2025年前期のNHK連続テレビ小説「あんぱん」は、「アンパンマン」の作者として知られる、やなせたかしと妻の小松暢をモデルにしたドラマです。
主人公の柳井嵩(やない・たかし)の伯父、柳井寛(やない・ひろし)は柳井診療所の院長をつとめる町医者。
嵩と千尋(ちひろ)にとっては育ての父のような存在で2人を励まし、生きる道しるべを示す役柄です。
柳井寛のモデルは やなせたかしの伯父 柳瀬寛(やなせ・ひろし)です。柳瀬寛は、高知で病院長をしていました。
多趣味で文化人でもあった柳瀬寛はやなせたかしの感性を育みその後の人生に大きな影響を与えました。
この記事ではドラマ「あんぱん」の柳井寛と、そのモデルとなった柳瀬寛の生涯について紹介します。
朝ドラ「あんぱん」の「柳井寛」
柳井寛は主人公の柳井嵩(やない・たかし)の伯父であり、柳井診療所の院長を務める町医者です。
妻:柳井千代子(戸田菜穂)
甥:柳井嵩(北村匠海)
甥:柳井千尋(中沢元紀)
兄:柳井清
嵩と千尋(ちひろ)にとっては育ての父のような存在。いつも二人を励まし生きる上での道しるべを示します。
柳井寛 役は 竹野内豊 さん
柳井寛を演じるのは、俳優の竹野内豊(たけのうち・ゆたか)さんです。
竹野内さんは、1971年1月2日生まれの53歳。
1994年にドラマ「ボクの就職」で俳優デビューしました。主な出演作品は、ドラマ「ビーチボーイズ」「冷静と情熱のあいだ」、映画「太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-」などです。
NHKのドラマには2014年の「永遠の泉」以来の出演となります。
朝ドラ:初出演。
大河ドラマ:
「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」佐脇良之
「いだてん〜東京オリムピック噺〜」大森兵蔵
「柳井寛」のモデルは「柳瀬寛」
柳井寛のモデルは「アンパンマン」の作者・やなせたかし(柳瀬嵩)の伯父である柳瀬寛(やなせ・ひろし)です。
父:柳瀬治太郎
母:柳瀬貞衛
弟:柳瀬清
弟:柳瀬正周
姉妹:4人
妻:柳瀬キミ
養子:柳瀬千尋(清の次男)
柳瀬家は高知県香美郡在所村の出身。
家は江戸時代から続く庄屋でしたが、しかし寛や弟の清が生まれた頃にはかつての豊かさは失われていました。
寛も清も頭がよく、高知の名門 高知県立第一中学校(現在の県立高知追手前高校)に進学。京都府立医学専門学校(現在の京都府立医科大学)を卒業。
高知県後免町で内科と小児科の「柳瀬医院」を経営していました。医学専門学校に通っていた頃に知り合ったキミと結婚していました。
寛とキミには子供がなく、弟・清の次男・千尋を養子にもらうことは清の生前から決まっていました。
しかし清が予期せぬ形で亡くなり、当時3歳だった清を引き取って養子として育てました。後に、嵩もひきとり実の息子同様に育てました。
多趣味な文化人
寛は多趣味で「朴城」という俳号で俳句を作り、薩摩琵琶を弾き、家には本やレコードがたくさんありました。サイドカー付きのオートバイで往診に行っていました。
寛は清が残した本を引き取り書斎に老いていましたし、寛自身も読書家でした。そのため家にはたくさんの本があります。
子どもたちには優しく、うるさいことは言わず自由にさせていました。でも厳しいところもあって嵩や千尋には駄菓子を買うのを禁止していました。
嵩の感性に影響を与えた蔵書たち
また医院の待合室に置くために様々な雑誌を購読していました。その中には子供向けの雑誌もあります。
嵩はそんな本に囲まれた生活をしていました。中でも嵩が目を奪われたのは、そうした本に載っている挿絵でした。とくに大人びた絵に魅力を感じていたようです。そうして育まれた感性は嵩が漫画家になったときの作風にも大きく影響しました。
嵩の将来にアドバイス
寛は養子の千尋や嵩にあれこれと将来を指図するような事はありませんでした。
でも嵩が進路を決める時期になってもまだ決めかねている様子を見て、医者の学校に行くことを進めました。学費を出すし、医院を嵩に譲ってもいいと言います。
嵩は医院は養子の千尋が継ぐものだと思っていたので驚きました。
でも嵩は自分をそのように思ってくれていたのかとありがたい気持ちになりましたが。医者になるつもりは全くありません。
寛は無理強いはしませんでした。嵩が希望を言わなかったので医師の道を進めただけで本人にやりたいものがあればそれでいいと思っていたのです。
嵩は絵を学びたいと言いました。寛はあっさりと絵を学ぶことを認めます。でも世間の厳しさを知る寛は田舎で絵がうまいくらいでは生きていけないと考え、「図案を勉強すれば将来の仕事になるんじゃないか」と勧めました。
嵩もそのとおりだと思い。京都美術学校(現在の京都工芸繊維大学)と東京美術学校を受験しましたが不合格。寛は嵩が浪人してまた受験するのを認め。
翌年、嵩は東京美術学校に合格しました。(京都美術学校は不合格)
千尋
養子として迎えた千尋にも将来を強制することはありませんでした。
嵩よりも学校の良かった千尋は高知高等学校(現在の高知大学)から京都帝大法学部へと進学します。
最後
1940年3月(昭和15年)。寛は倒れ危篤状態に。開業医の仕事は激務です。ずっと働き詰めで体を壊したようです。そして寛はまもなく亡くなりました。享年50歳。
千尋らがすぐに東京にいた嵩にも電報をうちましたが、嵩は間に合いませんでした。
嵩は後に寛について「寛大な心の持ち主で、いつもニコニコしていた」「私が絵を描いたり、本を読んだりすることを決して邪魔せず、好きなようにさせてくれた」と語っています。
寛は嵩が高校を卒業するまで援助を続けました。嵩が製薬会社への就職を決めたのは、寛への恩返しのためだったといいます。
しかし寛の死は、嵩に大きな悲しみを与えました。
寛がいなければ「アンパンマン」が誕生することはなかったかもしれません。
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