小栗忠順(おぐり ただまさ)は幕末の江戸幕府で勘定奉行や外国奉行を務めた旗本です。小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)の名前でも知られ、幕府の財政改革や横須賀製鉄所の建設を進めました。
アメリカに渡って造船所や工場を視察し、日本にも西洋式の工業施設が必要だと考えた小栗。しかし、徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れると新政府軍への抵抗を主張して罷免され、故郷の領地で暮らそうとしたところを捕らえられて処刑されました。
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では主人公になります。小栗忠順はどのような人物で、幕府のために何をしたのでしょうか。
横須賀製鉄所の建設や徳川慶喜との対立、処刑された理由、残された家族について紹介します。
小栗忠順とは
プロフィール
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名前:小栗忠順(おぐり ただまさ)
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幼名:剛太郎(ごうたろう)
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通称:又一(またいち)
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官名:豊後守(ぶんごのかみ)、上野介(こうずけのすけ)
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生年:文政10年6月23日(1827年7月16日)
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没年:慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)
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享年:42歳(数え年)
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出身:江戸神田駿河台(東京都千代田区)
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身分:江戸幕府の旗本
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主君:徳川家定、徳川家茂、徳川慶喜
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主な官職:目付、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行、江戸町奉行など 家族
家族
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父:小栗忠高(おぐり ただたか)。新潟奉行
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母:くに(邦子)。小栗家の娘
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妻:道子(みちこ)。建部政醇の娘
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養子:小栗忠道(おぐり ただみち)
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養女:鉞子(よきこ)
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娘:国子(くにこ)。
小栗忠順の出自と家族
小栗家は徳川家康以来の旗本
小栗家は三河国に出自を持つ武士の家で、徳川家康が関東に移った際に同行した譜代の家臣でした。 先祖の小栗忠政は徳川家康に仕えて戦功を挙げた人物です。その後も小栗家は幕府に仕え、江戸時代には二千数百石の知行を持つ旗本となっていました。 忠順は文政10年(1827年)、江戸の神田駿河台にあった小栗家の屋敷で生まれました。小栗家の12代目にあたります。 小栗家の領地は上野国にもありました。その一つが群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)です。忠順が幕府の役職を解かれたあと、この村へ移り住んだのは、小栗家が以前から知行地としていた場所だったためです。
父・小栗忠高
父の小栗忠高は中川家に生まれ、小栗家に養子として入りました。幕府に仕えて新潟奉行を務めた人物です。 安政2年(1855年)に忠高が亡くなると、忠順が小栗家の家督を継ぎました。
母・くに
母のくには小栗家の出身で、忠高と結婚しました。忠順が処刑される直前には息子の妻や養女とともに権田村から脱出し、会津へ向かいました。 忠順の死後も生き延び、残された小栗家の家族と暮らしています。
妻・道子と子供
妻の道子は播磨国林田藩の前藩主・建部政醇(たけべ まさあつ)の娘です。嘉永2年(1849年)ごろに忠順と結婚しました。 二人には長い間、実子が生まれず、小栗家では養子の忠道を迎えていました。また、鉞子という養女もいました。 慶応4年(1868年)、忠順が処刑されたとき、道子は妊娠していました。道子は会津まで逃れ、同年6月10日に娘の国子を出産します。 忠順は自分の娘が生まれたことを知ることなく亡くなりました。
小栗忠順の生涯
若いころから学問と武術を学ぶ
忠順は幼いころから儒学者・安積艮斎(あさか ごんさい)の塾で学びました。安積艮斎は江戸で多くの門人を教えた儒学者です。 忠順は儒学のほか、剣術や柔術、砲術なども学んでいました。 天保14年(1843年)、17歳になった忠順は初めて江戸城に登城し、将軍にお目見えしました。その後は幕府の役職を務め、将軍の護衛などを担当するようになります。 嘉永6年(1853年)にはペリーが浦賀に来航しました。幕府は外国との交渉を迫られ、海外事情に通じた人材や行政の仕事を任せられる幕臣を必要としていました。 忠順も幕府で経験を積み、安政4年(1857年)には使番となりました。使番は将軍の命令を伝えたり、軍事や地方の状況を確認したりする役職です。
井伊直弼に抜擢され目付となる
安政6年(1859年)、忠順は大老・井伊直弼のもとで目付に任命されました。 目付は旗本や御家人などの監察を担当する役職ですが、幕末には外交に関する仕事も担当しました。 幕府は前年に締結した日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節を派遣することになっていました。忠順はその使節団の監察役を命じられます。 当時の忠順は数え年33歳。幕府の外交交渉に直接関わることになりました。
アメリカに渡り造幣局や造船所を視察する
万延元年(1860年)、忠順はアメリカ軍艦ポウハタン号に乗って渡米しました。 使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正で、忠順は目付として同行しました。 アメリカではワシントンで大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見したほか、造船所や造幣局などを視察しています。
当時、日本では金と銀の交換比率が外国と異なっていたため、開港後に金貨が大量に海外へ流出する問題が起きていました。 忠順はフィラデルフィアの造幣局で日本とアメリカの貨幣を調べ、金銀の含有量や交換比率についてアメリカ側と議論しました。 また、アメリカの工場では蒸気機関を使った機械が金属製品を製造していました。日本の職人が手作業で製品を作っていたのに対し、アメリカでは機械を使って同じ規格の部品を大量に作ることができました。 忠順は視察の際にネジを持ち帰ったと伝わっています。 使節団はその後、大西洋からアフリカ南端の喜望峰を経由し、アジアを通って帰国しました。忠順は欧米の工業技術だけでなく、外国の支配を受けた地域の状況にも接しています。
外国奉行となり対馬事件に対応する
帰国後の万延元年(1860年)、忠順は外国奉行に任命されました。外国奉行は外国との交渉や開港場に関する行政を担当する役職です。 文久元年(1861年)、ロシアの軍艦が対馬に来航し、島の一部を占拠する事件が起きました。 幕府は忠順にロシア側との交渉を命じます。 忠順は対馬に赴き、ロシア軍艦の退去を求めました。しかしロシア側は容易に応じず、日本側だけでは軍艦を退去させることができませんでした。 最終的にロシア軍艦はイギリス側の介入もあって退去しました。 忠順は幕府の対応に不満を抱き、外国奉行を辞任しました。
勘定奉行となり幕府の財政改革を進める
文久2年(1862年)、忠順は勘定奉行勝手方に任命されました。 勘定奉行は幕府の財政や幕府直轄領の行政を担当する役職です。勝手方は主に財政を扱っていました。 当時の幕府は外国との貿易や軍備の西洋化、海防のために多額の費用を必要としていました。一方で、従来の年貢収入だけでは新しい軍艦や兵器を十分に購入できません。 忠順は幕府の財政を担当しながら、貨幣制度や貿易に関する政策、兵器製造施設の改善などに取り組みました。 三井家と関係の深い商人・三野村利左衛門(みのむら りざえもん)とも交流し、財政上の仕事で協力を得ています。 忠順はその後も勘定奉行に繰り返し任命されました。江戸町奉行や軍艦奉行なども歴任し、幕府の財政・軍事・外交に関する仕事を担当しています。
横須賀製鉄所の建設を進める
忠順はアメリカで造船所を視察した経験から、日本国内にも西洋式の造船施設が必要だと考えていました。 当時の幕府は外国から軍艦を購入していましたが、船体や機関が故障すると国内で十分に修理できる施設がありませんでした。外国の技術者や施設に頼り続ければ、軍艦を維持するにも費用がかかります。 忠順は国内で船の修理や建造ができる施設を造るよう幕府に提案しました。 フランス公使レオン・ロッシュの協力を得て、フランス人技術者フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設に参加することになります。
慶応元年(1865年)11月15日、横須賀製鉄所の建設が始まりました。 横須賀製鉄所には造船や船舶修理のための設備だけでなく、機械工作や金属加工を行う施設も計画されていました。西洋式の機械を導入し、日本人の職工や技術者を育成することも目的の一つでした。 横須賀製鉄所の建設には多額の費用が必要でした。そのため幕府内部には建設に反対する意見もありましたが、忠順は計画を進めました。 建設工事が始まってから3年ほどで幕府は崩壊し、忠順も処刑されてしまいます。しかし工事は明治政府に引き継がれました。 明治4年(1871年)には1号ドックが完成し、横須賀造船所と改称されます。後には海軍工廠となり、軍艦の建造や修理を行いました。 忠順が幕府のために建設を始めた施設を、明治政府が使用することになったのです。
フランスと協力して軍備の西洋化を進める
忠順は造船所の建設に加えて、大砲や火薬の製造施設の改良にも取り組みました。 元治元年(1864年)には大小砲鋳造事務取扱を命じられ、大砲の製造に関係する仕事を担当しました。 当時の幕府では青銅製の大砲も製造していましたが、欧米では鉄製の大砲が発達していました。忠順は鉄製大砲の製造を進め、兵器の品質を改善しようとしました。 慶応2年(1866年)には滝野川に反射炉が完成し、ベルギーから購入した機械を使った火薬や弾薬の製造も計画されました。 忠順は外国から軍艦や大砲を購入するだけでなく、日本国内で製造や修理ができるようにしようと考えていたのでしょう。
徳川慶喜と対立し幕府の役職を解かれる
慶応3年(1867年)、15代将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返す大政奉還を行いました。 しかし徳川家と薩摩・長州などの対立は解消されず、翌慶応4年(1868年)1月には鳥羽・伏見の戦いが起こります。 旧幕府軍は新政府軍に敗れ、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸に帰りました。 江戸城では今後の対応をめぐって会議が開かれます。 忠順は新政府軍に抵抗するよう主張しました。榎本武揚や大鳥圭介らも抗戦を唱えていました。 忠順が提案したと伝わるのは、東海道を進んでくる新政府軍を箱根付近で迎え撃ち、同時に幕府海軍の軍艦で駿河湾から攻撃する作戦です。陸軍と海軍を使って新政府軍の補給を妨げようというものでした。 しかし慶喜は新政府軍との戦闘を続ける方針を採用しませんでした。忠順は慶応4年1月、幕府の役職を解かれます。 忠順の作戦については後世の記録による部分もあり、江戸城の会議で具体的にどのような説明をしたのかは慎重に考える必要があります。
権田村に移り住む
幕府の役職を解かれた忠順は、上野国群馬郡権田村へ移り住むことを決めました。 権田村は小栗家の領地の一つです。忠順は慶応4年3月に村へ到着し、東善寺に仮住まいしました。 忠順はそこで家族と暮らし、村のために水路を設けたり、教育施設を造ったりすることを考えていたと伝わっています。 一方、東日本では新政府軍と旧幕府側の戦闘が続いていました。 新政府軍は各地の旧幕府勢力を警戒しており、元勘定奉行で抗戦論を唱えた忠順も疑いをかけられることになります。
新政府軍に捕らえられ処刑される
慶応4年閏4月、忠順は新政府軍に捕らえられました。 新政府軍が忠順を疑った理由については、武器を所有していたことや農兵を組織しようとしていた疑い、旧幕府側との関係があったと言われます。
しかし忠順が権田村で新政府軍に対する武装蜂起を計画していたと確認できる証拠はありません。 忠順は十分な取り調べを受けることなく、閏4月6日(1868年5月27日)、権田村近くの烏川河原で斬首されました。 享年42歳でした。
翌日には養子の忠道も処刑されています。 忠順は徳川家に仕えて財政改革や軍備の西洋化を進めましたが、幕府が崩壊した直後に命を奪われました。
小栗忠順はなぜ処刑されたのか?
忠順は鳥羽・伏見の戦いのあと、徳川慶喜に新政府軍への抵抗を主張していました。その後、役職を解かれ、上野国の領地へ移りました。 新政府軍は旧幕府側の武士が再び兵を集めることを警戒していました。忠順は幕府の財政や軍事に関係する役職を歴任していたため、新政府軍から警戒された可能性があります。
また、徳川埋蔵金の隠匿に関係して処刑されたという説もあります。 しかし、忠順が幕府の財宝を隠したことを裏づける確かな史料は確認されていません。赤城山などに隠したとされる徳川埋蔵金の話も、後世に広まった伝説です。
忠順が実際に新政府軍へ反乱を起こす準備をしていたのかについても、確実な証拠は見つかっていません。 幕府の役職を解かれて領地へ移った忠順が、明確な罪状を示されないまま処刑されたことは、幕末維新期の事件の中でも疑問が残る出来事です。
小栗忠順の妻と子供はその後どうなった?
忠順が捕らえられる前、妻の道子、母のくに、養女の鉞子は権田村から脱出しました。 道子は妊娠しており、村の人々に助けられながら会津へ向かいます。
一行は慶応4年閏4月29日に会津へ到着しました。 会津藩主・松平容保の配慮を受け、道子は同年6月10日に娘の国子を出産しました。 その後、母子は東京へ戻ります。 小栗家と関係のあった三野村利左衛門が生活を助け、道子の死後には大隈重信夫妻も国子の世話をしました。
大隈重信の妻・綾子は小栗家の親族にあたります。 国子はのちに矢野貞雄を婿に迎え、小栗家を継ぎました。忠順は処刑されましたが、娘を通じて小栗家は存続しました。
小栗忠順と勝海舟の違い
小栗忠順と勝海舟は、ともに幕末の幕府で西洋の技術や制度を取り入れようとした人物です。 勝海舟は海軍の西洋化に取り組み、咸臨丸による渡米にも参加しました。一方、小栗忠順は遣米使節として渡米し、造船所や造幣局を視察した経験を幕府の政策に生かしました。
二人の方針が大きく異なったのは、鳥羽・伏見の戦いのあとでした。 小栗は旧幕府の陸軍と海軍を使って新政府軍に抵抗するよう主張しました。 勝海舟は徳川家が降伏し、江戸での大規模な戦闘を避ける方針を採りました。
その後、勝は新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸城の開城を実現します。 小栗は幕府の役職を解かれて処刑されましたが、勝は明治時代にも政府の役職を務めました。 二人はともに徳川家に仕えながら、幕府が軍事的に敗れたあと、異なる対応を考えていたのです。
小栗忠順が「明治の父」と呼ばれる理由
小栗忠順が建設を進めた横須賀製鉄所は、明治政府に引き継がれて横須賀造船所となりました。 明治政府はこの施設を利用して軍艦の建造や修理を行い、日本人の技術者や職工の育成も進めました。 また、小栗は幕府の財政制度を改善しようとしたほか、貨幣や貿易に関する政策にも携わっています。
明治政府は幕府を倒して成立しましたが、幕府が建設した施設や導入を進めていた技術も利用しました。 こうした経緯から小栗忠順は「明治の父」と呼ばれることがあります。 明治政府の産業政策には多くの人物が関わっていますが、横須賀製鉄所については、小栗が幕府に建設を提案し、工事の開始まで担当したことが確認できます。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』の小栗忠順
2027年放送予定のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、小栗忠順が主人公になります。
小栗は幕末の幕府で勘定奉行や外国奉行を務め、横須賀製鉄所の建設を進めました。しかし明治新政府が成立すると、かつて幕府の軍事や財政を担当していたことや抗戦論を主張した経歴から警戒され、処刑されました。
ドラマの題名にある「逆賊」は、新政府に敵対した旧幕府側の人々が反逆者とされたことに関係しています。 小栗が進めた政策のうち、横須賀製鉄所は明治政府によって完成され、その後も使われました。 幕府を守ろうとした小栗が新政府によって処刑され、その小栗が建設を始めた施設を新政府が引き継いだという経緯は、ドラマでも気になるところですね。
小栗忠順のまとめ
小栗忠順は文政10年(1827年)に旗本の家に生まれ、井伊直弼のもとで目付となりました。万延元年(1860年)には遣米使節に参加し、アメリカの工場や造船所を視察しています。 帰国後は勘定奉行や外国奉行などを務め、幕府の財政改革や軍備の西洋化に取り組みました。
慶応元年(1865年)には横須賀製鉄所の建設を開始しました。 ところが鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、徳川慶喜に抗戦を主張して罷免されます。領地の権田村へ移りましたが、慶応4年閏4月6日、新政府軍によって処刑されました。
忠順の死後、横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、明治4年(1871年)には造船用のドックが完成しました。 忠順はその完成を見ることができませんでしたが、幕府時代に始めた工事は明治時代にも続けられました。
幕府の財政や軍備に携わった小栗が何を計画し、実際に何を完成させたのかを知ると、幕末から明治にかけての歴史を考える際にも興味深い人物だと思います。


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