池田恒興とはどんな人物?信長の乳兄弟から清洲会議の宿老となり、長久手で討死した武将

池田恒興は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

織田信長の乳兄弟で幼いころから信長に仕えました。桶狭間の戦い、美濃攻略、姉川の戦いなどに加わり、織田家の古参家臣として地位を高めました。

本能寺の変の後は羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは明智光秀を破る軍に加わりました。清洲会議では、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀と並び、織田家の宿老として出席しています。

最後は小牧・長久手の戦いで秀吉方として戦い、徳川軍との戦いで討死しました。長男の元助、娘婿の森長可も同じ戦いで命を落としています。

この記事では、池田恒興の生涯を、分かっている事実、後世の記録に見える話、注意が必要な説に分けてまとめます。

この記事で分かること

  • 池田恒興が織田家の武将として関わった主な合戦
  • 本能寺の変後に秀吉方へ合流した経緯
  • 清洲会議での池田恒興の立場
  • 小牧・長久手の戦いでの行動と最期
スポンサーリンク

池田恒興とは

池田恒興は尾張国の織田家に仕えた武将です。

池田恒興の人生を語るうえで欠かせないのが、織田信長との深い縁です。恒興の母・養徳院は信長の乳母を務めていました。そのため二人は「乳兄弟」として育ちました。

血のつながりはありません。でも恒興は幼いころから信長のすぐそばで過ごし、織田家を支える武将へと成長していったのです。

信長の家臣として多くの戦場に出ました。本能寺の変が起きたあとは羽柴秀吉と合流します。その後の清洲会議には織田家の重臣として出席。信長亡きあとの一族の行く末を決める重要な場面にも立ち会いました。

プロフィール

  • 名前:池田恒興
  • 読み:いけだ つねおき
  • 通称:勝三郎、紀伊守
  • 号:勝入
  • 別名:信輝
  • 生年:天文5年(1536年)
  • 没年:天正12年4月9日(1584年5月18日)
  • 主君:織田信秀、織田信長、織田信忠、織田秀信、羽柴秀吉
  • 氏族:池田氏
  • 墓所:京都市右京区花園の妙心寺慈雲院、岐阜県揖斐郡池田町本郷の龍徳寺、鳥取県倉吉市の勝入寺、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院

家族

  • 父:池田恒利
  • 母:養徳院
  • 正室:善応院
  • 子:元助、せん、輝政、長吉、長政、若政所、天球院、浅野幸長正室、織田勝長正室
  • 養子:七条
  • 娘婿:森長可、三好信吉など

池田恒興は尾張国の織田家に仕えた武将です。

池田恒興の年表

  • 天文5年(1536年)。池田恒興は尾張国で誕生。
  • 弘治3年(1557年)。信長の弟・織田信勝が謀反を企て、恒興は信勝を殺害。
  • 永禄3年(1560年)5月。桶狭間の戦いに参戦。
  • 元亀元年(1570年)。姉川の戦いで活躍。この戦いのあと、犬山城主となる。
  • 天正2年(1574年)。武田勝頼に奪われた明智城を押さえるため、東濃の小里城に入る。
  • 天正6年(1578年)11月。有岡城の戦いに従軍。
  • 天正8年(1580年)7月。摂津国の尼崎城と花隈城を落とし、戦後は伊丹城を与えられる。
  • 天正10年(1582年)3月。甲州征伐。二人の息子を出陣させ、恒興本人は摂津の留守を守る。
  • 天正10年(1582年)6月2日。本能寺の変。織田信長が明智光秀に討たれるた。このとき恒興は伊丹に滞在中。
  • 天正10年(1582年)6月11日。羽柴秀吉と尼崎で合流。
  • 天正10年(1582年)。山崎の戦い。兵5,000を率いて右翼の先鋒を務め、明智光秀を破る。
  • 天正10年(1582年)6月27日。清洲会議。羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀とともに織田家の宿老として出席。
  • 天正11年(1583年)5月。美濃国内で織田信孝の旧領13万石を与えられ、大垣城に入る。
  • 天正12年(1584年)。小牧・長久手の戦い。恒興は秀吉方として参戦。
  • 天正12年(1584年)。長男の元助、次男の照政、娘婿の森長可とともに犬山城を攻略。
  • 天正12年(1584年)4月9日。三河へ進む途中で岩崎城を攻略。
  • 天正12年(1584年)4月9日。長久手の戦いで、長男の元助、娘婿の森長可とともに戦死。享年49。

 

スポンサーリンク

池田恒興の出自

池田恒興が生まれたのは、天文5年(1536年)の尾張国です。

父の池田恒利は尾張織田氏に仕えていました。でも恒興がまだ幼いうちに亡くなったと伝えられています。

一方、母の養徳院は信長の乳母として織田家に深く関わりました。この縁があって恒興は信長と兄弟のような距離で育つことになります。

養徳院については後に信長の父・織田信秀の側室になったという説もあります。ただし、この話にははっきりした証拠があるわけではありません。

恒興の生い立ちで何より大切なのは、母が信長を育て、恒興自身も信長の身近で育ったということです。

そんな環境もあり恒興は子供のころから信長の身の回りの世話をする小姓として仕え始めました。

織田信長の家臣になる

恒興は若いころから主君のそばで経験を積み、織田家を支える家臣として育っていきました。

弘治3年(1557年)。信長の弟・織田信勝が謀反を企てたとき、恒興は信勝を殺害しました。信勝は信長と家督をめぐって対立していた人物です。恒興はこの事件で、信長側の家臣として行動しました。

永禄3年(1560年)5月。桶狭間の戦いに参戦しました。織田信長が今川義元を討った戦いです。恒興も織田軍の一員として戦いました。

その後、信長が美濃攻略を進めると恒興も軍に加わります。信長が尾張から美濃へ勢力を広げる時期に恒興は各地の戦場で働きました。

姉川の戦いと犬山城主

元亀元年(1570年)。池田恒興は姉川の戦いで活躍しました。この戦いは織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の軍が戦った合戦です。

この戦いのあと、恒興は犬山城主となり、1万貫を与えられました。犬山城は尾張と美濃の境に近い重要な城です。恒興が犬山城を任されたということは織田家の中で信頼を得ていた証といえるでしょう。

その後も恒興は比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなどに参陣しました。信長が畿内や各地で戦いを進める中で恒興は織田軍の一員として戦い続けました。

天正2年(1574年)。武田勝頼に奪われた明智城を押さえるため、東濃の小里城に入りました。このころの恒興は織田信長の嫡男・織田信忠の付属として動いています。

天正6年(1578年)11月。有岡城の戦いに従軍しました。

 

花隈城の戦いと摂津支配

天正8年(1580年)7月。池田恒興は摂津国の尼崎城と花隈城を落としました。花隈城の戦いです。

戦後、恒興は伊丹城を与えられました。荒木村重の反乱後、摂津国の支配を立て直すうえで、恒興は大きな役割を担います。

同じ年の6月には、荒木村重の配下だった中西新八郎らを与力としました。旧荒木勢力を織田方の支配に組み込むための処置です。

天正10年(1582年)3月。織田・徳川連合軍による甲州征伐が行われました。このとき恒興は二人の息子を出陣させています。本人は摂津の留守を守るよう信長から命じられました。

恒興は摂津の要地を任される立場にもなっていたのでした。

本能寺の変と山崎の戦い

天正10年(1582年)5月。池田恒興は、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉の援軍に向かうよう命じられました。

ところが同年6月2日、織田信長は京都の本能寺で明智光秀に討たれました。本能寺の変です。

このとき恒興は伊丹にいました。恒興は中川清秀や高山右近ら摂津衆が明智光秀に味方しないように動きます。

6月11日。羽柴秀吉が中国攻めから引き返して尼崎に到着すると、恒興は摂津衆とともに秀吉に合流しました。

このとき三好信吉(後の豊臣秀次)を恒興の娘婿にし、恒興の次男・輝政を秀吉の養子にする約束が結ばれました。恒興は剃髪し、勝入と号します。

山崎の戦いでは、恒興は兵5,000を率いて右翼の先鋒を務めました。秀吉方の一員として明智光秀を破り、織田家の宿老に列しました。

信長の死後、恒興は明智光秀に味方しませんでした。秀吉と行動をともにします。この選択が、清洲会議後の立場にもつながりました。

清洲会議と秀吉への接近

天正10年6月27日。山崎の戦いのあと、清洲会議が開かれました。

池田恒興は、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀とともに織田家の宿老として出席しました。

清洲会議では、信長亡きあとの織田家の後継や領地の再配分が話し合われました。恒興がこの会議に出席したことは、信長の古くからの家臣として高い地位にあったことを示しています。

領地の再配分では、恒興は摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を得たと『太閤記』にあります。

恒興は大坂に移りました。長男の元助は伊丹に、次男の輝政は尼崎に入ります。この配置は『池田家譜』などに見えます。

清洲会議のあと、織田家中では羽柴秀吉と柴田勝家らの対立が深まりました。恒興は秀吉方として行動します。

また、このころ恒興の次女・致祥院殿と三好信吉の婚約が成立しました。この婚姻関係によって、池田家と秀吉の関係はさらに近くなりました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに恒興は参戦していません。

同年5月。恒興は美濃国内で織田信孝の旧領13万石を与えられ、大垣城に入りました。岐阜城には長男の元助が入りました。

 

小牧・長久手の戦いと池田恒興の最期

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄の対立から、小牧・長久手の戦いが始まりました。

織田信雄は織田信長の次男です。信雄は秀吉と対立し、徳川家康と結びました。これにより、秀吉は信雄・家康の連合勢力と戦うことになります。

この戦いで池田恒興は秀吉方に立ちました。

恒興は長男の池田元助、次男の池田照政、娘婿の森長可とともに尾張方面に進軍。池田軍は犬山城を攻略します。犬山城は尾張北部の重要な城です。今後の癒す攻略のためにも重要な場所でした。

ところが森長可が小牧山の占領に失敗。徳川軍に敗退してしまいます。池田家と森家は親戚で恒興としてはここでの敗戦を何とか挽回したいと思ったはずです。

家康は小牧山城に入り、秀吉は楽田城に入りました。両軍は小牧周辺で向かい合い、しばらく大きな決着がつかない状態が続きます。

三河中入り作戦と池田恒興の関わり

羽柴秀吉と徳川家康は小牧周辺でにらみ合っていました。そのなかで秀吉方は、家康の本拠地である三河を狙い小牧に陣取る家康をおびき出す作戦を進めました。これが三河中入り作戦です。

この作戦には池田恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次らが加わりました。恒興は第一隊を率いました。三河方面へ向かう部隊の先頭に立ったのです。

三河中入り作戦については池田恒興が秀吉に進言したという話が伝わっています。

作戦そのものは秀吉が考えた可能性がありますが。池田・森勢としても小牧山での敗退の件もありますあから。この作戦を積極的に支持して先鋒になって手柄を立てたいと考えたと考えられます。

岩崎城の戦い

天正12年4月9日、池田恒興は三河へ向かう途中で岩崎城を攻めました。

岩崎城は現在の愛知県日進市にあった城です。恒興は森長可の軍とともに岩崎城を攻撃し、これを落としました。これが岩崎城の戦いです。

三河中入り作戦の本来の狙いは、徳川家康の本拠地である三河へ進むことでした。進軍途上の岩崎城の攻略そのものは必要だったでしょうが。しかし恒興たちは少数の兵で守る岩崎城の攻略に時間がかかってしまいました。

その間に後続の三好信吉(羽柴秀次)の軍が白山林で徳川方に敗れました。池田恒興と森長可は秀次軍敗走の知らせを受けると急いで白山林方面へ引き返します。

この判断によって恒興たちは徳川軍との直接対決に向かうことになりました。

長久手の戦いと池田恒興の最期

白山林で羽柴秀次の軍を破った徳川軍は長久手方面へ進みました。そこへ、引き返してきた池田恒興と森長可の軍がぶつかります。

これが長久手の戦いです。

戦いは激しいものになりました。恒興と森長可は秀吉方の有力武将として奮戦しましたが、徳川軍がしだいに優勢になります。

この戦いでまずは森長可が戦死しました。さらに池田恒興も討たれます。享年49。恒興を討ち取ったのは、徳川方の永井直勝です。

父の死を知った元助も駆けつけましたが討たれてしまいます。

池田家の家督はこの戦いを生き延びた次男の輝政が継ぎました。

池田恒興の墓と戦死地

池田恒興の遺体は徳川勢によって持ち帰られ、一時は遠江国新居に葬られたといわれます。その後は京都・妙心寺の慈雲院に改葬されたと伝わります。

恒興の墓所には、京都市右京区花園の妙心寺慈雲院、岐阜県揖斐郡池田町本郷の龍徳寺、鳥取県倉吉市の勝入寺、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院があります。

また、愛知県長久手市の長久手古戦場公園には、池田恒興戦死の地と伝わる勝入塚があります。

諱「信輝」について

池田恒興は、後世の軍記物や系譜で「池田信輝」と書かれることがあります。

ただし、同時代史料で「信輝」の使用は確認されていません。死去の年まで恒興本人の署名は「恒興」でした。

『寛政重修諸家譜』には「信輝」とあります。その後に「初恒興」と続きます。また織田信秀に仕えて星崎城攻めで大きな功績をあげたため、信秀から一字を与えられて信輝と名乗った、という話もあります。

このため「信輝」は後世の系譜や軍記物に出てくる名で、池田恒興本人が使った名は「恒興」といえそうですね。

 

 

コメント

error:
タイトルとURLをコピーしました