6 戦国時代

井伊家

新野左馬介親矩 今川家臣ながら井伊家に尽くす

新野左馬之助は今川家の家臣。井伊家を監視するために派遣された目付けでした。妹を井伊家に井伊家に嫁がせて井伊家との関係を深めていきます。そのせいでしょうか、今川家臣でありながら、井伊家には同情的でした。井伊家に問題が起きると井伊家のために働き...
織田家

織田有楽斎とはどんな人

織田長益。有楽斎の方が有名ですね。織田信長の弟の一人ですがあまり信長時代の活躍は聞きません。姪の茶々が秀吉の側室になると、茶々の後ろ盾となりました。大坂の陣のときには大阪城にいた人物。織田有楽斎とはどんな人だったのでしょうか。 織田長益・有...
その他

長宗我部盛親・大坂の陣に土佐長宗我部家の再興を賭ける

長宗我部盛親は土佐の戦国大名。関ケ原の戦いで敗れたあと、大坂の陣にも参戦しました。盛親が大坂に来た目的はただひとつ。土佐で長宗我部家を再興することです。若いころから荒々しく、家臣にも厳しかった盛親。大坂の陣で敗北しても処刑される寸前までその...
真田家

真田 大助 幸昌・大阪城で果てた真田信繁の息子

真田信繁の息子で唯一、最後まで信繁と行動を共にした大助。正式な名は、真田 幸昌。大助は通称です。大坂の陣では若くして亡くなりました。16歳とも13歳ともいわれます。講談では真田幸村の息子・真田大助として強烈な印象を残し様々な逸話を残してます...
真田家

真田昌幸・信繁親子に付き従って九度山に来た家臣達

関ケ原の戦いのあと、真田昌幸・信繁親子は高野山に追放となります。 そのとき付き従った家臣は16人でした。信繁の家族も付き従ったといいます。16人いた家臣たちは昌幸の死後13人が上田に戻ってしまいます。彼らは裏切ったのでしょうか?それとも忠義...
徳川家

月光院(お喜世の方)・7代将軍生母

月光院といえば、大奥で天英院のライバルだった女性です。江戸幕府6第将軍・徳川家宣の側室。町民から家宣の屋敷に仕えやがて大奥に入り第7代将軍・徳川家継の生母となります。数ある大奥の逸話の中でも天英院派対月光院派の対立は特に有名なんじゃないでし...
真田家

青柳清庵と三井仁左衛門・真田信繁に最後まで従った武将達

真田昌幸の死後、一周忌を過ぎると13人の家臣が上田に戻りました。 信繁のもとに残ったのは3人だったといいます。高野山蓮華定院書上によると残った家臣は以下の3人です。青柳千弥 三井豊前 高梨采女高梨内記については昌幸・信繁に従った重臣であり娘...
真田家

真田信繁 伝説となった大坂の陣

高野山九度山村で蟄居している真田信繁のもとに大坂からの使者が来ました。 豊臣秀頼の使者だといいます。徳川家康と戦う決心をした豊臣秀頼のため、参戦を求めているのでした。九度山で朽ち果てると思っていた信繁にとっては、絶好のチャンスだったでしょう...
真田家

真田昌幸4・第二次上田合戦から最後まで

慶長3年8月18日(1598年)豊臣秀吉が死去が真田家の運命を分けます。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼が大坂城に入り、徳川家康が伏見の屋敷に入りました。 真田昌幸・信繁親子は伏見に残り家康に従っていました。信幸は上田城に残っています。 伏...
豊臣家

豊臣秀頼・家康が最後まで恐れた男は大坂城と共に滅んだ

大坂の陣で亡くなった豊臣秀頼。一般的には豊臣秀吉の後継者となりながら、母親のいいなりになってる無能で頼りない人物っていわれてます。有名な人物のわりに資料も少なくて、いまだに研究が進んでないんですね。江戸時代に書かれた資料は徳川の視点で作られ...
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