ブラッサム:西尾一路のモデル・尾崎士郎とは?宇野千代との結婚とその後

NHK連続テレビ小説『ブラッサム』に登場する西尾一路(にしお・いちろ)。劇中では主人公・葉野珠(はの・たま)と出会い、彼女の才能を認めていく若い小説家として描かれます。

この西尾一路のモデルとなったのが、昭和のベストセラー小説『人生劇場』で知られる小説家・尾崎士郎(おざき・しろう)です。尾崎士郎は、作家の宇野千代(うの・ちよ)と結婚し、東京の馬込でともに暮らしたことでも知られています。

二人は若いころに出会い、馬込では多くの作家たちと交流しました。しかし尾崎の女性問題や梶井基次郎をめぐる事件によって夫婦関係が悪化し、1930年に離婚しています。その後、尾崎は『人生劇場』を大ヒットさせ、人気作家となりました。

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ブラッサム・西尾一路のモデルは尾崎士郎

制作統括が尾崎士郎をモデルと明かしている

朝ドラ『ブラッサム』に登場する西尾一路のモデルは、小説家の尾崎士郎です。

2026年7月2日の出演者発表で、制作統括の村山峻平氏が西尾一路のモデルは尾崎士郎だと明かしています。

村山氏は、尾崎士郎が明るく親しみやすく、多くの人から好かれる人物だったことを知り、染谷将太さんを配役したと説明しています。また、作家として成功したいという野心を持つ一路が、珠との関係を通じてどのように変化するのかも見どころとして挙げています。

西尾一路は、尾崎士郎の経歴や人柄を参考にして作られたドラマの登場人物です。

西尾一路は葉野珠と出会う若い小説家

西尾一路を演じるのは俳優の染谷将太さんです。

公式に発表された設定によると、西尾一路は新進気鋭の若い小説家で、主人公の葉野珠と同じ出版社に出入りしていることから知り合います。一路は珠の作家としての才能を早くから認め、やがて二人は互いに刺激を受けながら小説を書く関係になっていきます。

染谷将太さんは、西尾一路を素直で正直な、名前のとおり一直線な男性と捉えているとコメントしています。

史実の尾崎士郎と宇野千代も、ともに小説家を目指していた若いころに出会いました。二人は夫婦として暮らすようになりますが、互いの文学的才能を認め合う作家同士でもありました。

ただし、『ブラッサム』は宇野千代の実人生を参考にしたフィクションです。史実の尾崎士郎が宇野千代と結婚したからといって、ドラマの西尾一路が葉野珠と同じ結末を迎えるとは限りません。

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尾崎士郎とは?『人生劇場』で知られる小説家

宇野千代の夫として語られることの多い尾崎士郎ですが、彼自身も昭和の文学史に名を残した作家です。

代表作『人生劇場』は映画や舞台にもなり、昭和を代表する人気小説の一つとなりました。

愛知県に生まれ、早稲田大学で学んだ

尾崎士郎の主なプロフィールは以下の通りです。

項目 内容
名前 尾崎士郎(おざき・しろう)
生年月日 1898年(明治31年)2月5日
没年 1964年(昭和39年)
出身地 愛知県幡豆郡横須賀村(現在の西尾市)
学歴 早稲田大学政治科に学ぶ
職業 小説家
代表作 『人生劇場』『空想部落』『石田三成』など

尾崎士郎は1898年、現在の愛知県西尾市に生まれました。実家は商家で、自宅では郵便局も営んでいました。

1916年(大正5年)に早稲田大学に入学すると、弁論活動に熱中するようになります。当時は普通選挙の実現を求める運動や社会主義運動にも参加していました。

その後、大学を中退した尾崎は小説を書くようになり、1921年に懸賞小説への入選を果たします。

『獄中より』で懸賞小説に入選

1921年(大正10年)、尾崎士郎は『時事新報』の懸賞短篇小説に『獄中より』を応募し、2等に入選しました。

このとき、1等に選ばれたのが宇野千代の『脂粉の顔』です。千代は賞金200円を受け取り、これをきっかけに小説家として注目されるようになりました。

また、選外佳作には後に新感覚派の代表的作家となる横光利一も選ばれています。

尾崎と千代は同じ懸賞小説に応募して入選しましたが、この時点ではまだ直接会ったことはありませんでした。二人が初めて出会うのは翌1922年のことです。

尾崎はその後も小説を書き続け、1923年(大正12年)には『凶夢』を発表しました。この作品は川端康成から高く評価されています。

尾崎士郎と宇野千代はどう出会い、結婚した?

室伏高信の紹介で知り合った二人

尾崎士郎と宇野千代が出会ったのは、1922年(大正11年)のことです。

当時、宇野千代は夫の藤村忠と北海道の札幌で暮らしていました。千代は小説『墓を発く』を中央公論社に送っており、掲載が決まったことを知って上京します。

その後、故郷の岩国へ帰り、札幌へ戻る途中で再び東京に立ち寄りました。

宇野千代は自伝『生きて行く私』で、東京での列車の乗り継ぎ時間を利用して中央公論社を訪れたところ、評論家の室伏高信と尾崎士郎に出会ったと回想しています。

室伏は千代に尾崎を紹介し、同じ懸賞小説で2等になった人物だと説明しました。室伏の誘いで三人は尾崎の宿泊していたホテルへ向かい、千代は札幌行きの列車に乗りませんでした。

こうして二人は親しくなり、一緒に暮らすようになります。

なお、初対面の詳しい経緯については当事者の回想に異なる記述もあります。中央公論社で出会ったという話は、千代が後年『生きて行く私』で記したものです。

菊富士ホテルから馬込での共同生活へ

千代は尾崎が宿泊していた本郷の菊富士ホテルに移り住み、二人の共同生活が始まりました。

菊富士ホテルは、当時多くの作家や芸術家が滞在していたことで知られる宿泊施設です。二人はその後、大森周辺の下宿などを転々とし、1923年(大正12年)には東京府荏原郡馬込村(現在の東京都大田区南馬込周辺)に家を構えました。

馬込への転居には、尾崎の知人だった上泉秀信の勧めがあったとされています。

このころの千代はまだ20代半ばで、尾崎も作家として成功する前でした。二人はともに小説を書きながら生活し、馬込には尾崎を慕う作家たちが訪れるようになります。

宇野千代の夫となった尾崎士郎

尾崎士郎と暮らし始めたころ、宇野千代は藤村忠と結婚していました。

千代と藤村は1919年(大正8年)に結婚し、藤村の就職に伴って札幌へ移り住んでいました。しかし千代は尾崎と出会った後、札幌には戻らず、藤村との離婚を決意します。

宇野千代生家と宇野千代顕彰会の年譜では、1924年(大正13年)に藤村忠との協議離婚が成立し、尾崎士郎と正式に結婚したと記載されています。

一方、西尾市の尾崎士郎記念館では1923年を最初の結婚年としており、宇野千代の公式ホームページでは1926年を結婚年としています。

このように結婚年には資料による違いがありますが、二人が1922年に親しくなり、1923年には馬込で共同生活を始めていたことは共通しています。

ちなみに千代は、若いころに従兄の藤村亮一のもとへ嫁入りし、10日ほどで実家に戻った経験もあります。この短期間の嫁入りを含めると、尾崎は千代にとって3人目の夫にあたります。

馬込ではどんな結婚生活を送った?

二人の家に集まった作家たち

尾崎士郎と宇野千代が暮らした馬込には、大正末期から昭和初期にかけて多くの作家や芸術家が集まりました。後に「馬込文士村」と呼ばれるようになる地域です。

二人が最初に住んだ家は、農家で不要になった納屋を大根畑へ移したものでした。数年後には隣の土地に10坪ほどの赤い洋館を建てています。

この赤い洋館を訪れた作家の吉屋信子が、千代に金色のベッドを贈ったという逸話も残っています。

尾崎を慕って自宅を訪れる作家は多く、客たちは文学について語り合い、酒を飲みながら歌をうたうこともありました。千代はそうした客のために料理や酒を用意してもてなしていました。

馬込には川端康成、萩原朔太郎、室生犀星、広津和郎なども暮らし、作家たちが互いの家を訪ねて交流していました。

千代も作家たちとの交流を楽しみながら、小説の執筆を続けていました。1924年には『或る女の生活』を発表し、作品集『幸福』も刊行しています。

1926年には宇野千代の故郷で暮らした

1926年(大正15年)、尾崎士郎と宇野千代は馬込を離れ、千代の故郷である山口県岩国の新港に滞在しました。

二人は祖母の紹介で新港の山の上にある小さな家を借り、そこで仕事をしながら半年ほど暮らしています。

新港はかつて千代が故郷を離れるときに利用した港でした。『生きて行く私』では、山の上の家から瀬戸内海を眺めながら過ごした日々を振り返っています。

滞在中には千代の継母リュウや弟妹たちもたびたび訪れました。

リュウは尾崎に会って、その人柄をたいへん気に入ったといいます。千代の回想には、継母が尾崎を褒めたことも記されています。

尾崎と千代は馬込で作家たちと交流するだけでなく、千代の家族とも付き合いながら夫婦生活を送っていたのです。

尾崎士郎が回想した宇野千代の執筆と暮らし

尾崎士郎は、宇野千代との結婚生活について後年も振り返っています。

著書『小説四十六年』では、千代と結婚したことで、それまでの放浪生活を終え、小説の執筆に専念できるようになったと述べています。

千代は家事をこなし、訪れる客たちをもてなしながら、自分自身も小説を書いていました。尾崎はその献身的な生活だけでなく、千代が作家として優れた才能を持っていたことも認めています。

さらに尾崎は、千代のおかげで文学を見る目が養われたと振り返り、自分の作家生活を支えてくれた人物として千代に感謝していました。

二人は後に離婚することになりますが、尾崎は宇野千代と暮らした日々が自分の作家生活にとって大切だったと考えていたのです。

尾崎士郎と宇野千代はなぜ離婚した?

多くの作家たちが集まり、二人とも小説の執筆を続けていた馬込での生活ですが、1927年ごろから夫婦関係が悪化していきます。

尾崎士郎が家を留守にすることが増え、別の女性と親しくなったことに加え、宇野千代と梶井基次郎の交流をめぐる事件も起きました。

尾崎士郎と古賀清子の関係

1927年(昭和2年)12月、尾崎士郎は『時事新報』で小説『世紀の夜』の連載を始めました。

尾崎は原稿料を得るようになると、友人たちを連れて銀座のカフェーで過ごすことが増え、馬込の家にあまり帰らなくなりました。

『世紀の夜』の原稿も、カフェーの二階や急行列車の中、公園のベンチなどで書いていたとされています。

このころ尾崎は、銀座のカフェー「ライオン」で古賀清子(こが・きよこ)という女性と親しくなります。

尾崎が家を留守にするようになったことで、宇野千代との結婚生活にも問題が生じていました。

古賀清子は後に尾崎の妻となる人物です。

梶井基次郎との交流をめぐる対立

宇野千代は1927年(昭和2年)、伊豆の湯ケ島で療養していた小説家・梶井基次郎と知り合いました。

梶井は『檸檬』などの作品で知られる作家です。当時は肺結核を患っており、療養生活を送りながら小説を書いていました。

千代は梶井の文学に関心を持ち、その後も親しく交流するようになります。しかし、この交流は尾崎との間に対立を生むことになりました。

1928年(昭和3年)1月10日ごろ、梶井が馬込の家を訪れた際、尾崎士郎が梶井の顔に火のついた煙草をたたきつける事件が起きました。

宇野千代生家の解説によると、この事件の後、尾崎は古賀清子を連れて別の場所で暮らすようになり、千代との夫婦生活は事実上破綻しました。

尾崎と梶井の対立には、千代をめぐる感情的な問題があったと考えられます。ただし、千代と梶井が実際に不倫関係にあったかどうかについては、親しい交流や当時の噂だけで断定することはできません。

1930年の正式離婚と、その後の二人

1928年の事件を経て、尾崎士郎と宇野千代は別々に暮らすようになりました。

その後も婚姻関係は続いていましたが、1930年(昭和5年)8月16日に正式に離婚しました。

同じ1930年、宇野千代は洋画家・東郷青児(とうごう・せいじ)と知り合います。

東郷は女性との情死未遂事件を起こして世間の注目を集めていました。千代はその事件を取材するために東郷を訪ね、やがて二人は同棲生活を始めます。

一方、尾崎士郎は古賀清子と再婚し、東京の大森山王で新たな家庭を築きました。

千代と尾崎の結婚生活は終わりましたが、二人は後年も互いについて語っています。千代は後に、最も好きだった男性は尾崎士郎だったと述べました。

尾崎も『小説四十六年』の中で、千代が自分の作家生活を支えてくれたことを感謝とともに振り返っています。

宇野千代と別れたあと、尾崎士郎はどうなった?

宇野千代と離婚した後も、尾崎士郎は小説の執筆を続けました。

そして1933年(昭和8年)、代表作となる『人生劇場』の連載を開始します。この作品が大きな人気を集め、尾崎は昭和を代表するベストセラー作家となりました。

1933年に『人生劇場』を連載し、1935年に大ヒット

1933年(昭和8年)、尾崎士郎は『都新聞』で長編小説『人生劇場』の連載を始めました。

最初に発表されたのは、後に「青春篇」と呼ばれる作品です。

主人公の青成瓢吉(あおなり・ひょうきち)は愛知県の三州吉良に生まれ、青年になって上京します。故郷を離れた瓢吉が、大学生活や友人との交流、恋愛などを経験していく物語で、尾崎自身の若いころの経験も参考にされています。

1935年(昭和10年)には、画家の中川一政の紹介によって竹村書房から単行本が刊行されました。

川端康成が作品を高く評価したこともあり、『人生劇場』は大きな人気を集め、ベストセラーとなります。

1937年(昭和12年)には『人生劇場』で第3回文芸懇話会賞を受賞しました。

『人生劇場』はその後も続編が書かれ、映画や舞台でも繰り返し取り上げられる人気作品となりました。

尾崎が宇野千代と暮らしていた1920年代は、まだ小説家として成功する前の時期です。『人生劇場』によって広く名前を知られるようになったのは、千代と離婚した後のことでした。

晩年まで執筆を続けた尾崎士郎

『人生劇場』は1933年の連載開始後も長く書き続けられ、1959年(昭和34年)の「蕩子篇」で全8篇となりました。

尾崎はこのほかにも『空想部落』などの小説を発表しています。

戦時中には従軍作家として戦地に赴き、『石田三成』『高杉晋作』などの歴史小説も執筆しました。戦後も歴史を題材にした作品を多く発表しています。

家庭では古賀清子との間に娘の一枝と息子の俵士が生まれました。尾崎は子供たちをかわいがり、息子について書いた随筆も残しています。

晩年は東京都大田区山王で暮らし、1964年(昭和39年)に66歳で亡くなりました。没後には文化功労者として顕彰されています。

現在、東京都大田区には尾崎が晩年を過ごした家を復元した「大田区立尾崎士郎記念館」があります。また、故郷の愛知県西尾市にも「尾崎士郎記念館」が設けられ、直筆原稿や書簡、愛用品などが展示されています。

西尾一路と尾崎士郎の共通点・史実との違い

朝ドラ『ブラッサム』の西尾一路は、実在の小説家・尾崎士郎をモデルにした人物です。

現在公表されているドラマの設定と、史実の尾崎士郎を比較すると、次のようになります。

比較項目 ドラマの西尾一路 史実の尾崎士郎
人物 染谷将太が演じる若い小説家 『人生劇場』で知られる小説家
出会い 同じ出版社に出入りしていた葉野珠と知り合う 1922年、宇野千代と知り合う
作家としての関係 珠の才能を認め、互いに刺激を受ける 千代を作家として評価し、文学を学んだと回想
共同生活 今後のドラマの展開で確認 1922年から共同生活を始め、1923年に馬込へ転居
結婚と離婚 今後のドラマの展開で確認 宇野千代と結婚し、1930年に離婚

史実の尾崎士郎は宇野千代と結婚し、馬込で多くの作家たちと交流していました。千代との結婚生活が終わった後には『人生劇場』を大ヒットさせ、人気作家となっています。

ドラマでは、一路が珠の才能を認めるだけでなく、二人が作家として互いに刺激を受ける関係になることが発表されています。

実際の尾崎も宇野千代を作家として高く評価しており、後年、千代から文学について多くを学んだと述べています。

一方、史実の二人は結婚後に夫婦関係が悪化し、離婚することになりました。この部分がドラマでどのように描かれるのかについては、今後の放送で確認する必要があります。

まとめ

朝ドラ『ブラッサム』で染谷将太さんが演じる西尾一路のモデルは、昭和のベストセラー小説『人生劇場』の作者・尾崎士郎です。

尾崎士郎は1921年に懸賞小説で入選し、翌1922年に宇野千代と出会いました。二人は東京の馬込で夫婦として暮らし、多くの作家たちと交流していましたが、1928年には梶井基次郎をめぐる事件も起き、1930年に離婚しています。

その後、尾崎は古賀清子と再婚し、1933年から連載した『人生劇場』を大ヒットさせました。

尾崎は宇野千代と別れた後も、千代が自分の作家生活を支えてくれたことを感謝とともに振り返っています。

ドラマの西尾一路と葉野珠がどのような関係になっていくのか、史実の二人と比べながら注目してみたいところです。

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