【あんぱん】岩清水信司のモデルはイケメン編集者の品原順次郎?

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品原順次郎

岩清水信司は朝ドラ「あんぱん」に登場する人物。

倉悠貴さんが演じる彼は、主人公の若松のぶと柳井嵩が高知新報で出会う重要な仲間です。彼は地方紙としては異例の総合雑誌「月刊くじら」の立ち上げに携わり、主人公たちの創造性や戦後のメディア界の変化を象徴する存在として描かれます。

この記事では、岩清水信司のモデルとされる人物や、「月刊くじら」と史実の「月刊高知」の繋がりについて詳しくご紹介します。

 

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朝ドラ「あんぱん」の岩清水信司とは?

岩清水信司はのぶと嵩の新しい仲間

倉悠貴さんが演じるジャーナリスト岩清水信司は、主人公の若松のぶが入社する高知新報の編集局記者です。でも彼の重要な役割はそこだけではないんですね。彼は地方紙としては異例とも言える総合雑誌「月刊くじら」の立ち上げメンバーとなるのです。

主人公の若松丸暢と柳井嵩も「月刊くじら」のメンバーとして加わることが発表されていますから、岩清水信司は彼らとともに働く重要な仲間になるのでしょうね。

彼は先見の明を持つジャーナリストで新しい物を作りだそうとする人物のようです。彼はただの脇役ではなくて主人公たちの創造性や人生に深く関わりる、戦後のメディア界の変化を象徴するような人物として描かれるのでしょう。

 

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「月刊くじら」は実在?史実の「月刊高知」との繋がりとは?

「月刊くじら」とはどんな雑誌なのでしょう?

ドラマに登場する「月刊くじら」は地方紙が発行する総合雑誌というとても珍しい雑誌す。

当時としては地方新聞社総合雑誌を出版するのはとても珍しいことでした。主人公たちが新しい言論空間を創り出す場所に飛び込むという重要な場面になりますね。

戦後は様々な価値観が大きく変化しました。その混乱期に既存の枠にとらわれず、新しい文化や情報を発信しようとした当時の人々の熱意が込められているのかもしれませんね。

史実の「月刊高知」について

岩清水信司のモデルを探る上でも彼が立ち上げに関わる「月刊くじら」はとても重要な手がかりです。

ドラマの舞台が高知、モデルがやなせたかし夫婦であること。これらの情報から「月刊くじら」はやなせたかしが実際に参加していた「月刊高知」をモデルにしているのは間違いないでしょう。

月刊高知」は戦後に実際に高知新聞社から発行されていた総合雑誌です。若いころやなせたかしさんも編集に携わっていました。「月刊くじら」が「地方紙が発行する異例の総合雑誌」とされている点や主人公が編集に関わる点など史実の「月刊高知」と多くの共通点が見られますね。

 

岩清水信司のモデルは品原順次郎?

「月刊くじら」が「月刊高知」をモデルにしている可能性が高いということは。岩清水信司のモデルは「月刊高知」の関係者になりますね。そこで品原順次郎氏が有力な候補となります。

品原順次郎氏はイケメンの文学青年

品原順次郎は高知新聞社でやなせたかしと共に「月刊高知」の創刊・編集に深く携わった人物です。

彼はたいへんなイケメンだったそうで、ロマンチストの文学青年でした。このころのインテリらしく、ちょっとキザなところのある青年でした。

彼は1924年(大正13年)に高知県高岡郡佐川町で生まれました。やなせたかしよりも5歳年下です。やなせたかしと同じ県立城東中学校を卒業後、彦根経済専門学校(現在の滋賀大学)に進学。

学徒出陣で小隊長に

学徒出陣で陸軍に入って士官候補生となり、高知県内の守備隊に配属。小隊の隊長となって高知県南西部の幡多郡大方町(黒潮町)に駐屯、その地で本土防衛の任務についていました。

やなせたかしや順次郎たち、大学卒の人たちは士官への道が開かれ、部下を持つこともありました。順次郎も若くして部下を持つことになったのです。

戦争と心の傷

空襲後に立ち尽くす若い軍人

呆然とする若い軍人のイメージ

ある日、順次郎は小隊長クラスに招集がかかり仕事の用事で大方を離れ別の場所に行っていました。そのときに大方町に空襲があり順次郎の部下たちの多くが死亡してしまったのです。

順次郎は多くの部下を失い、自分が生き残ったことにショックを受けました。あまりにもショックに憔悴して、周囲の人達も自殺するのではないかと心配したほどです。順次郎が自殺しないように常に誰かがついていました。

そうして終戦になりました。明るくちょっとキザなところのある順次郎にも戦争で受けた心の傷があるのです。

「月刊高知」の編集部員に

品原順次郎は新しく発行される「月刊高知」の編集員となりました。創刊では中心的な役割を担います。彼は創刊の言葉に

「理屈を真向から振り上げて来るものには、何か馴染めぬものがある。やわらかく楽しい記事の中から、本当の人間の生きる途(みち)をつかみ、むつかしい理論も理解できるようにならなければいけない。これが私たちに与えられた使命だと思うがどうだろう」

出典:「やなせたかしの生涯」梯久美子、文藝春秋。

と編集後記に書いています。

順次郎は難しいことを言って気取っているだけのインテリやマスコミとは違ったようです。人々にわかりやすく伝えたい楽しめる記事を伝えたい。と読む人の立場になった情報の発信を心がけていたのでした。

盛りだくさんの内容

順次郎も雑誌編集は初めてですが、青山編集長のもと、やなせたかしや小松暢とともい紙面作りに励みました。そんな順次郎たちの作る「月刊高知」は読者を喜ばせるために皆で意見を出し合い。様々な企画を考えたのです。

ルポやインタビュー、座談会、小説、エッセイ、詩歌、漫画と盛りだくさんの内容でした。「月間高知」では時代にに合わせた企画も行い。面白いだけではなく真面目なテーマも扱っています。

娯楽の少ない当時、「月刊高知」は大人気となり、創刊号の3千部はすぐに売り切れ。1万2千部となりました。

当時は地方紙が総合雑誌を出すのは非常に挑戦的でした。順次郎はそのような挑戦を成功させるための「先見の明」や「革新性」を持っていた人物だったと言えるかもしれません。

雑誌の編集会議の様子

雑誌の編集会議のイメージ

検閲に憤り

当時のインテリ文学青年らしく順次郎は雑誌にソビエトの作家シシコフの短編の翻訳を紙面に載せた事がありました。

するとGHQから呼び出しがかかり、「どこで原作を入手したのか?」「なぜソビエトの作品を載せたのか?」と聞かれました。

当時の日本はGHQの支配下にありました。GHQに従わなければ廃刊も十分考えらます。ソビエトは社会主義国ですから、アメリカも警戒していたのです。

幸いにも警告だけですみましたが、GHQが地方の雑誌にまで目を光らせていることを思い知らされ、順次郎は腹がたったのでした。

このことは改めて報道の自由を改めて考えるきっかけにもなり。雑誌の誌面でも様々な問題を取り上げ、硬派な記事も載せたのです。

品原順次郎とやなせたかし、共感出来る二人

やなせたかしよりは5歳若いので、たかしたちからは「順ちゃん」と呼ばれていました。品原順次郎とやなせたかしは最初から気があって、仲のいい友人となりました。

順次郎は文学青年。やなせたかしも漫画やデザインが好き。芸術肌の二人は気があったのかもしれません。

やがてやなせたかしは、仕事のために東京に向かった小松暢を追いかけ、高知新聞社を退社・東京に行くことにします。社内からはたかしを批判する意見もありましたが、

順次郎は自分のやりたいことを見つけようとするたかしに共感。喜んで彼を送り出しました。そんな順次郎とやなせたかしはその後も交流が続きます。

 

その後の品原順次郎

やなせたかしが退社した後も品原順次郎は残り、「月間高知」の編集を続けました。雑誌は1950年に廃刊となり。その後は高知新聞本社に戻り、文化部長や社会部長。東京支社長を務めました。

1970年代からは系列の高知放送でニュースキャスターも務めました。

やなせたかしは漫画家になった後も高知新聞社との縁は切れずに漫画やエッセイを紙上に掲載しました。そんな良い関係が続いたのも順次郎たち仲間との縁があったからです。

 

まとめ

朝ドラ「あんぱん」の岩清水信司は柳井嵩や若松暢と共に「高知新報社」で「月刊くじら」を創刊する人物です。この記事では、彼のモデルが実在の「月刊高知」に携わった品原順次郎ではないかと探ってきました。

品原順次郎は戦争で心に深い傷を負いながら、人々に寄り添う雑誌作りを目指した人物でした。彼がやなせたかしと共鳴して、戦後の混乱した社会で新しいものを作り出そうとした情熱は、岩清水信司の姿に重なります。

ドラマで岩清水信司がどのように描かれるのか、そして彼らがどのようなものをを創り出すのか、楽しみですね。

 

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