大関和は明治の日本で近代的な看護が形づくられていく時代に現場で看護を行い看護師を育てて仕事の基準づくりにも関わった人物です。
桜井女学校付属看護婦養成所の一期生として学び看護教育、派出看護、看護婦の地位向上に取り組みました。
この記事では大関和の生涯と実績をわかりやすく紹介します。
この記事で分かること
- 大関和がどのような生い立ちを経て看護の道へ進んだのか
- 近代看護の現場と教育で果たした具体的な役割
- 派出看護や看護制度の整備に尽くした功績
- 看護だけでなく女性の地位向上にも関わった歩み
大関和 とは?
プロフィール
- 名 前:大関和(おおぜき ちか)
- 生年月日:1858年5月23日〈安政5年4月11日〉
- 没年月日:1932年5月22日
- 出 身:下野国黒羽(栃木県太田市)
- 職業:看護師・看護教育者
- 主な著作:『派出看護婦心得』『実地看護法』
家族
- 父:大関増虎(弾右衛門)
- 母:テツ
- 配偶者:渡辺福之進(豊綱)、離婚
- 子
- 長男:六郎
- 長女:心
大関和の生涯
黒羽藩家老の家に生まれる
大関和(ちか)は下野国黒羽藩で国家老を務めた大関増虎と妻テツの次女として誕生しました。
明治維新の前に父は家老職を辞めて藩もやめようとしましたが叶わず、家知事として残りました。明治になり父は県の役人となりましたが、病で亡くなります。
旧藩士の娘という厳格な環境で育ちながらも、和は父から学問と算術などを学び、母からは武家の娘としての教育を受けました。
父については 一ノ瀬信右衛門のモデルは大関 団右衛門 増虎で紹介していますのでご覧ください。
結婚と離婚
1876年、和が19歳のときに結婚が決まりました。相手は黒羽藩の次席家老だった渡辺家の次男、福之進でした。二人の間には一男一女を授かります。
でもし、この結婚には大きな問題がありました。夫には結婚前から側女と子供がいましたが、その関係を断ち切ることが結婚の条件だったのです。
結局、約束は守られず、和は離婚を選びました。
1881年に上京した和にとってこの離婚後の生活が自分らしい生き方を探し始める出発点となりました。
英語を学びキリスト教と出会う
話は家族とともに東京に向かい、通訳をしていた崔家の女中として働きます。その一方で、植村正度が開いていた英語塾にも通い始めました。そこで塾主の兄である植村正久と親しくなり、彼の教えを受けるようになりました。
植村家の人々から一夫一婦制を重んじるキリスト教の教えを説かれた和は強い衝撃を受けます。
前の結婚で妻妾同居に苦しんだ経験があったため、その教えは強く心に響いたのでしょう。
看護婦への志
1886年。植村正久は和に看護婦養成所への入学を勧めました。家老の家に生まれたプライドもあり、和は当初、看護婦になることをためらいました。当時はまだ看護職が社会的に高く評価されている時代ではありません。
それでも彼女は「苦しむ人を助ける仕事は、キリスト教の博愛の精神に通じる」と考え、看護の道へ進む決意を固めます。和にとって看護とは、単なる生活のための職業ではなく、信仰に根ざした使命でもありました。
近代看護教育の先駆けとして
和は1886年、日本の近代看護教育を支えた桜井女学校付属看護婦養成所に一期生として入学しました。同期には鈴木雅もいます。
実習先は帝国大学医科大学附属第一医院、アグネス・ヴェッチから直接指導を受けます。
1887年に洗礼を受け、翌年に養成所を卒業。彼女は看護婦としてのキャリアをスタートさせました。
現場で磨いた看護の技術
卒業後、和は帝国大学医科大学附属第一医院に勤務します。
ここで外科の看護婦長(看護婦取締)を務め、数年にわたって現場の経験を積みました。この時期に確かな技術を身につけたことが、のちの教育活動や派出看護の仕組みを築く土台となります。
しかし和は看護婦の待遇改善を主張しますがなかなか認められず、退職することになります。
新潟での看護教育と実務
1890年。和は新潟県の高田女学校へ赴きました。伝道師や舎監として活動した後、知命堂病院の初代看護婦長に迎えられます。
ここでは病院の実務を切り盛りしながら、看護婦を目指す生徒たちに実地指導を行いました。現場の仕事と教育を一体として担ったことが、この時期の大きな成果です。
東京看護婦会の運営を担う
再び東京へ戻った和は養成所時代の同期である鈴木雅が設立した「東京看護婦会」で教師を務めます。
その後、鈴木の跡を継いで会頭に就任しました。この組織は家庭へ看護婦を送り出す「派出看護」と、新しい看護婦の育成という二つの役割を持っていました。
和はここで組織のリーダーとして後進の育成に力を注ぎます。
看護の質を守るための制度づくり
1890年代後半になると派出看護が普及する一方で、教育を十分に受けていない看護婦が増えるという問題や、悪質な業者が増えました。
和たちはこの状況を心配して看護婦に一定の教育と資格を求める制度の整備を訴えます。
その働きかけは東京府の看護婦規則制定へとつながりました。彼女は現場を守るだけでなく、職業としての看護の質を保つためのルール作りにも尽力したのです。
家庭看護の普及に尽くす
和は病院の中だけでなく、患者の自宅を訪ねる派出看護の仕事も広げていきました。
特別な依頼を受けて患者の自宅で看護にあたり、専門的な教育を受けた看護師によるケアの大切さを証明したのです。東京看護婦会の活動を通じて彼女は派出看護という業務を社会に定着させる役割を果たしました。
経験を知識として残す
和は自分の経験と知識を後世に伝えるため、執筆活動にも取り組みました。
1899年には『派出看護婦心得』、1908年には『実地看護法』を刊行しています。自身の療養中にも執筆を続け、現場で得た生きた知識をまとめて将来の看護を担う者たちへ届けようと努めました。
大関看護婦会の設立
1909年。和は神田猿楽町に「大関看護婦会」を設立しました。ここではキリスト教徒の会員を中心に優秀な看護婦の養成と派出看護の業務を本格的に開始します。
既存の組織で活動するだけでなく、自分の理想とする教育と実務を形にする場を自ら作り上げました。
社会運動と女性の地位向上
看護の仕事と並行して、和は女性の地位向上を求める活動にも身を投じました。娼婦廃止の訴えや禁酒運動、婦人参政権運動に取り組み、日本キリスト教婦人矯風会の理事も務めています。
彼女にとって看護と社会改革は切り離せないものでした。
晩年と最期
1923年に関東大震災が起き大関看護婦会は焼失してしまいます。それでも活動を続け、1926年にはNHKラジオの番組で語るなど、発信を止めませんでした。
1929年に脳溢血で倒れてからは半身不随となり、後継者に道を譲って療養生活に入ります。
1932年5月22日、大関看護婦会にて74年の生涯を閉じました。葬儀は富士見町教会で行われ、青山霊園に静かに眠っています。
大関和が残したもの
大関和の功績は、近代看護が始まったばかりの時代に「現場・教育・制度」のすべてにおいて基礎を築いた点にあります。
一期生として学び、病院の現場で看護の実務を支えました。また、自ら看護婦会を運営して後進を育て、派出看護という働き方を広めました。
さらに、制度の整備によって看護婦の専門性を守り、著作を通じてその知識を広く共有しました。
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