梶矢基一郎(佐藤緋美)のモデルは梶井基次郎【ブラッサム】宇野千代との関係と死因

朝ドラ『ブラッサム』で佐藤緋美さんが演じる梶矢基一郎(かじや・きいちろう)。モデルになったのは小説『檸檬(れもん)』で知られる作家・梶井基次郎(かじい・もとじろう)です。

実際の梶井は26歳のときに伊豆の湯ヶ島で宇野千代と知り合い、親しくなりました。ところが千代は当時、作家の尾崎士郎と結婚しており、二人の関係を疑った尾崎と梶井が衝突する事件まで起きています。

梶井と宇野千代は本当に恋人だったのでしょうか。また、31歳の若さで亡くなった梶井はどのような作家だったのでしょうか。

この記事では梶井基次郎の経歴や代表作、宇野千代との交流、尾崎士郎との事件について紹介します。

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梶矢基一郎のモデルは梶井基次郎

佐藤緋美が演じる若き天才作家

朝ドラ『ブラッサム』に登場する梶矢基一郎は、実在した小説家・梶井基次郎をモデルにした人物です。
梶矢を演じる佐藤緋美(さとう・ひみ)さんは、俳優の浅野忠信さんと歌手のCHARAさんの息子です。今回が初めての朝ドラ出演です。

梶矢基一郎は珠や西尾も羨む表現力をもつ天才作家という設定です。伊豆で療養中に珠と出会います。

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梶井基次郎とは?『檸檬』を書いた小説家

大阪で生まれ、京都から東京帝国大学へ

梶井基次郎は1901年(明治34年)2月17日に大阪市西区土佐堀で生まれました。
父は宗太郎、母はひさといいます。父の転勤で東京や三重県でも暮らし、1914年には大阪府立北野中学校へ転校しました。

1919年に京都の第三高等学校へ入学します。最初は理科系の学生でしたが、文学や演劇にも関心を持ち、学生仲間と演劇研究会にも参加しました。

1924年(大正13年)には23歳で東京帝国大学文学部英文科に入学しました。
東京では中谷孝雄や外村繁らと文芸同人誌の発行を計画し、1925年1月に『青空』を創刊します。その創刊号に掲載されたのが、代表作となる『檸檬』でした。

梶井は十代のころから肺を患っていました。大学へ入ってからも病気に悩まされ、結局卒業することなく大学を離れています。

代表作『檸檬』はどんな小説?

『檸檬』は京都を舞台にした短編小説です。
主人公は病気や借金などの悩みを抱えている青年です。以前は好きだった音楽や美術も楽しめなくなり、憂鬱な気分で京都の街を歩いていました。
ある日、青年は果物屋で一個のレモンを買います。
鮮やかな黄色いレモンを手にすると、不思議と気分がよくなりました。そのまま書店の丸善へ行き、積み上げた画集の上にレモンを置きます。
そしてレモンを爆弾に見立て、書店が爆発する様子を想像しながら店を出ていくのです。

病気や生活の悩みを抱えた青年が一個のレモンで少しだけ気分を晴らすという奇妙で面白いお話です。

梶井は京都の第三高等学校に通っていたころの経験をもとに、この小説を書きました。

結核を患い、伊豆の湯ヶ島で療養

1926年(大正15年)に梶井は肺の病気を療養するため、伊豆の湯ヶ島へ向かいました。

湯ヶ島には作家の川端康成も滞在していました。梶井は川端を訪ねるようになり、作品集『伊豆の踊子』の校正を手伝ったこともあります。

ほかにも広津和郎などの作家が湯ヶ島を訪れており、梶井は療養しながら文学仲間との交流を続けていました。

そんな湯ヶ島に翌1927年の夏、宇野千代がやって来たのです。

宇野千代と梶井基次郎は伊豆の湯ヶ島で出会った

1927年、川端康成らを通じて知り合う

宇野千代と梶井基次郎が知り合ったのは1927年(昭和2年)の夏でした。当時の梶井は26歳、千代は29歳です。
千代はすでに小説家として活動しており、作家の尾崎士郎と結婚していました。
千代は尾崎とともに湯ヶ島を訪れ、川端康成が滞在していた湯本館に宿泊します。そこで川端や広津和郎らを通じて梶井と知り合ったようです。
梶井は大柄な青年で、初対面では無口で近寄りがたい印象を与えたそうです。しかし笑うと目が細くなり、穏やかな顔になりました。
千代も最初は無口な人だと思っていましたが、実際に話してみると面白い青年でした。
二人は気が合ったようで、たびたび会うようになります。

梶井は夜遅くまで千代の宿を訪ねていた

梶井が泊まっていたのは湯川屋という宿でした。
夕食を済ませると20〜30分ほど歩いて千代のいる湯本館を訪ね、夜中の12時ごろまで話し込むこともあったそうです。

これには宿の女中たちも困っていました。梶井が帰るまでは雨戸を閉めることもできません。女中たちは早く帰ってほしくて、廊下にほうきを立てていたといいます。

千代は後年、このときのことを笑いながら語っています。
千代の方も梶井の泊まっている湯川屋へ遊びに行きました。尾崎が東京へ帰った後も千代は湯ヶ島に滞在して梶井と会っていました。

宇野千代が覚えていた梶井の意外な性格

千代は梶井と過ごした日々を、年を取ってからもよく覚えていました。
梶井は話が面白く、人の話を聞くのも上手だったそうです。草木や鳥にも詳しく、二人で散歩すると道端の植物についていろいろ教えてくれました。
その一方で、自分の悩みや感情についてはあまり話さない人でした。
千代が梶井の宿を訪ねたときには、フランスのウビガンという香水を見つけたこともあります。

梶井は外国製の品物にも関心があり、丸善へ行っては高価で買えないような品物を眺めるのが好きだったそうです。

部屋には書き損じた原稿用紙もたくさん散らばっていました。
梶井は一度書いた文章を何度も直すため、一日に完成する原稿はわずかでした。
千代は納得するまで文章を書き直す梶井の仕事ぶりを尊敬していました。

宇野千代と梶井基次郎は恋人だった?

梶井は宇野千代に恋愛感情を持っていた?

梶井と千代が親しくしていることは、周囲の文学仲間にも知られていました。

では、梶井は千代に恋をしていたのでしょうか。

梶井の友人だった中谷孝雄は後に著書『梶井基次郎』で千代への思いは梶井にとって特別な恋愛だったと書いています。

ただし梶井自身が千代への恋愛感情をはっきり書き残した手紙や作品は確認されていません。千代も梶井から直接告白されたという話はしていません。

二人の間にはこんな出来事もありました。
梶井が大阪へ帰ることになったころ、千代に自分が死ぬときには手を握ってくれるかと尋ねたそうです。

千代はもちろん握ってあげると答えました。

梶井はすでに結核を患っており、療養生活を続けていました。自分の死について考えることもあったのでしょう。

そんな話を千代にできるほど、二人は親しかったのです。

宇野千代は梶井を恋人と思っていたのか

宇野千代は後年、梶井とは姉と弟のような関係だったと振り返っています。

千代自身は梶井に恋愛感情を持っているとは思っていませんでした。それでも梶井のことが大好きで作家としても尊敬していたそうです。

二人の親しさがよく分かる出来事があります。
あるとき梶井から千代に葉書が届きました。東京へ行くので馬込にも寄るという知らせです。

千代は大喜びしました。
嬉しさのあまり、その葉書を持って近所の文学仲間たちに梶井がやって来ることを知らせて歩いたのです。

当時の馬込には萩原朔太郎や川端康成など、多くの作家が住んでいました。
千代にしてみれば親しい友人が訪ねてくるのが嬉しかったのでしょう。

しかし夫のいる女性が若い男性から届いた葉書を持ってこれほど喜んでいれば、周囲が二人の仲を疑うのも無理はありません。千代自身も後年、自分の行動が誤解を招いていたことを認めています。

結局、梶井が千代にどのような恋愛感情を持っていたのかは、はっきりしていません。
少なくとも千代は梶井を恋人とは考えておらず、親しい友人として接していたようです。

梶井基次郎と尾崎士郎が衝突した事件

尾崎士郎が二人の関係を疑う

千代と梶井が親しくなるにつれて、夫の尾崎士郎は二人の関係を疑うようになりました。
尾崎も最初は梶井と親しくしていました。しかし自分の妻と梶井が急速に親しくなっていく様子を見て、次第に面白くなくなってきたようです。

尾崎は後年の随筆でも、このころの梶井の態度に納得できなかったことを書いています。

もっとも千代と尾崎の夫婦仲は梶井と出会う前から悪くなっていました。
1927年12月に尾崎は『時事新報』で小説『世紀の夜』の連載を始めます。
ところが千代は夫から何も聞かされていませんでした。湯ヶ島で新聞を読んで初めて知ったというのです。

夫が新聞小説の連載を始めるという大きな出来事なのに、妻には知らせていなかったのですから驚きます。
さらに尾崎は銀座のカフェー「ライオン」で働く古賀清子という女性とも親しくなっていました。
二人はすでに夫婦の会話が少なくなり、お互いの生活を十分に知らない状態になっていたのです。

1928年、二人がパーティーで衝突

1928年(昭和3年)1月に尾崎士郎と梶井基次郎が衝突する事件が起きました。
場所は東京の文学仲間・衣巻省三の家で開かれていた集まりです。
湯ヶ島から上京した梶井は萩原朔太郎に連れられて参加しました。そこへ酒を飲んだ尾崎が現れ、梶井と対立したのです。

この事件は後に決闘と呼ばれることもあります。
尾崎が梶井に火のついた煙草を投げつけたという話や、刃物を投げたという話も伝わっています。

ただし事件の細かな様子には伝聞が混じっているため、どこまでが事実だったのかははっきりしません。

周囲の人々が仲裁に入り、二人が本格的に決闘する事態にはなりませんでした。
それにしても妻と親しくしていた相手に、文学仲間が集まる場所で詰め寄るとは、尾崎も相当腹を立てていたのでしょう。

尾崎士郎と宇野千代はなぜ別れた?

梶井との事件が起きた後も、千代と尾崎の夫婦仲はよくなりませんでした。
尾崎は古賀清子との交際を続け、やがて千代とは別居するようになります。
千代自身も後年、尾崎との関係がうまくいかなくなったことには梶井との親しさも関係していたと振り返っています。

しかし尾崎には別の女性との交際もあり、千代との会話も少なくなっていました。
梶井との関係だけで二人が離婚したわけではなかったのです。
結局、宇野千代と尾崎士郎は1930年(昭和5年)に離婚しました。

尾崎士郎と梶井基次郎の和解

尾崎と梶井の関係にも、その後変化がありました。
晩年に病気で療養していた梶井は尾崎に手紙を送りました。
尾崎も返事を書き、早く元気になってほしいという気持ちや見舞いに行きたいという思いを伝えています。

梶井はその返事を喜びました。尾崎が訪ねてくる日を楽しみにしていることを手紙に書き、わざわざ道順を記した地図まで添えたのです。
かつて人前で衝突した二人が、今度は手紙でお互いを気遣っていたのですね。

尾崎は後年、この手紙のやり取りによって、それまでのわだかまりがなくなったと振り返っています。
しかし尾崎は結局、梶井のもとを訪ねることができませんでした。
二人は再会しないまま、梶井が亡くなってしまったのです。

梶井基次郎と宇野千代のその後

神戸でも交流が続く

梶井が伊豆での療養を終えてからも、千代との交流は続いていました。
1929年(昭和4年)に千代は小説の取材のため神戸に滞在していました。そのころ梶井も関西にいたため、千代を訪ねて一緒に神戸の街を歩いたことがあります。
千代は年を取ってからも、このときの梶井の姿をよく覚えていました。
梶井は高い下駄を履いて坂道を歩いており、その下駄の音が千代の記憶に残っていたそうです。

二人は小説の仕事でも関わっていました。
千代が1930年に発表した長編小説『罌粟はなぜ紅い(けしはなぜあかい)』の題名は、梶井が考えたものだったのです。
この小説は千代が画家の東郷青児に取材して書いた作品で、単行本の装丁も東郷が担当しました。
千代は小説を書く仕事でも梶井の考えを取り入れていたのです。

梶井基次郎の最後

梶井は伊豆での療養を終えた後、大阪の実家へ帰り、兵庫県伊丹でも療養生活を送りました。
しかし結核の症状は次第に悪化していきました。
1931年(昭和6年)に30歳で初めての作品集『檸檬』を刊行します。
翌1932年1月には雑誌『中央公論』に小説『のんきな患者』を発表しました。長く無名だった梶井の作品が、ようやく文学界で評価されるようになってきたのです。
ところが病気はよくなりませんでした。
1932年(昭和7年)3月24日、梶井基次郎は大阪の自宅で亡くなりました。まだ31歳でした。
梶井基次郎の死因は肺結核です。
現在では『檸檬』『桜の樹の下には』『城のある町にて』などが代表作として知られています。
梶井は多くの小説を残しましたが、自分の作品が広く読まれるようになる前に亡くなってしまったのです。

梶井の墓を訪れた宇野千代

宇野千代は晩年、大阪市の常國寺にある梶井の墓を訪ねています。
その日は不思議なことに、千代が墓の前にいる間だけ雨が降ったそうです。
千代はその雨について、梶井が自分の訪問を喜んで泣いてくれたように感じたと振り返っています。
宇野千代は生涯に何度も恋愛や結婚を経験した女性です。しかし梶井とは結婚も同居もしていません。
二人が一緒に過ごしたのは長い年月ではありませんでした。それでも千代は何十年たっても当時の出来事を細かく覚えていたのです。

まとめ

朝ドラ『ブラッサム』の梶矢基一郎のモデル・梶井基次郎は、宇野千代と親しく交流した小説家です。
二人が恋人として付き合っていたとまでは確認できませんが、千代は梶井の作品や仕事ぶりを尊敬し、亡くなってからも彼のことを長く覚えていました。
梶井は31歳で肺結核により亡くなりました。若くして亡くなった作家がドラマでどのように描かれるのか、葉野珠との関係にも注目したいと思います。

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