小栗忠順の妻・みちとは?道子の実家と結婚、その後の生涯

小栗忠順(おぐりただまさ)の妻・道子(みちこ)は、播磨国の林田藩主・建部政醇の娘です。大名家に生まれ、徳川幕府の旗本だった小栗忠順に嫁ぎました。
 
幕末になると道子は妊娠中に忠順と別れ、会津へ逃れることになります。忠順は新政府軍に処刑され、道子は夫を亡くしたあとに娘の国子を出産しました。

道子はどんな家に生まれ、忠順とどのように暮らしていたのでしょうか。夫を亡くしたあとはどうなったのでしょうか?

この記事では道子の実家や忠順との結婚、会津への避難、明治になってからの暮らしまで紹介します。

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小栗忠順の妻・道子とは?

道子は播磨国林田藩(はりまのくにはやしだはん)の藩主・建部政醇(たけべまさあつ)の娘です。徳川幕府の旗本だった小栗忠順と結婚しました。

慶応4年(1868年)に忠順が幕府の役職を解かれると、道子も家族とともに上野国の権田村へ移りました。このとき道子は妊娠していました。

やがて新政府軍が権田村に迫り、道子は忠順の母・くにや養女の鉞子とともに会津へ逃れます。忠順は村に残り、新政府軍に捕らえられて処刑されました。
道子は会津で娘の国子を出産しました。明治になると東京へ戻り、明治18年(1885年)に亡くなっています。

 

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道子の実家は林田藩の建部家

父の建部政醇は林田藩の8代藩主

道子の父・建部政醇は播磨国林田藩の8代藩主でした。林田藩は現在の兵庫県姫路市林田町周辺にあった藩で、建部家は1万石余りを治めていました。
道子は大名家のお姫様だったんですね。
夫となる小栗忠順は徳川将軍家に直接仕える旗本の家に生まれました。小栗家も代々将軍に仕える家柄でしたが、大名の建部家とは身分が異なります。
道子は林田藩主の娘として育ち、結婚してからは江戸で旗本の妻として暮らすことになりました。

嫁入りに付き添った林田藩士・塚本真彦

道子が小栗家へ嫁ぐときには、林田藩士の塚本真彦(つかもとまさひこ)が付人として付き添いました。
塚本は道子とともに小栗家へ移り、その後も忠順に仕えています。
忠順が幕府の使節としてアメリカへ渡ったときには、塚本も従者として同行しました。幕末に忠順が権田村へ移り住んだときも、塚本は家族を連れて従っています。
道子の嫁入りに付き添った塚本は、その後も忠順に仕え続けた人物だったのです。

道子と小栗忠順の結婚

結婚前から忠順は建部家を訪れていた

忠順は道子と結婚する前から建部家を訪れていたようです。
道子の妹の子にあたる蜷川新(にながわあらた)は、著書の中で若いころの忠順について書いています。
蜷川が少年時代に建部家の旧藩士から聞いた話によると、忠順は14歳ほどのころに建部家を訪れ、藩主の建部政醇と堂々と話をしていたそうです。
まだ14歳ほどの少年だった忠順が藩主を相手に物おじせず話していたというのは、面白い話ですね。
忠順と道子が初めて会った時期や結婚前の二人の関係については詳しい記録が残っていません。
それでも忠順が若いころから道子の父・政醇と会う機会を持っていたことは、蜷川が聞いた話からうかがえます。

嘉永2年(1849年)に結婚したと伝わる

小栗忠順ゆかりの東善寺が公開している略歴によると、忠順と道子が結婚したのは嘉永2年(1849年)です。結婚した月日までは記されていません。
道子が何歳で結婚したのかもはっきりしていません。東善寺の略歴には道子の生年と亡くなったときの年齢が記されていますが、計算すると一致しないためです。
二人の結婚生活について詳しく書かれた記録も多くありません。ただし幕末に忠順が残した日記には、道子と家族が過ごした日々の出来事が記されています。

結婚後の暮らしと子ども

実子が生まれる前に迎えた鉞子と忠道

忠順と道子の間には結婚してから長い間、実の子どもが生まれませんでした。
そこで小栗家は親族の日下数馬(くさかかずま)の娘・鉞子(よきこ)を養女に迎えました。
さらに旗本の駒井家から忠道(ただみち)を養子として迎え、鉞子の許婚とします。忠道には将来の小栗家を継いでもらう予定でした。
鉞子と忠道を迎えたあと、道子は慶応4年(1868年)に忠順の子を身ごもります。
その後に会津で生まれる国子(くにこ)が、忠順と道子の間に生まれた唯一の実の子でした。

小栗日記に残る妊娠中の道子

慶応4年(1868年)に忠順は幕府の役職を解かれ、家族を連れて上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ移りました。
道子も忠順の母・くにや養女の鉞子たちと一緒に暮らしていました。このとき道子のお腹には忠順の子がいました。
忠順が書いた『小栗日記』には、権田村で暮らしていた道子のことも記されています。
東善寺が公開している現代語訳によると、3月14日に道子は着帯の儀を行いました。
着帯の儀とは妊娠中の女性がお腹に帯を着け、無事に赤ちゃんが生まれるよう願う儀式です。
この日は塚本の母とまきという女性が道子を手伝い、忠順は二人に祝儀を渡しました。
3月24日には道子が義母のくにや養女の鉞子と一緒に、近所へ草摘みに出かけています。
忠順はこうした家族の出来事も日記に書き残していたんですね。道子が妊娠中に義母や養女と過ごしていたこともわかります。

小栗忠順との別れと会津への避難

権田村で夫と別れた道子

権田村へ移ってから間もなく、忠順の家族に新政府軍が迫ってきました。
新政府軍がやって来るという知らせを受けた忠順は道子を連れて東善寺を離れ、権田村亀沢にあった大井彦八の家に身を寄せました。
翌日になると村の名主・佐藤藤七が忠順を訪ね、村へ戻ってほしいと頼みます。
忠順はその頼みを受け入れ、道子と別れて東善寺へ戻りました。
これが夫婦の最後の別れになってしまいました。
忠順は家族のことを村役人の中島三左衛門に託し、会津へ逃れるよう頼みました。
その後、忠順は新政府軍に捕らえられ、慶応4年閏4月6日に処刑されました。養子の忠道も命を落としています。
妊娠中だった道子は忠順とともに村へ戻ることはなく、夫と再会できないまま別れることになったのです。

村人に守られ、母のくにや鉞子と会津へ

忠順から家族を託された中島三左衛門は権田村の人たちと護衛隊を作り、道子たちを会津へ連れていきました。
道子と一緒に逃れたのは忠順の母・くにと養女の鉞子です。
妊娠中の道子は険しい山道を越えて会津へ向かわなければなりませんでした。一行は途中で新潟を通り、会津へ向かったと伝えられています。
忠順の家族を守るために同行した村人の中には、会津に着いてから会津側に加わって戦った人もいました。
佐藤銀十郎と塚越冨五郎の二人は戦いで命を落としています。
道子たちが会津へ逃れることができたのは、忠順から頼まれた中島三左衛門や護衛に加わった村人たちが守ってくれたからでもありました。

夫の死後、会津で娘の国子を出産

会津へたどり着いた道子たちは、会津藩の家老・横山主税(よこやまちから)の家族に迎えられました。
しかし会津の城下にも戦いが迫ってきたため、道子たちは再び避難して南原の避難所へ移りました。
慶応4年6月10日に道子は南原で女の子を出産します。生まれた娘は国子(くにこ)と名づけられました。
忠順と道子が結婚してから長い年月を経て生まれた実の子どもです。
しかし忠順はすでに処刑されていました。娘が生まれたことを知ることも、その顔を見ることもできなかったのです。
出産を終えた道子たちはその後も避難を続け、さらに南へ移って会津で冬を越しています。

道子はその後どうなった?明治になってからの生涯

三野村利左衛門が母子の暮らしを助けた

明治になると道子たちは会津を離れ、東京へ戻りました。
夫を失った道子は幼い娘の国子を育てていかなければなりません。
そんな母子の暮らしを助けたのが三野村利左衛門(みのむらりざえもん)でした。
三野村は若いころに小栗家へ奉公し、その後は三井の番頭になった人物です。
東京に戻った道子と国子のために、三野村は深川にあった自分の屋敷の中に住まいを用意しました。
かつて小栗家に奉公していた三野村が、忠順の亡きあとに妻と娘の面倒を見てくれたのです。
三野村は明治10年(1877年)に亡くなりましたが、その後も三野村家は国子を支えました。

実家の建部家を頼らず深川で暮らした

道子には実家の建部家という頼れそうな家もありました。
道子の甥にあたる蜷川新は、著書の中で東京に戻った道子の暮らしについて書いています。
当時は建部家も東京に屋敷を持っていました。しかし道子は建部家に身を寄せず、三野村利左衛門の世話を受けて深川で暮らしていたそうです。
蜷川自身も子どものころに母親に連れられ、深川に住む道子を訪ねたことを覚えていました。
大名家の娘だった道子が、なぜ実家の建部家ではなく三野村の屋敷で暮らしていたのかは気になるところです。
蜷川の記録にもその理由までは書かれていません。
ただし道子が東京へ戻ってから三野村の世話になり、娘の国子と暮らしていたことは親族の記録にも残っています。

明治18年に亡くなり、国子は大隈家へ

道子は明治18年(1885年)3月27日に亡くなりました。忠順が処刑されてからおよそ17年後のことです。
母を亡くした国子は、その後に大隈重信・綾子夫妻に引き取られました。
大隈重信は明治時代に政治家として活躍した人物です。妻の綾子は忠順の従姉妹にあたり、小栗家とは親戚関係にありました。
国子は大隈夫妻のもとで暮らし、のちに矢野貞雄を婿に迎えています。貞雄は小栗姓を名乗って小栗家を継ぎました。
忠順は娘の国子に会うことができませんでした。それでも道子が会津で産んだ国子が成長して婿を迎えたことで、小栗家はその後も続いていったのです。

逆賊の幕臣のみちはどんな役?演じるのは上白石萌音さん

上白石萌音さんが小栗忠順の妻・みちを演じる

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、上白石萌音さんが小栗忠順の妻・みちを演じます。
夫の小栗忠順を演じるのは松坂桃李さんです。みちの父・建部政醇は飯尾和樹さん、忠順の母・くには鈴木京香さんが演じます。
ドラマのみちは林田藩主の娘として育ち、親同士が決めた結婚によって小栗家に嫁ぎます。
ではドラマのみちはどんな女性なのでしょうか。

道具や記録が好きなみち

ドラマのみちは珍しい道具や品物が大好きな女性です。
父の建部政醇も珍しい物を集めるのが好きで、みちはそんな父の影響を受けて育ちました。
珍しい品物を見ると形や寸法、由緒などを記録します。家計の帳簿をつけるのも好きで、量距尺(りょうきょしゃく)という物差しまで持ち歩いています。
そんなみちが結婚するのが小栗忠順です。
二人の結婚は親同士の取り決めによるものでしたが、忠順も道具や記録が好きだったため意気投合します。
みちは結婚後に忠順の相談相手となり、義母のくににも物おじせずに接します。
史実の道子が道具や記録を好んでいたかどうかは、今回紹介した資料からはわかりません。道具好きという性格はドラマでのみちの設定です。
実際の道子は幕末に妊娠中の体で会津へ逃れ、夫を亡くしたあとに娘の国子を出産しました。明治になって東京へ戻ると三野村利左衛門の世話を受けながら娘を育てています。
ドラマではそんな道子を上白石萌音さんがどのように演じるのかも楽しみですね。

 
 

 

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