江戸幕府8代将軍 徳川吉宗の正室と側室を紹介します。
吉宗は将軍就任後に大奥のリストラを行なったことも知られます。自身の側室も数は少ないです。
正室・真宮は紀伊藩主時代に亡くなってからは正室は迎えなかったので、御台所のいない将軍でした。
側室も若くしてなくなった人が多く。吉宗の大奥は歴代でも規模が小さい方。むしろ先々代から残った人が多かったようです。
しかし跡継ぎには恵まれて3人の息子が成人。9代将軍・家重の他、御三卿の田安家・一橋家の初代になっています。
徳川吉宗
生年:1684年11月27日
紀伊藩主就任:1705年。
将軍就任:1716年。
没年:1751年7月12日です。
享年:68歳(数え年)
正室・側室たちとの年齢差もみてみると面白いかもしれませんよ。
正室(御簾中)
御簾中(ごれんじゅう)は将軍世継ぎや御三家・御三卿の正室のこと。
江戸時代の武士は正室の呼び方も地位によってランク分けされていました。
真宮(さなのみや)女王
院号:寛徳院(かんとくいん)
没年 宝永7年6月4日(1710年6月30日)
享年:20歳
吉宗が紀伊藩主だったころの正室。
1710年。懐妊したものの死産。
その後まもなく死亡。
真宮女王の死後、吉宗は正室を迎えることはありませんでした。
そのため吉宗の将軍時代は正室(御台所)はいません。
徳川吉宗の側室
大久保須磨子(深徳院)
通称:須磨(すま)
院号:深徳院(しんとくいん)
没年:1713年12月11日
享年:26歳
母:内藤守政の娘
長男・徳川家重(9代将軍)
吉宗が紀伊藩主時代の側室。
正徳元年(1711年)12月21日に家重(9代将軍)を出産。
1713年にも懐妊。難産のため母子ともに死亡。
古牟(本徳院)
法名:本徳院(ほんとくいん)
没年:1723年3月27日
享年:28歳
二男・徳川宗武(田安家初代)
須磨の又従姉妹。須磨の死後、吉宗の側室になりました。家臣たちの間では容姿が醜いと噂になったと「徳川実紀」に書かれています。吉宗が将軍になると大奥に入りました。
息子の宗武は御三卿の田安家初代になりました。
梅(深心院)
法名:深心院(しんしんいん)
没年:1721年11月25日
享年:21歳
母:服部越中守の娘(北面武士)
三男:源三
四男:徳川宗尹(一橋家初代)
吉宗の母・浄円院の女中として和歌山城で仕え、吉宗の紀伊藩主時代に寵愛を受けました。吉宗が将軍になると古牟とともに大奥に入りました。22歳のとき病気で死亡。
息子の宗尹は御三卿の一橋家初代になりました。
11代将軍・徳川家斉の曽祖母。
久免(覚樹院)
法名:覚樹院(かくじゅいん)
没年:1777年12月27日
享年:81歳
吉宗の生母・浄円院の女中として仕えていました。
江戸城でお梅の方、お古牟の方が亡くなると、吉宗の側室として大奥に入りました。
芳姫を出産しますが芳姫は1年で死亡。
吉宗の死後、出家・正雲院と名乗りました。
記録の残る吉宗の正室・側室の中では最も長生きしました。
おさめ
詳細は不明
お咲
詳細は不明
まとめ
徳川吉宗の正室と側室について
8代将軍徳川吉宗の女性関係は、複雑でありながらも興味深いものです。
正室は紀州藩主時代に迎えた真宮理子ただ一人でした。でも、吉宗が将軍になる前に亡くなっているので将軍時代の吉宗には正室はいませんでした。
側室は大久保須磨子、古牟、梅、久免、おさめ、お咲の6人が記録に残っています。
特に須磨子は9代将軍徳川家重を産んだことで知られています。
また、古牟の息子は御三卿の田安家初代の徳川宗武となり、梅の息子は一橋家初代の徳川宗尹となりました。久免は吉宗の死後も長生きして出家して正雲院と名乗りました。
吉宗は見た目にはこだわりはなかったと言われ、側室たちは美しさよりも家柄や能力が考慮されて選ばれたようです。
吉宗時代の江戸城の大奥は吉宗の関係者は意外と少なく、先代・先々代からの人々が多かったようです。
彼女たちの子が次期将軍や御三卿となり新しい世代の幕府を支える人材となっていくのでした。
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