朝ドラ『ブラッサム』に、三宅弘城さんが演じる木村正吾(きむら・しょうご)が登場しました。正吾は札幌の銀行に勤める親戚で、生活に困っている珠と保に北海道行きを勧めます。
実際の宇野千代にも北海道への移住を勧め借金の返済や旅費に使うお金を渡してくれた親戚がいました。その人物が中津井高助(なかつい・たかすけ)です。
中津井高助は北海道で新聞社の経営に携わり、札幌に広い屋敷を構えていました。宇野千代は自伝『生きて行く私』にも高助との出来事を書き残しています。
木村正吾のモデルと考えられる中津井高助とは、どんな人物だったのでしょうか。宇野千代夫妻が北海道へ移住した経緯やドラマと実際の出来事との違いを紹介します。
木村正吾のモデルは中津井高助?
朝ドラ『ブラッサム』の木村正吾は、北海道で新聞事業に携わっていた中津井高助がモデルになった可能性が高い人物です。
公式からはモデルが誰かという発表はありませんが、東京で生活に困っていた若い夫婦に北海道行きを勧めて移住するためのお金を援助したという共通点があります。
木村正吾は札幌の銀行に勤める親戚
木村正吾は珠の叔母・木村照子(山田真歩)の従兄です。保(金子大地)にとっても親戚にあたり、札幌の銀行に勤めています。
第6週「ふたり、北へ」では、珠が保の子どもを妊娠したことがわかり、二人は喜びます。しかし保はまだ大学生です。これから生まれてくる子どもの出産費用や生活費をどうするのかという問題がありました。
そんな二人のもとへ照子が正吾を連れて訪ねてきます。正吾は出産費用や生活費を援助する代わりに、保が大学を卒業したら札幌の銀行で働くことを提案します。
正吾自身も若いころに北海道へ渡り、札幌で仕事をしてきた人物です。演じているのは三宅弘城さん。珠と保が北海道で暮らすことになるきっかけを作る人物として登場します。
中津井高助も宇野千代夫妻を北海道に誘った
実際の宇野千代と藤村忠(ふじむら・ただし)が東京で暮らしていたころ、北海道から親戚の中津井高助が訪ねてきました。
高助は札幌の新聞社で支配人を務めていた人物です。生活費に困っていた千代と忠に北海道へ来るよう勧め、借金の返済や旅費に使えるお金を渡しました。
二人が札幌へ移住すると、自分の屋敷の離れに住まわせています。
ドラマの正吾と同じように、高助も若い夫婦が北海道で暮らせるように協力していたのです。
中津井高助とはどんな人物?
山口県出身で北海道へ渡った
中津井高助は1875年(明治8年)に山口県玖珂郡川越村(現在の岩国市周東町)で生まれました。宇野千代より22歳年上で、二人は同じ山口県の出身です。
高助は若いころに北海道へ渡り、札幌で新聞事業に携わるようになりました。
新聞社の経営に携わる一方で、1919年(大正8年)には北海道会議員にも当選しました。北海道会は現在の北海道議会につながる地方議会です。
高助は新聞社の仕事だけでなく、北海道の地方政治にも関わっていたのです。
北海タイムスの支配人を務めた
中津井高助が勤めていたのは、札幌で発行されていた新聞『北海タイムス』の会社です。
『北海タイムス』は1901年(明治34年)に北海道毎日新聞、北門新報、北海時事の3紙が合併して創刊された日刊新聞でした。その後も北海道で発行が続けられ、1942年(昭和17年)に北海道新聞へ統合されています。
高助はこの新聞社の支配人を務めて経営にも携わっていました。
当時の資料『北海道大観』には、北海道タイムス合資会社の代表社員として中津井高助の名前が掲載されています。会社の所在地は札幌市北一条でした。
宇野千代とはどんな親戚だった?
宇野千代は自伝『生きて行く私』の中で中津井高助を「伯父」と呼んでいます。
高助は千代の父や母の実の兄ではなく、父方の遠い親戚でした。自伝では、千代の父の実家にあたる高森の家の分家筋の人物として登場します。
中津井高助はなぜ宇野千代夫妻に北海道行きを勧めた?
東京で借金を抱えていた宇野千代と藤村忠
1919年(大正8年)8月に宇野千代は従兄の藤村忠と結婚しました。
二人は東京で暮らしていましたが、生活費に困っていました。忠は東京帝国大学の学生で、千代も働いてお金を稼いでいました。
このころ住んでいたのは東京・小石川の駕籠町にあった女髪結いの家の2階です。
千代は生活費を得るため、本郷の西洋料理店「燕楽軒」で給仕をしたり、雑誌社で働いたりしていました。
それでも二人の収入だけでは生活費が足りず、質屋などに借金を抱えていました。
そんなときに北海道から中津井高助が訪ねてきたのです。
高助が北海道行きの費用を援助した
宇野千代の自伝『生きて行く私』によると、高助が訪ねてきたのは藤村忠が東京帝国大学を卒業する1、2か月ほど前でした。
高助は二人に北海道へ来るよう勧め、お金を置いていきました。その金額は質屋などへの借金をすべて返済しても、二人が北海道へ行くための旅費が十分に残るほどだったといいます。
千代と忠は東京での生活費にも困っていましたから、自分たちだけで借金を返済し、さらに北海道までの旅費を用意するのは簡単ではなかったでしょう。
高助がお金を渡してくれたおかげで、二人は北海道へ移住できることになりました。
忠は大学を卒業すると先に北海道へ向かいました。千代も東京での用事を済ませてから札幌へ向かいます。
こうして1920年(大正9年)に二人は北海道での生活を始めました。
藤村忠は北海道拓殖銀行に就職
北海道へ移住した藤村忠は北海道拓殖銀行に就職しました。
北海道拓殖銀行は1900年(明治33年)に設立された銀行です。北海道の農業や産業、企業活動への融資などを行っていました。
中津井高助は新聞社の支配人でしたが、忠が就職したのは銀行だったのです。
札幌では中津井家の屋敷に滞在
北海道へ移住した宇野千代夫妻は最初に中津井高助の家で世話になりました。
高助は札幌の中心部に広い屋敷を構えており、千代と忠はその離れで暮らし始めました。
自伝『生きて行く私』にも、この屋敷で暮らしたころの出来事が書かれています。
夫妻はしばらく中津井家で世話になったあと、高助の部下だった松島安吉の家に間借りすることになりました。
新しい住まいは6畳の畳の部屋に2畳の板の間が続く造りでした。大家も二人を気にかけ、何かと世話をしてくれたといいます。
木村正吾と中津井高助の史実との違い
ドラマの木村正吾と実在した中津井高助は、若い夫婦に北海道行きを勧めて援助したという点が共通しています。
木村正吾は銀行員、中津井高助は新聞社の経営者
ドラマの木村正吾は札幌の銀行に勤めていて、保が大学を卒業したら自分の勤務先で働くよう勧めます。
実在した中津井高助は北海タイムスの支配人でした。実際に北海道拓殖銀行に就職したのは、宇野千代の夫・藤村忠です。
ドラマでは正吾自身が銀行員なので、保に札幌の銀行への就職を提案することになります。
史実では新聞社の支配人だった高助が北海道行きを勧め、忠は銀行に就職しました。
若い夫婦を助けた親戚がいたことは共通していますが、正吾と高助の職業は違っているのです。
ドラマでは照子の従兄という設定
木村正吾は珠の叔母・木村照子の従兄です。
照子は珠の実母の妹なので、正吾は珠の母方につながる親戚ということになります。
史実の中津井高助は宇野千代の父方の遠い親戚でした。
千代は自伝で高助を「伯父」と呼んでいますが、父や母の実の兄ではありません。
ドラマでも史実でも親戚が北海道行きを助けてくれた点は同じですが、親戚関係は違っています。
北海道へ移住した時期も違う
ドラマでは1918年(大正7年)に珠が保の子どもを妊娠したころ、正吾が二人を訪ねてきます。
実際の宇野千代は1919年(大正8年)8月に藤村忠と結婚し、翌1920年(大正9年)に札幌へ移住しました。
ドラマでは珠の妊娠によって出産費用や生活費の問題が生じ、正吾が援助を申し出ます。
史実では千代と忠が東京で借金を抱えていたころに高助が訪ねてきました。高助は借金を返済できるだけのお金と旅費を渡し、帝大卒業後は二人に北海道へ来るよう勧めています。
北海道行きの時期だけでなく、二人が援助を受けることになった事情も違っているのです。
木村正吾の妻・浪江のモデルは中津井キヨ?
木村正吾の妻・木村浪江(きむら・なみえ)は、杉田かおるさんが演じています。
実在した中津井高助にもキヨという妻がいました。
宇野千代は札幌で中津井家に滞在した際、キヨから13年間も履いているという足袋を見せられたことを書き残しています。
キヨは足袋を何度も洗い、傷んだ部分を繕いながら履き続けていました。千代によると、13年間も履いているのに汚れは目立たなかったそうです。
高助は札幌に広い屋敷を構えるほど裕福でした。それでも妻のキヨは古くなった足袋を捨てず、手入れをしながら大切に使っていたのです。
浪江もキヨをモデルにしている可能性はありますね。
北海道へ移住した宇野千代はその後どうなった?
札幌で着物の仕立て仕事を始めた
宇野千代は札幌で銀行員の妻として暮らす一方、得意だった裁縫を生かして着物の仕立て仕事を始めました。
近所の女性たちから仕事を頼まれるようになり、家事をしながら着物を仕立てていました。
千代は東京にいたころも西洋料理店や雑誌社で働いていましたが、札幌へ移住してからも自分でお金を稼ぐことを続けていたのです。
『脂粉の顔』が懸賞小説で一等に
札幌で暮らしていた千代は、着物の仕立て仕事をするかたわら小説も書いていました。
1920年(大正9年)12月に千代は短編小説『脂粉の顔』を新聞『時事新報』の懸賞小説に応募しました。
翌1921年(大正10年)1月に一等当選が決まり、賞金200円を受け取ることになります。
応募者は3000人を超えていました。その中から千代の作品が一等に当選したのです。応募したときの名前は、結婚後の「藤村千代」でした。
その後も千代は小説を書き続け、『墓を発く』という作品を東京の中央公論社へ送ります。1922年(大正11年)には『中央公論』に作品が掲載され、小説家として本格的に活動するようになりました。
千代が初めて懸賞小説で一等に当選したのは、札幌で暮らしていたころだったのです。
中津井高助が北海道行きを勧めたことで、千代は札幌に移住しました。そして札幌で着物の仕立て仕事をしながら小説を書き、懸賞小説で一等を受賞しています。
高助が援助してくれなければ千代がこの時期に札幌で暮らすこともなかったでしょう。そう考えると、高助は千代が小説を書き始めたころの生活に深く関わっていた親戚だったのですね。
まとめ
朝ドラ『ブラッサム』の木村正吾は、宇野千代の親戚・中津井高助をモデルにした可能性が高い人物です。
中津井高助は山口県出身で北海道へ渡って北海タイムスの支配人を務め、新聞社の経営に携わっていました。1919年には北海道会議員にも当選しています。
宇野千代と藤村忠が東京で借金を抱えていたころ、高助は二人を訪ねて北海道行きを勧めました。借金の返済と旅費に使えるお金を渡し、札幌では自宅の離れに住まわせています。
ドラマの正吾は銀行員ですが、実在した高助は新聞社の支配人でした。また正吾は珠の母方につながる親戚ですが、高助は千代の父方の遠い親戚です。
職業や続柄には違いがあるものの、生活に困っていた若い夫婦を北海道へ招き、援助したことは共通しています。
宇野千代は札幌で着物の仕立て仕事をしながら小説を書き、1921年には『脂粉の顔』が懸賞小説で一等に当選しました。
北海道への移住は千代が小説家として活動を始める前の出来事でした。中津井高助は、その時期の千代と忠の生活を助けてくれた親戚だったのです。

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