徳川 家基:幻の11代将軍:早すぎる他界と死因とは?

徳川 家基(とくがわ いえもと)は江戸幕府10代将軍・徳川家治の長男。将来の将軍として大きな期待を集めていました。

聡明で文武両道に優れ、政治にも関心を示していましたが、わずか18歳で夭折するという悲劇的な生涯を送りました。

彼の死は、幕府に大きな衝撃を与え数々の謎を残しています。

この記事では徳川家基の生涯や周囲の人々との関係、そして謎に包まれた死因について詳しく解説します。

 

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徳川家基

生年:宝暦12年10月25日(1762年12月10日)
没年:安永8年2月24日(1779年4月10日)
名前:徳川 家基(とくがわ いえもと)
幼名:竹千代
正式な名前は徳川 治済(とくがわ いえもと)。一橋徳川家のため徳川家基と呼ばれることもあります。

家族

父親:徳川家治
母:蓮光院
養母:倫子女王
兄弟:千代姫、万寿姫、家基、貞次郎
妻:なし
子供:なし

 

 

父:徳川家基

徳川家基の父は江戸幕府10代将軍・徳川家治。9代将軍・徳川家重の子として生まれました。幼少の頃から聡明で、祖父・徳川吉宗からも期待されていましたが。将軍就任後はあまり政治に関わろうとせず、田沼意次たちに任せていました。

 

生母:お知保の方(蓮光院)

徳川家基の生母は家治の側室お知保の方。

もとは家治つきの大奥女中。田沼意次の推薦があったといいます。家治のお手付きとなり家基を出産しました。

 

養母:五十宮倫子

幼い頃の徳川家基を育てたのは家治の正室・五十宮倫子。第113代東山天皇の孫です。

家治との仲は良かったのですが男子がなく、家治の希望でお知保の生んだ家基を養子として育てました。

 

徳川家基の生い立ち

は江戸幕府10代将軍・徳川家治の長男として、宝暦12年(1762年)に誕生しました。

父・家治の希望で五十宮倫子に育てられます。

9歳のときに養母・五十宮倫子が病死。以後は生母・お知保が名実ともにお世継ぎの生母となり、家基の面倒をみました。

 

将来の将軍として期待を集める

家基は父・家治からも可愛がられていました。

家基自身も有能で武芸にも長け、将来の将軍として周囲から大きな期待を寄せられていました。

成長するにつれて政治にも関心をもつようになり、当時の老中であった田沼意次の政策を批判していたと言われています。

 

徳川家基の最後と死因の謎

安永8年(1779年)。わずか18歳で鷹狩りの帰りに急逝してしまいます。その死因については、病死説のほか、毒殺されたのではないかという暗殺説も根強く囁かれています。

突然の死とその衝撃

安永8年(1779年)、わずか18歳だった徳川家基は、鷹狩りの帰途、品川の東海寺で急病に倒れ、3日後に亡くなりました。将来の将軍として大きな期待を寄せられていた若き世子の突然の死は、幕府内のみならず、家基の父である家治にも大きな衝撃を与えたのです。

父・家治の悲しみ

家基の死を聞いた家治は、深い悲しみに打ちひしがれました。食事が喉を通らなくなるほど憔悴し、しばらくの間、政務を執ることもままならなかったと言われています。家基は、家治にとってただの一人の男子であり、将来の将軍として大きな期待を寄せていた存在でした。その期待が突然絶たれたことは、家治にとって計り知れない喪失感だったでしょう。

家系断絶の危機

家基の死により、家治の男子はいなくなってしまいました。家治にはその後も男子が誕生することはなく徳川家治の血統は途絶えてしまう危機を迎えました。

家系断絶を回避するための措置

そこで家治は、一橋徳川家の豊千代(後の家斉)を養子に迎えました。

豊千代は家治の甥にあたる人物。家康の血を引く傍系でした。こうして徳川将軍家は存続することになりましたが、家治にとっては、実の息子である家基を後継ぎにしたかったという思いが強かったでしょう。

家基の死因に関する謎

家基の急死については様々な憶測が飛び交いました。

家基の死因については、大きく分けて以下の様な説が挙げられます。

  • 病死説: 鷹狩りの途中で急病に倒れそれが原因で死亡したとする説です。
  • 田沼意次による毒殺説: 家基は老中・田沼意次の政治を批判していました。田沼意次は家基が将軍になると自身の権力が失墜することを恐れて、毒殺を企てたとする説です。大奥の女中たちの間で広く信じられていました。
  • 一橋家による毒殺説: 一橋徳川家の当主・徳川治済は、自身の息子である豊千代(後の徳川家斉)を将軍にさせたいと考え、家基を毒殺したとする説です。
  • 事故死説: 幕末に来日したドイツの博物学者シーボルトは、家基がオランダから輸入したペルシャ馬に騎乗中に落馬し、その際に負った傷がもとで死亡したと記しています。

しかし、これらの説はいずれも証拠がなく、真実は闇の中です。

 

家基の死後、家斉が示した敬意と、その背景

徳川家基の突然の死は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、その後の動向に多大な影響を与えました。家基に代わって将軍となった家斉が、晩年まで家基に深い敬意を払っていたことは、その一例と言えるでしょう。

家斉の深い敬意

家斉は、血縁関係が遠い先代将軍の子供であるにも関わらず、晩年まで家基の命日に自ら墓所に参詣したり、若年寄を代参させたりと、特別な敬意を払っていました。この行動は、当時の慣習から考えると非常に異例なことであり、家基に対する家斉の特別な感情が窺えます。

家基の生母・蓮光院への追贈

また、家基の生母である蓮光院が、没後30年以上たって従三位を追贈されたことも、家基に対する家斉の敬意を表すものと言えます。

一般的に、大奥の女性がこのような高位の位を追贈されることは非常に珍しいです。

家基に対する家斉の特別な思いが反映された結果と考えられます。

家基の死が家斉に与えた影響

なぜ家斉はこれほどまでに家基を敬っていたのでしょうか。その背景には、以下の様な要因が考えられます。

  • 家基への複雑な思い: 家基は幼少の頃から文武両道に優れ将来の将軍として大きな期待を集めていました。一方、家斉は家基の死後、思わぬ形で将軍になりました。そのため家基へのコンプレックスを持っていた可能性があります。と同時に家基を敬うことで自分がその代わりに周囲の期待に応えたいと思っていたのかもしれません。
  • 家治の遺志: 家治は家基を溺愛。その死を深く悲しんでいました。家斉は養父の家治の遺志を継ぎ、家基を敬うことで家治の冥福を祈っていたのかもしれません。
  • 政治的な理由: 家基は生前、老中・田沼意次の政策を批判しており、政治的な才能を見せていました。家斉も御三卿や松平定信の指導のもと田沼に批判的な考えを持っていました。家斉は同じ考えを持つ家基を高く評価するとともに御三卿や松平定信の意向も入っていたのかもしれません。

 

「幻の第11代将軍」

家康ゆかりの「家」の字を名前に持つなど、将軍になることが確実視されていたため、家基の急死は幕府に大きな衝撃を与えました。そのため、家基は「幻の第11代将軍」とも呼ばれています。

 

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