なかでも滝田との出会いは、後に千代の小説が『中央公論』に掲載されるきっかけになりました。 燕楽軒はどんな店だったのでしょうか?
千代が働くことになった事情や、そこで知り合った作家たちとの出来事、ドラマの悠樂軒との共通点を紹介します。
燕楽軒とは?本郷で文士たちが通った西洋料理店
本郷三丁目にあった西洋料理店
燕楽軒は「えんらくけん」と読み、旧字体では「燕樂軒」と書きます。大正時代の東京・本郷三丁目にあった西洋料理店で宇野千代が作家になる前に働いていました。
店を開いたのは、築地精養軒で料理長を務めていた西尾益吉とされています。建物は3階建ての洋館で、本格的な西洋料理を出す店でした。 当時の本郷は、京帝国大学を中心に学生や研究者が集まり、出版社や書店も多い町でした。燕楽軒にも大学関係者や作家や雑誌の編集者たちが食事に訪れていました。
中央公論の編集者や作家が訪れていた
燕楽軒の向かい側には中央公論社がありました。『中央公論』の編集長だった滝田樗陰(たきた・ちょいん)は店の常連で、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫らも食事に訪れていました。
当時の『中央公論』は人気作家たちの小説や評論を掲載する有力な雑誌です。その編集長や雑誌に作品を発表している作家たちが燕楽軒で食事をしていたのです。 文学好きの千代にとっては雑誌で作品を読んでいた作家が目の前にいるのですから、興味を持たずにはいられなかったでしょう。料理を運ぶ仕事をしながら、作家や編集者と顔を合わせ、言葉を交わす機会にも恵まれました。
宇野千代は本当に燕楽軒で働いていた?
藤村忠との東京暮らしを支えるために働いた
宇野千代は実際に本郷の燕楽軒で給仕として働いていました。 千代が東京に出てきたのは、1917年(大正6年)のことです。
藤村忠が東京帝国大学法学部に進学することになり、千代も一緒に上京しました。 ところが二人の暮らしには十分なお金がありませんでした。故郷からの送金も当てにできず、忠は役所の雇員として働き千代も生活費を稼ぐ必要がありました。 千代は雑誌社の事務員や家庭教師など、いくつもの仕事を経験しています。
燕楽軒の給仕も、その一つでした。 文学に興味があった千代ですが燕楽軒に勤めたのは生活費を稼ぐためです。そこで偶然、後に小説を発表する際に助けてくれる編集者や親しく付き合う作家たちと知り合うことになりました。
料理や飲み物を運ぶ給仕の仕事
千代が燕楽軒でしていたのは客に料理や飲み物を運ぶ給仕の仕事です。当時は「女給」という呼び方も使われていましたが、現在のレストランのウェイトレスに近い仕事でした。
千代は『私の文学的回想記』で、客への応対には制限があったことも語っています。酒席で客の相手をする仕事とは違い、料理を運び、食事の世話をするのが役目でした。 燕楽軒で働いた期間については、18日間だったという話があります。一方で、3か月ほど勤めたという説もあり、勤務期間には異なる伝え方があります。 いずれにしても長い勤めではありませんでした。
それでも、その間に今東光や滝田樗陰らと知り合い、店を辞めた後も付き合いが続きました。
「本郷の女王」と呼ばれた宇野千代
美しい給仕として文士たちの評判に
燕楽軒で働いていた千代は、その美しさから店に出入りする文士たちに「本郷の女王(クイーン)」と呼ばれていたといいます。
今東光の弟で、後に作家となった今日出海(こん・ひでみ)も、当時の千代を「見詰めずにはいられぬ美人」「本郷の女王(クイン)」と回想しています。 誰が最初にこの呼び名を付けたのかは分かっていませんが、千代が文士たちの間で評判になっていたことがうかがえます。 千代は美人だっただけでなく、文学にも強い関心を持っていました。
店にやって来る作家たちの名前を知っていて、作品も読んでいたのです。 そんな千代と特に親しくなったのが、今東光でした。二人は燕楽軒で顔を合わせるうちに親しくなり、仕事が終わった後も一緒に過ごすようになりました。
燕楽軒で知り合った今東光・芥川龍之介との出来事
今東光が仕事帰りの千代を送った
今東光(こん・とうこう)は、後に直木賞を受賞し、僧侶としても知られるようになった作家です。千代と知り合った頃は、まだ若い文学青年でした。 東光は千代が燕楽軒での仕事を終えるまで待ち、小石川駕籠町にあった家まで送ってくれたといいます。
千代も東光に好意を持っていたようで、後年、当時の東光を美しい青年だったと語っています。 二人は本郷の町を散歩することもありました。その散歩中の出来事が、思いがけない形で芥川龍之介の小説と結び付くことになります。
散歩中に買った葱が芥川の小説の材料に
千代と東光が本郷の町を散歩していたときのことです。千代は八百屋の店先で、安く売られている葱を見つけました。
千代の回想によると、値段は2銭。あまりに安かったので、思わず買ってしまったそうです。ところが、その様子を見た東光は興ざめしてしまいました。 東光としては、千代と二人で散歩を楽しんでいたかったのでしょう。それなのに、千代は安い葱を見つけると、つい買い物をしてしまったのです。生活費に苦労していた千代らしい出来事ともいえます。
千代が後年に語ったところでは、東光はこの話を芥川龍之介に伝え、それをもとに芥川が短編小説『葱』を書いたといいます。 『葱』は若い女性の日常や恋愛をユーモアを交えて描いた作品です。千代と東光の散歩中の出来事が、芥川の小説の材料になったというのですから、面白い話ですね。
憧れの芥川龍之介の家を訪ねた
千代は芥川龍之介とも知り合っています。本人は、おそらく燕楽軒で知り合ったのだろうと回想しています。 当時の芥川は、すでに『羅生門』『鼻』などの作品で知られる人気作家でした。千代は芥川の小説を愛読し、その容貌にも惹かれていたといいます。
やがて千代は東京・田端にあった芥川の家を訪ねるようになりました。 芥川の家には文学青年や作家たちが集まり、文学について語り合っていました。千代もその場に同席したことがあります。 もっとも千代は憧れの芥川を前にすると、緊張して黙って下を向いていたようです。後年、文学の議論に加わることなどできなかっただろうと振り返っています。
この頃の千代は、まだ小説家として世間に知られていませんでした。憧れていた芥川の家を訪ね、その場に集まる作家たちと同席できたのは千代にとって嬉しい経験だったのでしょう。
滝田樗陰との出会いが、その後の小説掲載につながった
常連客の滝田が置いていった50銭のチップ
燕楽軒で千代と知り合った人物のなかで、作家としての活動に直接関わってくるのが、『中央公論』の編集長・滝田樗陰です。
滝田は燕楽軒の常連客で昼食をとるときのテーブルは千代が担当していました。 滝田は食事を終えて帰るときに、いつも50銭銀貨をチップとして置いていったといいます。
当時の千代は生活費に困り、持ち物を質に入れることもありました。滝田からもらったチップをためて質に入れていた品を取り戻せるようになったそうです。 そして千代は、燕楽軒を辞めることになりました。
千代に小説を書くよう勧めた編集長
滝田は千代が文章を書くことを知ると、小説を書いてみるよう勧めてくれました。
滝田は給仕として働く千代が小説を書くことにも関心を持っていました。 作家の室生犀星は、滝田から燕楽軒で働く藤村千代という女性は小説が書けるらしいので、書かせてみたいという話を聞いています。
千代自身も、滝田から何度も小説を書くよう勧められたと回想しています。 滝田が千代に勧めたのは、野上彌生子(のがみ・やえこ)を手本にすることでした。 野上彌生子は、当時すでに小説家として活動していた女性です。滝田は千代に、野上の作品を読んで、小説を書くよう助言していました。
千代は以前から文章を書き、新聞や雑誌に投稿していました。文学への関心も強く、いつか自分の作品を発表したいという思いを持っていました。 そこへ、『中央公論』の編集長から直接、小説を書いてみるよう勧められたのです。千代にとって、滝田は自分の作品を読んでもらえる編集者となりました。
札幌から送った『墓を発く』が掲載された
燕楽軒を辞めた後、千代は北海道へ移りました。藤村忠が北海道拓殖銀行に就職し、二人は札幌で暮らすようになったのです。 千代は札幌でも小説を書き続けました。
1921年(大正10年)には、『脂粉の顔』が『時事新報』の懸賞小説で一等に入選します。千代が小説を書いて賞を得た出来事でした。 その後、千代は『墓を発く』という小説を書き上げます。そして、その原稿を送った相手が、燕楽軒で知り合った滝田樗陰でした。 滝田は千代の作品を『中央公論』に掲載します。 『墓を発く』が掲載されたのは、1922年(大正11年)5月号です。作者名は、当時名乗っていた「藤村千代」でした。
かつて燕楽軒で滝田のテーブルを担当し、料理を運んでいた千代が、数年後には滝田の編集する雑誌に小説を発表したのです。 もちろん、千代自身が小説を書き続けていたからこそ実現したことですが、燕楽軒で滝田と知り合っていたことも、掲載のきっかけになりました。
原稿料366円を受け取り、故郷の岩国へ
『中央公論』に掲載された『墓を発く』の原稿料は、366円でした。 燕楽軒で滝田からもらっていたチップが50銭だったことを考えると、366円という金額の大きさが感じられます。 千代は東京で原稿料を受け取ると、故郷の山口県岩国へ帰りました。
岩国の駅には弟妹たちが迎えに来ていました。千代は家族とともに人力車を連ね、錦帯橋を右に見ながら、川西にある生家へ向かったといいます。 千代にとっては6年ぶりの帰郷でした。 かつて東京で生活費を稼ぐために、いくつもの仕事を経験した千代が、今度は自分の書いた小説で原稿料を得て故郷に帰ってきたのです。
燕楽軒で知り合った滝田は千代が作家として作品を発表する際にも力を貸してくれました。
ブラッサムの悠樂軒と史実の燕楽軒の共通点・違い
珠と千代が東京で働く西洋料理店
朝ドラ『ブラッサム』に登場する悠樂軒は、葉野珠が東京・本郷で働く西洋レストランです。 史実の宇野千代も、本郷にあった燕楽軒という西洋料理店で給仕をしていました。 店の名前や場所、主人公が西洋料理店で働くという設定がよく似ています。
悠樂軒は、燕楽軒を参考にして設定された店と考えられます。 史実の千代は、燕楽軒で今東光や滝田樗陰と知り合い、芥川龍之介とも交流するようになりました。千代がそこで経験した出来事には、後の作家活動に関わるものもあります。
ドラマの珠が悠樂軒で出会う人々と、史実の千代が燕楽軒で知り合った人物を比べてみるのも面白そうですね。
熊田や同僚たちはドラマの登場人物
『ブラッサム』の悠樂軒では、斎藤司さん演じる熊田が店長を務めています。 ほかにも、瀬戸さおりさん演じる松子、ヨネダ2000の愛さん演じるスギ、誠さん演じるヨネが女給として働いています。 史実の燕楽軒を開いた人物として知られるのは、西尾益吉です。
ただし、ドラマの熊田が西尾をモデルにしているかどうかは分かりません。 松子、スギ、ヨネについても、実在した女給がモデルかどうかはわかりません。悠樂軒で働く人々の関係や、珠とのやり取りには、ドラマならではの展開も描かれるのでしょう。
宇野千代にとって燕楽軒は、短い勤務期間の間に多くの文学関係者と知り合った職場でした。 美しい給仕として「本郷の女王」と呼ばれ、今東光と本郷の町を散歩し、憧れの芥川龍之介の家を訪ねました。
そして、編集長の滝田樗陰から小説を書くよう勧められ、後には自分の作品を『中央公論』に掲載してもらいました。 生活費を稼ぐために始めた燕楽軒での仕事が、思いがけず作家たちとの出会いにつながったのです。


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