朝ドラ『ブラッサム』で井浦新さんが演じる山中勇三は、文芸雑誌「首都公論」の副編集長です。モデルと考えられるのは、『中央公論』の編集者だった嶋中雄作(しまなかゆうさく)。『婦人公論』の創刊に取り組み、のちに中央公論社の社長となった人物です。
葉野珠のモデル・宇野千代とも付き合いがあり、千代は嶋中の自宅を訪れています。そのとき目にした人形が、作品『人形師天狗屋久吉』を書くきっかけになりました。
山中と嶋中にはどんな共通点があるのでしょうか。嶋中の編集者としての仕事と、千代との具体的な交流を紹介します。
山中勇三のモデルと考えられる嶋中雄作
井浦新が演じる「首都公論」の副編集長
山中勇三は、遠藤憲一さんが演じる編集長・黒崎大三郎のもとで働く副編集長です。多くの作家が作品を寄せる「首都公論」で、黒崎を補佐し、冷静に判断する編集者として登場します。
珠が小説を書くようになると、作品を読んで掲載を判断する編集者たちとも関わることになります。山中も、その出版社で働く一人です。
滝田樗陰のもとで働いた嶋中との共通点
嶋中雄作も、中央公論社に入社して、先輩編集者の滝田樗陰(たきたちょいん)のもとで働きました。滝田は、黒崎大三郎のモデルと考えられる人物です。
ドラマでは黒崎と山中が「首都公論」で働き、史実では滝田と嶋中が『中央公論』を編集していました。雑誌の名前に加え、先輩の編集者を後輩が支えるという関係も似ています。
こうした共通点から、山中のモデルには嶋中雄作が考えられます。
嶋中雄作の経歴と中央公論社での仕事
奈良での誕生と中央公論社への入社
嶋中雄作は1887年、現在の奈良県桜井市にあたる三輪町で生まれました。早稲田大学で哲学を学び、大学の恩師だった島村抱月らの推薦を受け、1912年に中央公論社へ入社します。
当時、『中央公論』の編集を担っていたのが滝田樗陰でした。嶋中は滝田のもとで、原稿を読み、企画を考える雑誌編集の仕事を始めます。
宇野千代は1897年生まれなので、嶋中は10歳年上です。千代が作家として作品を発表する前から、出版社で働いていたのですね。
『婦人公論』の創刊と初代主幹
嶋中の仕事としてよく知られているのが、1916年1月の『婦人公論』創刊です。
女性の権利に関心を持っていた嶋中は、まず『中央公論』で女性の問題を扱う特集号を提案しました。その後、女性向けの雑誌を作ろうと会社に働きかけ、『婦人公論』の創刊を実現させます。嶋中自身が初代主幹となり、企画や編集を担当しました。
誌面で取り上げたのは、女性の教育や職業、結婚などの問題です。平塚らいてうや与謝野晶子も執筆し、家庭で妻や母として暮らすことに加え、女性自身が何を望み、どんな仕事をするのかについても論じました。
ドラマの山中は副編集長ですが、嶋中には、自分で新しい雑誌の創刊を進めた経験もあったのです。
社長就任と書籍出版への取り組み
嶋中は1928年8月、中央公論社の社長に就任します。翌1929年には出版部を設け、雑誌に加えて書籍の刊行にも取り組みました。
出版部の第一作となったのが、ルマルクの『西部戦線異状なし』です。この本がよく売れ、会社の経営を助けました。
嶋中は編集者として雑誌を作ったあと、社長として会社の経営や書籍の出版にも責任を持つようになりました。
宇野千代と嶋中雄作の交流
嶋中家で目にした天狗久の人形
宇野千代と嶋中雄作には、千代が嶋中の自宅を訪れる付き合いがありました。そこで千代が目にしたのが、阿波の人形師・天狗久(てんぐひさ)の作った人形です。
天狗久の本名は吉岡久吉といい、人形浄瑠璃で使う人形の頭を作っていました。千代はその人形にひかれ、作者本人に会いたいと考えます。
嶋中家に人形が贈られたきっかけは徳島の新聞記者・久米惣七の取材でした。久米は天狗久の工房に通って話を聞き、1940年の『中央公論』7月号・8月号に「人形師芸談」を発表します。その縁で、天狗久が社長の嶋中に人形を贈ったのです。
千代は天狗久に会うため、取材をした久米に連絡を取りました。出版社の社長宅で見た一体の人形から、徳島の職人を訪ねることになったのですね。
徳島での取材と『人形師天狗屋久吉』
千代は1942年4月、徳島を訪れて天狗久と会いました。さらに2か月後にも徳島へ出向き、一週間にわたって天狗久のもとへ通い、話を聞いています。
人形に関心を持った千代は、作者の仕事場まで足を運び、本人から聞いた話を作品にしました。こうして書いたのが『人形師天狗屋久吉』です。1942年11月号・12月号の『中央公論』に掲載されました。
徳島県立文学書道館には、この作品の原稿や、千代から久米に送った書簡が残されています。
嶋中と千代の交流から生まれた具体的な作品を知りたい方には、この『人形師天狗屋久吉』が挙げられます。嶋中が贈られた人形を千代が見たことで取材が始まり、完成した作品は、嶋中が社長を務める出版社の雑誌に載ったのです。
滝田樗陰と嶋中雄作の関係
『中央公論』と『婦人公論』の編集
嶋中が中央公論社に入ったころ、滝田樗陰はすでに『中央公論』の編集を担っていました。嶋中はそのもとで仕事を覚え、女性の問題を扱う特集など、自分の企画も提案していきます。
『婦人公論』の創刊後は、嶋中が同誌の主幹となりました。同じ出版社で、滝田が『中央公論』を、嶋中が『婦人公論』を担当した時期があったのです。
黒崎を補佐する山中からは、入社後に滝田のもとで働いていたころの嶋中を思い浮かべます。ただ、嶋中はその後、自分が創刊に取り組んだ雑誌でも編集を担うようになりました。
部員と相談する企画編集会議
滝田は『中央公論』の編集で大きな権限を持ち、企画や掲載作品を判断していました。一方、嶋中が担当する『婦人公論』では、編集部員が増えると企画編集会議を開くようになります。
1919年には、嶋中のほかに波多野秋子や半沢成二らが加わり、4人で編集に携わっていました。嶋中は部員が企画を持ち寄り、相談できる場を設けて雑誌を作っていたのです。
戦時中の会社解散と戦後の復刊
嶋中は、戦時中に会社の解散も経験しています。1944年、中央公論社は当局から廃業を迫られ、7月末に会社を解散しました。『中央公論』も休刊となります。
戦後、嶋中らは会社を再建し、1946年1月号から『中央公論』を復刊させました。嶋中は出版の仕事を再開しましたが、1949年1月17日、61歳で亡くなります。
山中のモデルと考えられる嶋中は雑誌の編集から創刊、会社の経営、戦後の復刊まで、長く出版に携わった人物でした。
山中勇三と嶋中雄作についてよくある疑問
山中勇三役の俳優
山中勇三を演じるのは井浦新さんです。「首都公論」の副編集長として、遠藤憲一さん演じる編集長・黒崎大三郎を補佐します。
嶋中雄作の名前の読み方
「嶋中雄作」は「しまなかゆうさく」と読みます。奈良県出身の編集者で、『婦人公論』の初代主幹や中央公論社の社長を務めました。
宇野千代の作品が生まれたきっかけ
千代は嶋中の自宅で天狗久の人形を見たことから、作者に会うため徳島へ出かけました。その取材をもとに『人形師天狗屋久吉』を書き、1942年の『中央公論』に発表しています。
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