長宗我部元親とは何をした人? 四国統一・家族・最期をわかりやすく紹介

長宗我部元親は、土佐国(現在の高知県)を本拠にした戦国大名です。
幼いころは「姫若子」と呼ばれた人物でしたが、のちに土佐を統一、四国の広い範囲へ勢力を広げました。

この記事では「長宗我部」の読み方から、四国統一の道のり。豊臣秀吉への降伏や晩年まで、元親の生涯を分かりやすく解説します。

この記事で分かること

  • 「長宗我部元親」の正しい読み方
  • 土佐国の武将として元親が果たした役割
  • 四国統一の道のり
  • 秀吉への降伏後、長宗我部家がたどった流れ

 

スポンサーリンク

長宗我部元親とは何をした人?

長宗我部の読み方

「長宗我部」という苗字は「ちょうそかべ」と読みます。

元親(もとちか)は土佐国(現在の高知県)を本拠とした戦国大名です。

確認したい内容 概要と解説
読み方 ちょうそかべ もとちか(難読苗字としても有名)
何県の武将か 土佐国(現在の高知県)。岡豊城などを拠点とした
何をした人か 土佐の一国人から成長し、土佐を統一。さらに四国全域へと勢力を広げた
四国統一との関係 一時期は四国の大部分を制圧し、代表的な功績として語られる
最後はどうなったか 豊臣秀吉に降伏後、大名として土佐を安堵されるも、晩年は病に倒れる

 

土佐から四国へ勢力を広げた戦国大名

もともと長宗我部氏は土佐国に数多く存在していた有力な「国人(こくじん)」の一つにすぎませんでした。

しかし、元親の父である長宗我部国親の代に勢力を盛り返し、家興の土台が作られます。

元親はその跡を引き継ぐと、類稀なる軍事・政治手腕によって瞬く間に土佐国内をまとめ上げ、周辺の強豪たちを圧倒していきました。

四国統一と呼ばれる理由

土佐を完全に掌握した長宗我部元親は、その牙城をさらに外へと向けます。阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)へと次々に侵攻し、各地の有力な戦国武将を破っていきました。

最終的に四国のほぼ全域を勢力下に収める、または強い影響力を及ぼしたことから、後世において「四国統一を成し遂げた英傑」としてその名が広く知れ渡ることになりました。

 

スポンサーリンク

長宗我部元親の生涯

長宗我部元親の波乱に満ちた生涯を、まずは大きな出来事ごとにまとめた年表で確認してみましょう。

出来事
1539年 土佐国の岡豊城(おこうじょう)で生まれる。
1560年 長浜の戦いで初陣を迎える(この時すでに22歳と、当時としては遅い初陣)。
1575年 四万十川の戦いで宿敵の一条兼定を破り、土佐国の統一を完成させる。
1585年ごろ 阿波・讃岐・伊予を制圧し、四国の広い地域へ勢力を広げる。
1585年 豊臣秀吉による大軍勢の「四国攻め」を受け、抵抗の末に降伏する。
1586年 秀吉の命による九州征伐(戸次川の戦い)で、溺愛していた嫡男・信親を失う。
1599年 後継者問題などの苦悩に包まれた晩年を経て、京都伏見の邸宅にて病没(享年61)。

 

姫若子と呼ばれた子供時代

幼少期の元親は、体が白く大人しい性格であったと伝えられています。

当時の武士の子どもらしい快活さが薄かったことから、周囲の人々からは「姫若子(ひめわかこ)」、つまり女の子のようなお坊ちゃんであるとからかわれ、将来を不安視されていました。

初陣と長浜の戦い

その評価が一変したのが、1560年の長浜の戦い(本山氏との合戦)です。元親は22歳という極めて遅い初陣を迎えることになります。出陣の直前、元親は家臣に「槍はどのように突けばよいのか」と尋ね、大将としての心構えを教わったとされています。しかし、いざ戦いが始まると敵陣へ猛然と突き進み、目覚ましい武功を挙げました。

この凄まじい働きを目撃した周囲は、それまでの「姫若子」という侮りを改め、恐るべき戦上手を意味する「鬼若子(おにわかこ)」という異名で彼を称えるようになりました。ただし、これらは俗説や後世の軍記物による脚色も含まれているため、全てを史実と断定はできませんが、元親の劇的な成長を象徴する有名な逸話です。

土佐統一から四国統一へ

初陣の直後に父・国親が急死したため、元親は若くして家督を継承します。彼は父の遺志を継ぎ、土佐の覇権をめぐって本山氏や安芸氏、そして土佐南西部に強大な勢力を持っていた土佐一条氏と激しく争いました。

1575年、四万十川の戦いによって一条兼定に決定的な勝利を収め、ついに土佐一国の統一を成し遂げたのです。

これ以降、元親の野心は四国全土へと広がっていくことになります。

豊臣秀吉への降伏

四国各地へ瞬く間に勢力を拡大し、他国を圧倒した元親でしたが、その絶頂期は長くは続きませんでした。

中央で織田信長亡きあとの覇権を握った豊臣秀吉が、全国統一の足がかりとして四国へ目を向けたためです。

1585年、秀吉は弟の豊臣秀長を総大将とする10万大軍を四国へ派遣。元親は防戦を試みるも圧倒的な物量差の前に抗えず、ついに降伏を余儀なくされました。

晩年と後継者問題

降伏により土佐一国のみの支配に減封された長宗我部家ですが、真の悲劇はその翌年に訪れます。

1586年、秀吉の九州征伐に従軍した際、戸次川の戦いで島津軍の伏兵に遭い、元親が後継者として最も期待を寄せていた嫡男・信親が討死してしまったのです。

この最愛の息子の死により、元親は精神的に深く落ち込み、それまでの英明さを失っていったと言われています。

晩年は強引な跡継ぎ決定によって家臣団の分裂を招き、暗い影を落としたまま1599年に世を去りました。

 

長宗我部元親は四国を統一したのか

土佐統一

長宗我部元親を語る上で欠かせないのが「四国統一」の成否です。元親は、父が遺した基盤を元に、土佐の土豪たちを降伏、あるいは臣従させることで着実に領国化を進めました。1575年に一条氏を完全に破ったことで、まずは最初のステップである「土佐統一」を不動のものとします。

阿波・讃岐・伊予への進出

土佐を確立した元親は、すぐさま隣国への進出を開始します。当時の阿波・讃岐は、畿内の大名である三好氏の勢力が衰退しつつあり、伊予では河野氏や西園寺氏といった諸勢力が割拠していました。

元親はこの隙を見逃さず、阿波の十河氏や三好氏と激しい死闘を繰り広げ、1585年頃には四国の大部分に自らの影響力を浸透させました。

秀吉の四国攻めで土佐一国へ

一般的に「長宗我部元親は四国を統一した」と表現されることが多いですが、現代の歴史研究においては、「四国のほぼ全域に勢力を広げたものの、長く安定して支配したわけではない」という書き方が最も実態に近いとされています。

元親が四国の大部分を制圧したまさにそのタイミングで豊臣秀吉の四国攻め(1585年)が行われ、わずか数ヶ月で土佐一国へと押し戻されてしまったためです。

そのため完全な「四国統一の安定支配」というよりは、「一時期において四国全域に覇を唱えた」といえるかも知れません。

 

長宗我部元親と織田信長・明智光秀

織田信長との関係

元親は四国進出を有利に進めるため、当時中央で圧倒的な勢力を誇っていた織田信長と結びつこうとしました。信長もまた、畿内で敵対する三好氏を牽制するために元親を利用価値があると判断し、当初は元親の四国切り取り(進出)を黙認する「切取り自由」の許可を与えていました。

元親の嫡男「信親」の「信」の字も、信長から一字を拝領したものです。

しかし、三好氏が信長に屈服すると、信長の四国政策は一転し、元親に対して「土佐と阿波南部以外は返還せよ」という厳しい条件を突きつけるようになり、両者の関係は急速に悪化していきました。

 

明智光秀とのつながり

この織田信長と長宗我部元親の間を取り持っていた外交担当者が、信長の有力重臣であった明智光秀、そして光秀の重臣である斎藤利三(さいとう としみつ)でした。利三の妹(あるいは親族)が元親の正室であったという深い縁戚関係もあり、光秀と元親は極めて緊密な関係を維持していました。

本能寺の変との関係

近年の研究や新しく発見された史料(『石谷家文書』など)により、本能寺の変が起きる直前、信長による四国征伐の軍が今まさに土佐へ向けて出発しようとしていたことが分かっています。

光秀は、自らと縁の深い長宗我部家が信長によって滅ぼされるのを阻止しようとしたのではないか、という「四国説」が、本能寺の変の有力な動機の一つとして近年大きくクローズアップされています。

 

豊臣秀吉の四国攻めと長宗我部元親

秀吉が四国へ兵を送った理由

本能寺の変によって信長が倒れたため、長宗我部家は一時的に破滅の危機を免れました。しかし、その後に中央の覇権を握った豊臣秀吉もまた、信長の路線を引き継いで全国支配を推し進めます。

秀吉は元親に対し、伊予や讃岐の返還を命じますが、苦労して手に入れた領土を譲れない元親はこれを拒否。これにより、秀吉は四国を武力で平定することを決意しました。

元親の降伏

1585年に始まった秀吉の四国攻めは、豊臣秀長を総大将に、黒田官兵衛、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景といった当代きっての名将たちが率いる総勢10万に及ぶ大軍勢でした。

長宗我部軍は各地の城で必死の防戦を試みたものの、兵力差や兵糧の差は如何ともしがたく、谷忠澄(たに ただずみ)らの宿老による説得もあり、元親はついに降伏の書状を送りました。

土佐一国を認められた後

降伏の結果、元親がそれまでに血を流して獲得した阿波・讃岐・伊予の領地はすべて没収され、長宗我部家には本国である土佐一国(約9万石余、のちの検地で増高)のみが安堵されました。

独立した四国の覇者から、豊臣政権下の一大名へと組み込まれるという、大きな人生の転換期となったのです。

 

戸次川の戦いと長宗我部信親の死

信親とはどんな人物?

長宗我部信親(のぶちか)は元親の長男であり、文武両道に秀で、家臣からも領民からも絶大な人望を集めていた非の打ち所のない好青年であったと伝わっています。元親は彼を長宗我部家の輝かしい未来を託す後継者として、並々ならぬ愛情を注いで教育していました。

戸次川の戦いでの討死

1586年、秀吉の命により九州の島津氏を討伐するための先遣隊として、長宗我部軍は讃岐の十河存保らと共に九州へ渡ります。大友軍の軍監であった仙石秀久の無謀な作戦強行により、豊臣方は冷たい雨の降る戸次川(大分県)を渡河して島津軍と激突。

しかし、これは島津のお家芸である「釣り野伏せ(わざと退却して伏兵で包囲する戦術)」の罠でした。

長宗我部軍は孤立無援となり、信親は迫り来る敵兵を相手に獅子奮迅の戦いを見せたものの、26歳の若さで壮絶な討死を遂げました。

後継者問題への影響

信親の訃報を聞いた元親の落胆ぶりは尋常ではなく、一時は自害しようとしたほどでした。この最愛の息子の死を境に、元親の英雄としての覇気は消え失せ、性格も猜疑心が強く冷酷なものへと変わってしまったと評されています。

さらに、次男の香川親和や三男の津野親忠を差し置いて、まだ幼かった四男の盛親を強引に跡継ぎに指名したため、これに反対した吉良親実(元親の甥)ら一族の有力者を処刑するという大粛清を行い、長宗我部家の結束は致命的に崩壊していくことになりました。

 

長宗我部元親の家族と子孫

父・長宗我部国親

父である国親(くにちか)は、かつて夜襲を受けて一族が滅亡寸前に追い込まれた長宗我部家を、知略と執念で再興させた執念のひとです。

彼は周辺の仇敵を打ち破り、息子である元親に「土佐を統一せよ」という強い遺志を残して急逝しました。

妻と子ども

元親の正室は、明智光秀の重臣・斎藤利三の異母妹(あるいは一説には娘とも)とされる女性です。

彼女との間には、前述の嫡男・信親、次男の香川親和(讃岐の香川氏へ養子)、三男の津野親忠(土佐の津野氏へ養子)、そして家督を継ぐことになる四男の長宗我部盛親(もりちか)らが生まれています。

子孫は現在もいるのか

長宗我部家はのちの関ヶ原の戦いや大坂の陣で大名としては滅亡することになります。その血脈や一族は生き延びたとされています。

 

長宗我部元親の家臣と一領具足

一領具足とは何か

長宗我部軍の圧倒的な強さを支えたのが、独自の軍事制度である「一領具足(いちりょうぐそく)」です。

これは、普段は田畑を耕す農民として生活している人々が、ひとたび主君からの動員令(陣触れ)があれば、一領(一領分)の鎧具足を身につけ、農具を槍に持ち替えてただちに戦場へ駆けつけるという「半農半士」の兵士たちのことです。

畑仕事中も常に足元に槍を突き立てて作業していたと言われるほど、高い戦闘意識を持っていました。

主な家臣

元親を支えた優秀な家臣団の中には、四国攻めの際に的確な状況判断で主君に降伏を促した谷忠澄や、冷静沈着な智将として知られる香宗我部親泰(元親の弟)、さらには一領具足たちを統率した各地の有力な土豪たちが名を連ねています。

長宗我部元親百箇条とは何か

元親が晩年の1597年、息子の盛親と共に制定した分国法(領内の法律)が「長宗我部元親百箇条」です。

これは単に戦を有利に進めるためだけでなく、領民の心得、寺社の保護、治安維持、売買のルールなどを全100条にわたって細かく規定したもので、元親が優れた民政家・立法者でもあったことを示す貴重な歴史的史料です。

 

長宗我部元親の城とゆかりの地

岡豊城

高知県南国市にある岡豊城(おこうじょう)は、長宗我部氏の本拠地として最も有名な城郭です。四国を代表する強固な山城であり、現在は国の史跡に指定され、歴史民俗資料館が隣接するなど、ファン必見の聖地となっています。

浦戸城

元親がその最晩年に、政治・経済の拠点を海運の要所へと移すために築いたのが浦戸城(うらどじょう)です。現在の高知市桂浜の近くに位置しており、土佐湾を一望できる重要な軍事拠点でした。

墓所と神社

元親の墓所は、高知市長浜にある「雪蹊寺(せっけいじ)」の近くに静かに佇んでいます。

また、彼が初陣や数々の戦いの前に必死の戦勝祈願を行ったとされる「若宮八幡宮」や、長宗我部一族と殉難した家臣たちを祀る「秦神社(はたじんじゃ)」など、高知県内には元親ゆかりの地が数多く点在しています。

長宗我部元親初陣之像

若宮八幡宮には、槍を力強く前方に突き出し、若き日の「姫若子」から「鬼若子」へと覚醒した瞬間を捉えた見事な「長宗我部元親初陣之像」が建立されています。

その躍動感あふれる姿を写真に収めるため、全国から今も多くの観光客が訪れています。

 

長宗我部元親の最期と長宗我部家のその後

元親の死因と晩年

1599年、秀吉が世を去った翌年、元親もまた病に倒れ、京都伏見の長宗我部邸にてその生涯を閉じました(死因は病死)。享年61。嫡男・信親を失ってからの晩年の13年間は、家臣を粛清し、家庭内も不和に満ちるなど、かつての四国の覇者としてはあまりにも寂しく、苦悩の多い最期であったと伝えられています。

盛親が家を継いだ理由

兄たちの廃嫡や他家への配流を経て、強引な形で家督を継いだのが四男の長宗我部盛親でした。盛親自身も父譲りの優れた器量を持った武将でしたが、不自然な家督継承のしこりは、家臣団の結束に暗い影を落としたままでした。

関ヶ原の戦い後に土佐を失う

元親の死の翌年(1600年)、天下を二分する関ヶ原の戦いが勃発します。盛親は西軍(石田三成方)に味方したものの、本戦では一度も戦う機会がないまま西軍が敗北。

戦後、盛親は東軍の徳川家康に対して弁明を試みますが、その最中に兄・津野親忠を殺害してしまったことなどが家康の怒りに触れ、ついに土佐一国をすべて没収(改易)されてしまいました。

その後、盛親は浪人となり、のちの大坂の陣で豊臣方に味方して猛烈に戦うものの敗北し、処刑。これにより、大名としての長宗我部家は完全に歴史の表舞台から姿を消すこととなったのです。

 

長宗我部元親のよくある疑問

Q. 長宗我部元親の読み方は?
A. 「ちょうそかべ もとちか」と読みます。

Q. 長宗我部元親は何県の武将?
A. 土佐国、現在の高知県の武将です。

Q. 長宗我部元親は何をした人?
A. 土佐をまとめ、四国へ勢力を広げた戦国大名です。

Q. 長宗我部元親は四国を統一した?
A. 四国の広い範囲へ勢力を広げた時期はありますが、長く安定して四国全体を支配したわけではありません。

Q. 長宗我部元親の死因は?
A. 1599年に病気のために亡くなったとされています(病死)。

Q. 長宗我部元親の息子は誰?
A. 信親、親和、親忠、盛親などが知られています。

Q. 長宗我部家はその後どうなった?
A. 盛親の代に天下分け目の関ヶ原の戦いで土佐を失い、その後の大坂の陣を経て、大名家としての歴史を終えることになりました。て、大名家としての歴史を終えることになりました。

 

コメント

error:
タイトルとURLをコピーしました