2026年度後期の朝ドラ『ブラッサム』の主人公・葉野珠(はの たま)は、作家の宇野千代(うの ちよ)をモデルにした人物です。
2026年度後期の朝ドラ『ブラッサム』で、主人公・葉野珠のモデルになったのが作家の宇野千代です。
宇野千代は山口県岩国に生まれ、『色ざんげ』『おはん』『生きて行く私』などを発表しました。作家として知られる一方、自ら出版社を経営してファッション誌『スタイル』を発行し、戦後は着物のデザインにも取り組んでいます。
宇野千代を紹介するときには、何度も結婚したことや東郷青児との恋愛がよく話題になります。もちろん、それも本人の人生の一部です。ただ、98年の生涯をたどると、17歳で教師になり、24歳で作家として認められ、39歳で出版社を設立し、その会社が倒産したあとも文章を書き続けています。恋愛の話だけを取り上げてしまうと、この長い作家生活がほとんど抜け落ちてしまいます。
『ブラッサム』では、岩国で育った少女・葉野珠がやがて作家になっていきます。珠という人物や家族の名前はドラマ用に作られていますが、幼くして実母を亡くしたことや継母に育てられたことなど、宇野千代の経歴を参考にした設定もあります。
では、実際の宇野千代はどんな人だったのでしょうか。
朝ドラ「ブラッサム」葉野珠のモデルは宇野千代
『ブラッサム』の主人公・葉野珠のモデルは山口県岩国出身の作家・宇野千代です。青年期から中年期の珠を石橋静河さん、1980年代の珠を加賀まりこさんが演じます。
第1週から宇野千代の少女時代を参考にした設定がかなり使われています。珠は岩国で育ち、幼いころに実母を亡くし、継母リョウと暮らしています。
宇野千代も岩国に生まれて生後1年半ほどで実母トモを亡くしました。その後は父・俊次が佐伯リュウと再婚して千代はリュウに育てられています。
さらにドラマ第1回では1982年の珠が新聞連載「生きて行く私」を執筆しています。宇野千代も1982年から『毎日新聞』日曜版で自伝的作品『生きて行く私』を連載しました。
つまり『ブラッサム』は岩国での少女時代だけでなく、80代になった宇野千代が自分の人生を書いた時期まで取り入れて物語を始めています。
では、その宇野千代はどんな人生を送ったのでしょうか。
宇野千代とはどんな人物?
宇野千代は1897年11月28日、現在の山口県岩国市に生まれました。1996年6月10日に98歳で亡くなるまで、小説や随筆を書き続けた作家です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 宇野千代 |
| 生年月日 | 1897年11月28日 |
| 出身地 | 山口県岩国市 |
| 職業 | 小説家、編集者、実業家、着物デザイナー |
| 代表作 | 『色ざんげ』『おはん』『生きて行く私』など |
| 主な受賞・顕彰 | 野間文芸賞、女流文学者賞、日本芸術院賞、菊池寛賞、文化功労者など |
| 没年月日 | 1996年6月10日 |
| 享年 | 98歳 |
1921年、「脂粉の顔」が『時事新報』の懸賞小説で一等になり、作家として知られるようになりました。その後は小説や随筆を発表するだけでなく、自分で出版社を設立して雑誌を作り、着物の仕事にも進出しています。
作家といっても文学だけに専念するより、自分で出版社まで作って事業として始めたりしました。しかも出版社の経営は一時的なものではなく、1936年の設立から1959年の倒産まで20年以上続きました。
宇野千代は岩国でどんな少女時代を送った?
『ブラッサム』の最初の舞台になっている岩国は、宇野千代が実際に生まれ育った町です。
千代は女学校を卒業するまで岩国で暮らしました。18歳で故郷を離れたあとも家族との付き合いは続き、のちには岩国を思わせる町を小説にも書いています。代表作『おはん』には、臥竜橋や大名小路など当時の岩国にあった地名も登場しました。
幼くして実母を亡くす
宇野千代は父・宇野俊次と母・トモの長女として生まれました。母トモは1899年(明治32年)、千代がまだ1歳半ほどのころに肺結核で亡くなっています。
母を失った千代は、しばらく父の実家に預けられました。父方の宇野家は高森で代々造り酒屋を営んでいた家です。
しかも千代は、トモが自分を産んだ母だとは知らずに育りました。実母について聞かされたのは14歳のときです。
継母リュウに育てられる
実母トモが亡くなった翌年、父・俊次は17歳の佐伯リュウと再婚しました。その後、俊次とリュウの間には5人の子供が生まれています。
リュウは千代も育てました。千代も幼い弟や妹の面倒を見ており、後年には当時の自分について「小さいお母さんになったような心持」だったと振り返っています。
14歳になって自分を産んだ母が別にいたことを知っても、千代とリュウの関係は続きました。千代にとってリュウは、実際に自分を育ててくれた母だったのでしょう。
14歳で結婚
宇野千代は1911年(明治44年)。14歳のときに結婚しました。相手は従兄の藤村亮一でした。
父の意向による結婚でしたが、生活は10日ほどで終わり、千代は実家へ戻ってしまいます。
16歳で父が他界
1913年(大正2年)、千代が16歳のときに父・俊次が亡くなりました。父の死後も、千代はリュウや弟妹との付き合いを続けています。
その後は岩国を離れて各地で暮らすようになりますが、故郷との関係も続きました。晩年には岩国へたびたび帰り、1990年(平成2年)には岩国市の名誉市民になっています。
女学校時代から文章を書いていた
千代は岩国尋常小学校を卒業後、岩国高等女学校へ進学しました。学校の校友会雑誌には千代の作文が掲載されています。
父が亡くなったころには、「女子文壇」などの雑誌へ別名で投稿するようになりました。
1921年(大正10年)に「脂粉の顔」で懸賞小説の一等になる何年も前から、文章を書いて雑誌へ投稿していたことになります。
教師になった宇野千代
1914年(大正3年)、17歳の宇野千代は岩国高等女学校を卒業し、川下村尋常小学校の代用教員になりました。
当時の教え子が残した記録には、千代が時間をかけて子供たちに教えていた様子が書かれています。教師をしながら仲間と回覧雑誌「海鳥」も作っていました。
女学校を卒業したあとも、文章を書くことは続けていたのです。
同僚教師との恋愛で学校を去る
川下村尋常小学校へ赴任してきた男性教師に千代は恋をしました。二人の関係が周囲にも知られるようになり、千代は学校を免職されています。
後年、当時の教え子は「先生の恋文を運んだ」と振り返っています。
教師を辞めた千代は18歳で岩国を離れ、知人を頼って京城(現在の韓国・ソウル)へ渡りました。その後は京都、札幌、東京へと住む場所を変えています。
元夫の弟と結婚
その後、京城から帰国した千代は亮一の弟・藤村忠を頼って京都へ行き、忠と暮らすようになりました。1919年(大正8年)、22歳で忠と正式に結婚しています。
忠の仕事の都合で札幌へ移った千代は、そこで小説を書きました。
そして1921年(大正10年)、作家として活動するきっかけをつかみます。
「脂粉の顔」で作家として知られるようになる
1921年(大正10年)、24歳の宇野千代は『時事新報』の懸賞小説へ「脂粉の顔」を応募しました。
結果は一等。賞金は200円でした。さらに「墓を発く」が『中央公論』に掲載され、千代は作家として小説を発表するようになります。
女学校時代から投稿を続けていた千代にとって、ここで初めて作品が大きく評価されたことになります。
東京で尾崎士郎らと知り合う
作家として活動するため東京へ出た千代は、多くの文学者と付き合うようになります。その一人が尾崎士郎でした。
当時、千代は藤村忠と結婚していましたが、やがて尾崎と暮らすようになります。1924年(大正13年)に藤村忠との離婚が成立し、その後、尾崎と正式に結婚しました。
川端康成に誘われて伊豆湯ヶ島へ滞在したときには、梶井基次郎や三好達治らとも知り合っています。
宇野千代は4度結婚した
宇野千代は生涯に4度結婚しました。
最初は1911年(明治44年)の藤村亮一。その後、藤村忠、作家の尾崎士郎、作家の北原武夫と結婚しています。
尾崎士郎と別れたあとには、画家の東郷青児と一緒に暮らしていた時期もありました。東郷とは婚姻届を出していません。
宇野千代については恋愛や結婚がよく話題になりますが。宇野千代の場合はその相手が作品や仕事にも関係していました。
東郷青児との関係は『色ざんげ』を書くきっかけになりますし、北原武夫は宇野千代が経営したスタイル社にも関わっています。
宇野千代は出版社を経営した
1936年(昭和11年)、39歳の宇野千代はスタイル社を設立。ファッション誌『スタイル』を創刊しました。
『スタイル』は洋装や美容、流行などを扱う月刊誌です。宇野千代自身も編集に携わっていました。
1936年(昭和11年)6月発行の『スタイル』創刊号は「日本初のファッション誌」といわれます。
戦時中は出版統制の影響を受けてスタイル社はいったん解散しました。戦後になると『スタイル』を復刊、再び雑誌を発行しています。
ところが競合誌が増えると経営が悪化して1959年(昭和34年)にスタイル社は倒産しました。
しかしその会社を失ったあとも作家を続けています。
着物のデザインにも取り組んだ宇野千代
宇野千代は着物の仕事にも取り組みました。
1949年(昭和24年)には「宇野千代きもの研究所」を設立。1957年(昭和32年)にはアメリカへ渡り、シアトルで自らデザインした着物のショーを開きました。
宇野千代の着物でよく知られているのが桜の模様です。晩年まで桜を使った商品が作られ、現在でも宇野千代の名前と桜は結びついています。
宇野千代の代表作
宇野千代は長い作家生活の間に多くの小説や随筆を書きました。
『ブラッサム』を見るうえで知っておきたい作品として、『色ざんげ』『おはん』『生きて行く私』があります。
『色ざんげ』
『色ざんげ』は1933年(昭和8年)から『中央公論』に連載された小説です。
画家・東郷青児の恋愛体験を題材にした作品として知られています。当時、宇野千代と東郷は一緒に暮らしていました。
東郷から聞いた恋愛の話を宇野千代が小説に取り入れた作品で、本人の生活と文学が深く関係していた時期の代表作です。
宇野千代の恋愛が現在まで繰り返し取り上げられる背景には、『色ざんげ』のように身近な恋愛が実際に作品の題材になったことも関係しています。
『おはん』
戦後の代表作が『おはん』です。
1947年(昭和22年)から長い年月をかけて書かれ、1957年(昭和32年)に刊行されました。同年に野間文芸賞、翌1958年(昭和33年)には女流文学者賞を受賞しています。
作品には宇野千代が育った岩国を思わせる町が描かれています。臥竜橋や大名小路など、実際の岩国にあった地名も登場しました。
18歳で岩国を離れた宇野千代が、何十年もたってから自分が育った町を小説の中に書いています。故郷を離れて各地で暮らしても、岩国で過ごした少女時代は作品の中に残っていました。
『生きて行く私』
『生きて行く私』は、宇野千代が自分の人生を振り返って書いた自伝的作品です。
1982年(昭和57年)から1983年(昭和58年)にかけて『毎日新聞』日曜版に連載され、その後単行本になりました。宇野千代はこの作品で、岩国での少女時代、家族、恋愛、結婚、作家たちとの付き合いなどについて書いています。
宇野千代の晩年と最期
スタイル社が1959年(昭和34年)に倒産したあとも、宇野千代は執筆を続けました。
1972年(昭和47年)には日本芸術院賞、1974年(昭和49年)には勲三等瑞宝章を受章。1982年(昭和57年)には菊池寛賞を受賞しました。1990年(平成2年)には岩国市の名誉市民となり、文化功労者にも選ばれています。
宇野千代は80代になっても執筆を続けました。1982年(昭和57年)には『毎日新聞』日曜版で『生きて行く私』の連載を始め、自分の少女時代や家族、恋愛、結婚、作家として出会った人々について書いています。この作品は多くの読者に読まれ、同じ年には菊池寛賞も受賞しました。
故郷の岩国との付き合いも晩年まで続きました。1990年(平成2年)には岩国市の名誉市民となり、同じ年に文化功労者にも選ばれています。若いころには教師の仕事を失って岩国を離れましたが、その後も家族との関係は続き、『おはん』では故郷を思わせる町を書きました。晩年には生家へ帰ることもありました。
90歳を過ぎても小説や随筆を発表し、1996年(平成8年)6月10日に98歳で亡くなりました。
葉野珠と宇野千代はどこまで同じ?
第1週までを見ると、葉野珠の少女時代には宇野千代の経歴を参考にした設定がいくつもあります。
宇野千代は岩国で生まれ、生後1年半ほどで実母トモを亡くし、継母リュウに育てられました。『ブラッサム』の珠も岩国で育ち、幼くして実母を亡くし、継母リョウと暮らしています。
1982年(昭和57年)に「生きて行く私」を書いている設定も、宇野千代の経歴から取られています。
これから珠が成長すれば、教師になった時期や岩国を離れた理由、結婚、作家になるきっかけなども描かれるでしょう。宇野千代が実際に経験した出来事をどこまで使うのか、ドラマではどのように変えるのか。その違いは放送が進んでから確認したいと思います。
珠がドラマで経験したことは、宇野千代にも実際にあったのでしょうか。
今後も教師時代、結婚、作家仲間との付き合い、出版社の経営まで、『ブラッサム』で描かれた内容に合わせて宇野千代の経歴も紹介していきます。


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