊は殿を務め、勝家自身も負傷したと伝わります。
1573年 (元亀4年) 足利義昭との戦いに参加する
2月。信長と対立した将軍・足利義昭が挙兵すると、勝家も織田軍の一員として戦いました。義昭はのちに京都を追放され、室町幕府は事実上終わりを迎えます。
1573年 (天正元年) 朝倉氏攻めに参加する
8月。信長は越前の朝倉氏を攻め朝倉義景を滅ぼしました。勝家もこの戦いに参加しています。この出来事は、のちに勝家が越前を任される前段階になります。
9月。2度目の長島一向一揆攻めに参加。
1574年 (天正2年) 長島一向一揆攻めに参加する
3度目の長島一向一揆攻めに参加。賀鳥口を佐久間信盛と共に指揮しました。
1575年 (天正3年) 越前を与えられ北ノ庄城主となる
越前一向一揆が平定されたあと、勝家は越前国を与えられました。勝家は北ノ庄城を拠点にし、北陸方面を担当する立場になります。
1576年 (天正4年) 北陸方面を任される
加賀の一向一揆平定を命じられました。前田利家、佐々成政、不破光治らも勝家のもとに付けられ、北陸方面で活動します。
1577年 (天正5年) 手取川の戦いで上杉軍に敗退
上杉謙信が加賀方面へ進むと、勝家は七尾城の救援へ向かいました。七尾城はすでに落ちており、勝家は退却の途中で上杉軍の襲撃を受け被害を受けます。手取川の戦いの規模や被害については千人余りとも言われますが諸説あります。
1580年 (天正8年) 加賀を平定する
勝家が加賀の一向一揆勢力を平定。これにより織田家の北陸支配は加賀方面まで広がります。勝家はさらに能登や越中方面へも進んでいきます。
1581年 (天正9年) 京都御馬揃えに参加する
信長が京都で大規模な御馬揃えを実施。勝家は越前衆を率いて参加しました。越前衆には、勝家のもとで北陸方面に関わった武将たちが含まれます。
1582年 (天正10年) 魚津城を攻める
勝家は上杉方の魚津城を攻めました。魚津城は6月3日に落ちますが、その前日の6月2日未明に本能寺の変が起きています。
1582年 (天正10年) 本能寺の変が起こる
本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。勝家は北陸方面にいたため、すぐに畿内へ向かうことが難しい状況でした。
その間に羽柴秀吉が中国地方から戻り山崎の戦いで明智光秀を討ちました。
1582年 (天正10年) 清洲会議が開かれる
信長の死後、清洲会議で織田家の後継や領地配分が話し合われました。
秀吉は明智光秀を討った実績を背景に織田家中で発言力を強めます。勝家は北近江三郡と長浜城を得ますが、秀吉との立場の差は広がっていきます。
1582年 (天正10年) お市の方と結婚する
勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。清洲会議後の織田家中の関係の中で成立した結婚です。
1583年 (天正11年) 賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れる
勝家は滝川一益や織田信孝と結び、羽柴秀吉に対抗しました。
4月。近江の賤ヶ岳で戦いますが勝家は敗北。越前の北ノ庄城へ戻りました。
1583年 (天正11年) 北ノ庄城で自害する
天正11年4月24日(1583年6月14日)。勝家の居城・北ノ庄城が秀吉軍に攻められ、お市の方とともに自害しました。お市の娘たちは城を出され、生き延びました。
柴田勝家の生涯
年表で全体の流れを確認したところで、勝家の立場がどのように変わっていったのか時期ごとに詳しく見てみましょう。
織田信勝に仕えた若いころ
柴田勝家は、若いころに織田信長の弟・織田信勝に仕えました。信秀の死後、勝家は信勝の家老として動き、1556年の稲生の戦いでは信勝側として信長と戦っています。
敗れた勝家は、土田御前の願いもあって信長に許されました。翌1557年には、信勝が再び信長に対抗しようとした動きを信長へ知らせます。ここから勝家は、信長の家臣として活動することになります。
信長の家臣として活動した時期
稲生の戦いのあと、勝家は信長に許されました。桶狭間の戦いや美濃攻めでは、勝家の大きな働きを伝える記録は目立ちません。
1560年代半ばになると、信長の文書に関わる立場にいたことが確認できます。1568年の上洛以後は、京都周辺の戦いや畿内の任務に加わりました。姉川の戦い、足利義昭との戦い、一向一揆との戦いにも参加し、信長の軍事行動を支えています。
越前北ノ庄城を拠点にした時期
1575年、勝家は越前国を与えられ、北ノ庄城を拠点にしました。ここから勝家は、北陸方面を担当する大名として活動します。
勝家には、前田利家、佐々成政、不破光治らが付けられました。加賀一向一揆の平定、上杉氏との対立、能登や越中方面への進出が、この時期の主な出来事です。北ノ庄城は現在の福井市に関わる城で、勝家の北陸支配を語るうえで欠かせません。
本能寺の変後に秀吉と対立した時期
1582年6月、本能寺の変で信長が亡くなりました。このとき勝家は、越中の魚津城を攻めていました。北陸では上杉方への対応もあり、勝家はすぐに畿内へ向かうことが難しい状況にありました。
一方、羽柴秀吉は中国地方から戻り、山崎の戦いで明智光秀を討ちました。この実績により、秀吉は織田家中で発言力を強めます。清洲会議のあと、勝家と秀吉の対立は深まり、翌1583年の賤ヶ岳の戦いにつながります。
賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城での最期
勝家は、滝川一益や織田信孝と結び、秀吉に対抗しました。1583年、近江の賤ヶ岳で勝家と秀吉の軍が戦います。戦いは秀吉側の勝利となり、勝家は北ノ庄城へ戻りました。
勝家は北ノ庄城でお市の方とともに自害しました。お市の娘たちは城の外へ出され、生き延びたと伝わります。勝家やお市の方が最後に何を思ったのか、詳しい心情までは記録に残っていません。
柴田勝家の年表で重要な出来事
ここからは、勝家の生涯における大きなターニングポイントをいくつかピックアップして解説します。
稲生の戦い
稲生の戦いは1556年に起きた織田信長と織田信勝の戦いです。勝家は信勝の家老だったため、信勝側として戦いました。
勝家は敗れましたが、土田御前の願いもあって信長に許されました。この出来事のあと、勝家は信長の家臣となります。
北ノ庄城と越前支配
勝家は1575年に越前を与えられ、北ノ庄城を拠点にしました。北ノ庄城は、現在の福井市に関わる城です。
勝家はここを拠点に、加賀一向一揆の平定や上杉氏への対応を進めました。北ノ庄城は、勝家が信長の家臣から北陸方面を任される大名へ移ったことを示す場所です。
本能寺の変
本能寺の変のとき、勝家は越中の魚津城を攻めていました。信長が明智光秀に討たれたことを知ると勝家は北ノ庄城へ戻ります。
羽柴秀吉は中国地方から戻り、山崎の戦いで明智光秀を討ちました。この出来事により、秀吉は織田家中で大きな発言力を持つようになります。
清洲会議
清洲会議は、信長の死後に織田家の後継や領地配分を話し合った会議です。勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らが関わりました。
従来は、勝家が信長の三男・織田信孝を推し、秀吉が三法師を推したと説明されることが多くありました。近年は、三法師の後継をめぐる説明について再検討する見方もあります。
お市の方との結婚
勝家は、清洲会議後にお市の方と結婚しました。お市の方は信長の妹で、以前は浅井長政の妻でした。
この結婚は、信長の死後に織田家中の関係が変わる中で成立しました。織田家の重臣である勝家と、信長の妹であるお市の方の結婚として説明される出来事です。
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いは、1583年に起きた勝家と秀吉の戦いです。勝家は滝川一益や織田信孝と結び、秀吉に対抗しました。
戦いは秀吉側の勝利となり、勝家は北ノ庄城へ戻ります。勝家はお市の方とともに自害し、織田家の有力重臣としての生涯を終えました。
柴田勝家と関係の深い人物
勝家の生涯を語るうえで、外せない人物たちとの関わりを見てみましょう。
織田信長
織田信長は、勝家がのちに仕えた主君です。勝家は若いころ、信長の弟・織田信勝に仕え、稲生の戦いでは信長と戦いました。
その後、勝家は信長に許され、信長の家臣として活動します。上洛以後は畿内や北陸方面の戦いに関わり、越前を任されました。
織田信勝
織田信勝は、信長の弟です。勝家は若いころ、信勝の家老として仕えました。
1556年の稲生の戦いでは、勝家は信勝側として信長と戦っています。翌1557年、信勝が再び信長に対抗しようとした動きを、勝家は信長に知らせました。
羽柴秀吉
羽柴秀吉は、本能寺の変後に勝家と対立した人物です。秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田家中で発言力を高めました。
清洲会議のあと、勝家と秀吉の対立は深まります。1583年の賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利し、勝家は北ノ庄城で亡くなりました。
お市の方
お市の方は、織田信長の妹です。浅井長政の妻だった人物で、浅井氏滅亡後は織田家に戻りました。
清洲会議後、お市の方は柴田勝家と結婚します。1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れたあと、北ノ庄城で勝家とともに亡くなりました。
前田利家
前田利家は、北陸方面で勝家のもとに付けられた武将の一人です。勝家が越前を拠点に北陸方面を担当した時期、利家もその中で活動しました。
のちに利家は豊臣政権で大きな地位を得ます。勝家との関係をたどると、織田家の北陸方面の人間関係も見えてきます。
柴田勝家の年表でよくある疑問
柴田勝家はいつ生まれたのですか?
柴田勝家は、1522年ごろに生まれたとされることがあります。ただし、1526年説や1527年説などもあります。確かな生年はわかっていません。
柴田勝家は何歳で亡くなったのですか
柴田勝家は天正11年4月24日に亡くなりました。現在の暦では1583年6月14日です。享年62とされますが、生年に諸説があるため、年齢は目安として扱われています。
柴田勝家はなぜ信長と戦ったのですか
勝家は若いころ信長の弟・織田信勝に仕えていました。そのため、1556年の稲生の戦いでは信勝側として信長と戦いました。
柴田勝家はなぜ秀吉と対立したのですか
本能寺の変のあと羽柴秀吉は明智光協を討ったことで織田家中で発言力を高めました。清洲会議後、勝家と秀吉の立場の差が広がり、やがて賤ヶ岳の戦いにつながりました。
柴田勝家とお市の方はいつ結婚したのですか
柴田勝家とお市の方は1582年の清洲会議後に結婚しました。信長の死後、織田家中の関係が変わる中で成立した結婚です。
柴田勝家の居城はどこですか
柴田勝家の居城は、越前の北ノ庄城です。現在の福井市に関わる城で、勝家はここを拠点に北陸方面を担当しました。
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