黒崎大三郎(遠藤憲一)のモデルは滝田樗陰?【ブラッサム】宇野千代との出会いと『中央公論』での仕事とは?

朝ドラ『ブラッサム』で遠藤憲一さんが演じる黒崎大三郎は、文芸雑誌「首都公論」の編集長です。モデルと考えられるのは、『中央公論』の編集者・滝田樗陰(たきたちょいん)。珠のモデルとなった宇野千代の小説を、同誌に掲載した人物です。

千代と滝田が出会ったのは、東京・本郷の西洋料理店「燕楽軒」でした。給仕として働く千代が、昼食に訪れる滝田の接客を担当していたのです。

それから数年後、千代は滝田に小説『墓を発く』の原稿を送りました。店の給仕と客として知り合った二人が、今度は作家と編集者として仕事をすることになります。

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ブラッサム黒崎大三郎のモデルは滝田樗陰?

文芸雑誌「首都公論」の編集長・黒崎大三郎

黒崎大三郎は、日本屈指の文芸雑誌「首都公論」の編集長です。編集部には、井浦新さんが演じる副編集長・山中勇三も登場します。

史実の宇野千代にも自分の小説を送った編集者がいました。それが『中央公論』の滝田樗陰です。「首都公論」という雑誌名や、主人公と関わる文芸雑誌の編集長という設定から、黒崎のモデルは滝田と考えられます。

宇野千代の『墓を発く』と滝田樗陰の関わり

千代は燕楽軒で知り合った滝田に『墓を発く』の原稿を送りました。滝田はその小説を採用し、1922年の『中央公論』5月号に掲載しています。

このころの千代は懸賞小説で入選した経験はあっても、まだ作品を発表し始めたばかりでした。滝田は、そんな千代の小説を『中央公論』の読者に届けた編集者だったのです。

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滝田樗陰と宇野千代の出会い

生活費を稼ぐための燕楽軒勤め

1917年、千代は藤村忠とともに京都から東京へ移りました。忠が東京帝国大学に進学したためです。故郷からの仕送りを頼りにできなかった二人は、自分たちで生活費を稼ぐ必要がありました。

千代は雑誌社の事務や家庭教師などの仕事を探し、本郷の西洋料理店「燕楽軒」でも給仕として働きました。東京帝国大学に近いこの店には、作家や編集者も食事に訪れています。千代は働いている間に、今東光や久米正雄、芥川龍之介らと知り合いました。

滝田もその店を訪れる客の一人でした。生活費を稼ぐために勤めた店で、千代はのちに自分の小説を掲載してくれる編集者と出会ったのです。

滝田の五十銭銀貨と18日間の給仕生活

燕楽軒では、滝田が昼食をとるテーブルを千代が担当していました。滝田は帰るとき、いつも五十銭銀貨をチップとして置いていったといいます。
当時の千代には、質屋に預けた品物を取り戻したいという事情がありました。そこで滝田のチップをため、必要な金額がそろうと店を辞めています。燕楽軒で働いたのは、わずか18日間でした。
二人が店で接した期間は短かったのですね。それでも千代は、のちに小説を書いたとき、このときの面識を頼りに滝田へ原稿を送っています。

『墓を発く』の掲載と宇野千代の作家活動

『脂粉の顔』の懸賞小説一等入選

藤村忠と結婚した千代は、忠の就職に伴って1920年に札幌へ移りました。札幌でも小説を書き、1921年には『脂粉の顔』が「時事新報」の懸賞短篇小説で一等に入選します。賞金は200円で、二等に入ったのは尾崎士郎でした。

続いて千代が書いたのが『墓を発く』です。千代はこの作品を、燕楽軒で接客した滝田に送りました。懸賞小説への応募で一等を得たあと、今度は面識のある編集者に直接原稿を送り、雑誌での発表を求めたのです。

札幌からの上京と原稿料366円

1922年、千代は原稿が採用されたかどうかを確かめるため、札幌から東京へ向かいました。『墓を発く』は同年の『中央公論』5月号に掲載され、千代は原稿料366円を受け取っています。その後、いったん故郷の岩国へ帰りました。

掲載されたときの名前は結婚後の姓を使った「藤村千代」です。私たちがよく知る「宇野千代」とは違う名前で発表していたのですね。

懸賞小説の賞金200円に続き、今度は小説の原稿料として366円を受け取りました。千代は作品を発表して、その文章で収入を得るようになっていました。

滝田樗陰の経歴と『中央公論』での仕事

秋田出身の編集者・滝田哲太郎

滝田樗陰は1882年、秋田市に生まれました。本名は滝田哲太郎。「樗陰」は「ちょいん」と読みます。

東京帝国大学で学んでいたころから『中央公論』の翻訳を手がけ、1904年には同誌の記者となりました。その後も編集の仕事を続け、1912年9月に主幹となります。主幹とは、雑誌の編集を中心となって担当する役職です。

千代と燕楽軒で知り合った1917年にはすでに主幹を務めていました。作家に原稿を依頼し、『中央公論』に何を載せるかを判断する編集者だったのです。

夏目漱石・森鷗外らへの執筆依頼

滝田は『中央公論』の文芸欄に夏目漱石や森鷗外らの作品を掲載しました。すでに名を知られた作家に執筆を依頼する一方で、芥川龍之介ら若い作家の作品も取り上げています。千代の『墓を発く』も、こうした雑誌の誌面に載りました。

また『中央公論』では政治や社会の問題についての論文も扱っていました。1916年1月号には、吉野作造が民本主義を論じた文章を掲載しています。滝田は小説の原稿を集めるとともに、当時の政治や社会を論じる文章も読者に届けていました。

黒塗りの人力車と原稿の催促

滝田は黒塗りの人力車に乗り、作家の家を訪ねて原稿を集めていました。家の前に滝田の人力車が来ると、一流作家の仲間入りをした証しのように受け取られたといいます。

一方で、締め切りの催促は厳しかったとも伝わっています。作品の掲載を決めたあとも、雑誌の刊行に間に合うよう作家に原稿を仕上げてもらわなければなりません。滝田はそのために自ら作家のもとへ出かけていました。

 

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