小栗忠高とは?小栗忠順の父の生涯と最後

小栗忠高(おぐり・ただたか)は、幕末の旗本・小栗忠順の父です。幕府で持筒頭(もちづつがしら)や新潟奉行を務めました。

忠高はもともと中川家の出身で、幼いころに小栗家の養子となりました。小栗家を継いだあとは幕府に仕え、1854年に新潟奉行に任命されます。
新潟では海岸の守りを考えていましたが、翌年に病気で亡くなりました。息子の忠順は父の跡を継ぎ、のちに幕末の幕府で外交や財政を担当します。

忠高はどんな家庭に生まれ、どのような仕事をしていたのでしょうか。新潟に残る墓碑や火縄銃の話もあわせて紹介します。

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小栗忠高とは小栗忠順の父で新潟奉行を務めた旗本

小栗忠高は文化6年(1809年)に生まれた江戸幕府の旗本です。旗本は将軍に直接仕える武士で、忠高が継いだ小栗家の家禄は2,500石でした。

忠高の通称は又一(またいち)です。小栗家では代々、当主がこの名を名乗りました。息子の忠順も家督を継いだあとに又一を名乗っています。

忠高は幕府でいくつもの役職を務め、最後に新潟奉行となりました。奉行の任地で亡くなったため、墓は新潟市の法音寺にあります。

小栗忠高の家族構成

小栗忠高は中川家に生まれ、小栗家の養子となりました。家族には次の人たちがいます。

  • 実父:中川忠英(なかがわ・ただてる)
    江戸幕府に仕えた旗本です。忠高は忠英の四男に生まれました。
  • 養父・義父:小栗忠清(おぐり・ただきよ)
    小栗家の当主です。忠高を養子に迎えました。忠清の娘が、のちに忠高の妻となる邦子です。
  • 妻:邦子(くにこ)
    小栗忠清の娘です。忠高との間に忠順と貞子が生まれました。
  • 長男:小栗忠順(おぐり・ただまさ)
    忠高の死後に小栗家を継ぎました。幕末には遣米使節の一員として渡米し、勘定奉行などを務めました。
  • 長女:貞子(さだこ)
    東善寺の紹介によると、忠順が8歳のころに幼くして亡くなりました。
  • 義弟:日下房元(くさか・ふさもと)
    邦子の弟で、通称は数馬です。小栗忠清の子に生まれ、日下家の養子となりました。

忠高の実の妹は旗本の三枝家に嫁ぎ、大隈重信の妻となる綾子を生みました。そのため、大隈綾子は忠高の姪で、忠順のいとこにあたります。

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小栗忠高が中川家から小栗家の養子になった理由

実父は中川忠英、養父は小栗忠清

忠高の実父は幕臣の中川忠英(なかがわ・ただてる)です。忠高はその四男に生まれました。
中川家と小栗家は、ともに江戸の駿河台に屋敷を持っていました。忠高の墓碑によると、忠英は小栗家の当主・小栗忠清(ただきよ)と親しくしており、その縁で忠高は忠清の養子に迎えられました。
文化10年(1813年)に忠清が亡くなると、まだ幼かった忠高が小栗家の家督を継ぎます。小栗家には将軍家に仕えてきた先祖がおり、忠高も成長すると幕府に勤めるようになりました。

忠清の娘・邦子との結婚と忠順の誕生

忠高は養父・忠清の娘である邦子(くにこ)と結婚しました。邦子は小栗家に生まれ、忠高はその家に養子に入った夫です。
文政10年(1827年)には、二人の長男・忠順が江戸の小栗家の屋敷で生まれました。忠順は成長すると幕府に仕え、のちに使節の一員としてアメリカへ渡っています。
邦子は忠高の死後も長く生きました。幕府が終わる時期には忠順やその妻・道子とともに、江戸から上野国の権田村へ移っています。

小栗忠高の仕事は?持筒頭から新潟奉行へ

使番・目付・持筒頭などを歴任

忠高は文政9年(1826年)に小姓組の番士となり、幕府での勤務を始めました。小姓組は将軍の身辺や江戸城の警備に関わる役職です。
天保14年(1843年)には使番となり、その後は西丸目付、留守居番を務めました。使番は将軍の命令を伝える仕事などを担当し、目付は旗本や御家人を監察する役人です。
弘化4年(1847年)には持筒頭となりました。持筒組は将軍の鉄砲を扱う部隊で、忠高はその頭を務めたのです。
こうして江戸で幕府に勤めたあと、嘉永7年(1854年)閏7月に新潟奉行に任命されました。

新潟の海防に備えるための訓練場計画

新潟奉行は、江戸幕府が新潟に置いた役人です。町の行政や裁判を担当し、港に出入りする船の管理にも関わりました。
新潟は信濃川の河口にある港町で、多くの船が行き交っていました。幕府は1843年に新潟を直轄地とし、初代の新潟奉行に川村修就(かわむら・ながたか)を任命しています。
忠高が新潟に赴任したのは1854年10月です。この年の春には日米和親条約が結ばれており、日本各地で外国船への備えが求められていました。
忠高の墓碑には、新潟の海岸を守るため、広い土地を探して兵の訓練場を設けようとしたと記されています。忠高はその計画を実施する前に亡くなりました。

小栗忠高はどんな人だった?墓碑と火縄銃に残る記録

同じ師に学んだ部下にも公務を通じて接した

忠高がどんな人だったかは、新潟にある墓碑にも記されています。忠高は学問を好み、武芸にも優れていたといいます。
この墓碑の文章を書いた杉浦吉陽(すぎうら・きちよう)は、忠高と同じ師のもとで学んだ人物でした。忠高が新潟奉行になると、吉陽はその部下となって働いています。
吉陽によると、忠高は以前から知っている相手でも、公務以外で自分のもとに呼び出すことはなかったそうです。墓碑には、部下を公平に扱ったとも記されています。
墓碑は忠順が依頼して建てたもので、父をたたえるための文章です。それでも忠高と吉陽の関係や、奉行所での接し方を知ることができます。

忠高の銘がある火縄銃

群馬県高崎市の東善寺には、小栗家の家紋が入った火縄銃が伝わっています。東善寺の報告によると、その銃身には小栗又一忠高造という銘が刻まれていました。
忠高は幕府の持筒頭を務めた人です。この銃の製作にも関わった可能性があります。
ただし、銃のどの部分を忠高本人が作ったのかは、銘だけからは詳しくわかりません。息子の忠順も砲術を学んでいますが、父からどのような影響を受けたのかもはっきりしていません。

小栗忠高の最期と忠順の家督相続

1855年に新潟で病死、享年47歳

忠高は新潟に着任した翌年、安政2年(1855年)に病気で亡くなりました。墓碑に記された享年は47歳です。当時の数え年による年齢です。
新潟で仕事をした期間は、墓碑の記述によると約10か月でした。忠順は父の病気を知ると幕府の許可を得て新潟へ向かっています。
忠高の病名や治療の詳しい内容は、墓碑には記されていません。

墓碑の7月28日と、日記などに残る7月10日

忠高の墓碑には、亡くなった日が安政2年7月28日と記されています。ところが、忠順の日記や東善寺に残る位牌には、命日を7月10日とする記録もあります。
新潟郷土史研究会で紹介された研究では、忠順が7月10日に父の法事を営んでいたことなどから、この日が実際の命日だった可能性を指摘しています。
同じ研究では、家督相続の手続きに関係して、奉行所が忠高の死をすぐには公表しなかった可能性も述べられています。これは日付の違いを説明する一つの考え方です。

忠順の家督相続と法音寺の墓碑

忠順は同年10月22日に家督相続を認められ、小栗家を継ぎました。その後、目付や勘定奉行などを務め、幕末の幕府で外交や財政に関わる仕事を担当します。
忠高の墓は新潟市中央区西堀通3番町の法音寺にあります。墓石の裏には忠高の生い立ちや役職、新潟での計画などを記した墓碑文が刻まれています。
この文章を杉浦吉陽に依頼し、安政3年(1856年)に墓碑を建てたのが忠順です。父と同じ師に学び、奉行所でも一緒に働いた吉陽に、父のことを書いてもらったのですね。

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