宇野千代の子どもは何人?ブラッサムとの違いは?

朝ドラ『ブラッサム』では、葉野珠がいとこの木村保との間に子どもを授かりました。東京で保と暮らし、働きながら小説を書いていた珠にとって、妊娠は大きな出来事です。

珠のモデルとなった作家・宇野千代にも、子どもを授かった経験がありました。宇野千代は4回の結婚を経験しましたが、成長した実の子どもはいませんでした。
実は宇野千代は何度も妊娠し、生まれて間もない赤ちゃんを亡くした経験も語っています。

子どもは何人いたのでしょうか。父親は誰で、いつごろ妊娠したのでしょうか。宇野千代が瀬戸内寂聴に語った話や当時の生活を紹介します。

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宇野千代の子どもは何人?成長した実子は0人

宇野千代には、大人になるまで育った実の子どもはいませんでした。
宇野千代は1897年(明治30年)に山口県岩国で生まれ、1996年(平成8年)に98歳で亡くなりました。その間に4回結婚していますが、成人した子どもはいませんでした。

ただし妊娠や出産を経験しなかったわけではなく、宇野千代は作家の瀬戸内寂聴との対談で藤村忠との間にできた6人の子どもを亡くしたと語っています。

この対談は瀬戸内寂聴の著書『わたしの宇野千代』に収録されています。
子どもについて伝えられている内容を表にすると次のようになります。

項目 人数・内容
成長した実子 0人
亡くした子ども 本人は6人と証言
妊娠回数 5回とする説明もある
出産した子 少なくとも1人が出生後に亡くなったと伝えられる
子どもの父親 藤村忠
妊娠・出産した時期 1916~1924年ごろの藤村忠との生活期間
養子 養子縁組の記録は確認できない
娘のように大切にした人 秘書の藤江淳子

宇野千代本人が語った6人という人数は確認できますが、流産や死産、出生後に亡くなった子の詳しい内訳には不明な点が残っています。

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宇野千代は何回妊娠した?

宇野千代は6人の子どもを亡くした?

宇野千代が子どもについて詳しく語った記録の一つが、1983年(昭和58年)2月号の『婦人公論』に掲載された瀬戸内寂聴との対談「おとこと文学と」です。

この対談は1996年に刊行された『わたしの宇野千代』に収録され、2026年5月にも中公文庫から新装版が発売されています。

対談で瀬戸内寂聴が亡くした赤ちゃんの人数を尋ねたところ、宇野千代は6人と答えました。さらに、子どもたちの父親は藤村忠だったことも明かしています。

このとき宇野千代は藤村忠とは約8年間一緒に暮らしたとも話しています。

宇野千代は藤村忠と暮らしていたころに何度か妊娠して赤ちゃんを亡くしていたのです。

5回妊娠したという説も

宇野千代の妊娠については5回だったともいわれます。こちらの説は藤村忠との間に5回妊娠し、4回は流産、1回は出産しましたが、赤ちゃんは生まれた日に亡くなったというのです。

生まれて1日で亡くなった子どももいた

宇野千代は妊娠中に子を亡くしただけでなく、生きて生まれた子どもを亡くしたこともあります。

1人は生きて生まれましたが、わずか1日で亡くなったそうです。この子の父親も藤村忠とされています。

なお、宇野千代の小説『私と子供』にも生まれて間もなく亡くなる娘が登場します。

宇野千代の子どもの父親は藤村忠

藤村忠は最初の夫・藤村亮一の弟

宇野千代が亡くした子どもたちの父親は、2番目の夫・藤村忠(ふじむらただし)です。藤村忠は千代のいとこで、最初の夫・藤村亮一の弟でした。

千代は1911年(明治44年)、14歳のときに父の命令で藤村亮一のもとへ嫁ぎました。しかし、この結婚生活はわずか10日ほどで終わり、実家へ戻っています。

その後、千代は小学校の代用教員となりましたが、同僚教師との恋愛が問題になって退職しました。いったん朝鮮の京城(現在のソウル)へ渡ったものの、帰国後の1916年(大正5年)、京都にいた藤村忠を頼って出かけました。

忠は当時、第三高等学校の学生でした。2人は京都で同居を始め、翌1917年には忠の東京帝国大学進学に伴って東京へ移りました。

1919年に正式に結婚

宇野千代と藤村忠が正式に結婚したのは、1919年(大正8年)8月です。
1920年には忠が東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に就職しました。2人は札幌へ移り結婚生活を続けます。

このころ千代は家事をしたり、裁縫の腕を生かして仕立物をしたりしていました。
そして1921年(大正10年)、千代が応募した小説『脂粉の顔』が『時事新報』の懸賞小説で一等に入選します。

千代が作家としてデビューしたのは、藤村忠と暮らしていた時期だったのです。
その後、千代は小説家の尾崎士郎と親しくなり、1922年には尾崎と同居を始めました。1924年4月、藤村忠との離婚が成立しています。

宇野千代はいつ妊娠・出産した?

1916~1924年ごろの藤村忠との生活期間

宇野千代が妊娠した正確な年月は分かっていません。
藤村忠と一緒に暮らしたのは1916年から1922年ごろまでで、正式な結婚期間は1919年から1924年まででした。

そのため子を亡くしたのは千代が10代後半から20代半ばにかけての出来事だったと考えられます。
当時の主な出来事は次のとおりです。

年 宇野千代と藤村忠の出来事
1916年 千代が京都の藤村忠を頼り、同居を始める
1917年 忠の進学に伴って東京へ移る
1919年 8月に正式に結婚
1920年 忠の就職で札幌へ移住
1921年 『脂粉の顔』で作家デビュー
1922年 千代が尾崎士郎と同居を始める
1924年 4月に藤村忠と離婚

妊娠や出産がこのうちの何年にあったのかははっきりとはわかりません。

東京にいたころ?札幌にいたころ?

宇野千代は藤村忠と暮らす間に京都、東京、札幌と住まいを変えています。
東京では大学に通う忠との生活費を得るために働き、本郷の洋食店「燕楽軒」では給仕も経験しました。この店で文学者たちと知り合い、その後の作家活動につながる出会いがありました。

札幌では忠が銀行に勤め、千代は家事や仕立物をしながら小説を書き始めました。
妊娠を繰り返したのは、このような生活を送っていた時期です。
でも最初の妊娠が東京だったのか札幌だったのか、出産した赤ちゃんがどこで生まれたのかについては定かで張りません。

宇野千代が子どものように大切にした人たち

宇野千代は成長した実子には恵まれませんでしたが、長い生涯のなかで子どものように大切にした人たちがいました。

東郷青児の息子・東郷志馬

宇野千代は1930年(昭和5年)ごろから、洋画家の東郷青児と一緒に暮らしました。
東郷青児には、前妻との間に生まれた息子・東郷志馬(とうごうしま)がいました。
千代と東郷が東京・世田谷で暮らしていたころ、志馬も同じ家で生活した時期があったと伝えられています。
千代は東郷青児とは法律上の結婚をしていません。そのため、志馬とは戸籍上の親子関係はありませんでしたが、生活をともにした時期には継母のような役割をしていました。
また、千代と暮らした子どもとして北原ミキの名前も挙げられることがあります。ただし、具体的な続柄や同居の経緯については、今回確認できた資料だけでは詳しく説明できません。

秘書・藤江淳子は娘のような存在

宇野千代が晩年に娘のように大切にしていたのが、秘書の藤江淳子(ふじえあつこ、1929~2023年)です。
藤江は1958年(昭和33年)、当時の夫・北原武夫との縁で千代のもとにやって来ました。
その後、藤江は秘書として原稿や仕事の世話をするだけでなく、日常生活でも千代を支えるようになります。
千代は藤江を「あっちゃん」と呼んでいました。長年一緒に生活し、娘のようにかわいがっていたそうです。
宇野千代は著書『人生学校』で、実の子どもには恵まれなかったものの、実の子以上と思える娘に恵まれたと語り、秘書の淳子を紹介しています。
藤江は千代が1996年に亡くなった際には喪主を務め、その後は株式会社宇野千代の代表を務めました。
宇野千代の着物や作品に関する仕事は、千代が亡くなった後も続けられています。

宇野千代自身も継母に育てられた

宇野千代の家族について、もう一つ紹介しておきたいことがあります。
千代は幼いころに実母トモを亡くし、父が再婚した継母リュウに育てられました。
リュウは千代と12歳ほどしか違わない若い女性でしたが、千代を実の娘と同じように大切にしたそうです。
その後、リュウと父の間には4人の弟と1人の妹が生まれました。千代は長女として幼い弟妹の面倒をよく見ていたと伝えられています。
千代自身が幼いころから、血のつながらない母に育てられ、弟妹の世話をしていたのですね。

朝ドラ『ブラッサム』の珠の妊娠と史実の違い

珠は保の子どもを妊娠して結婚

朝ドラ『ブラッサム』第25回では、葉野珠(石橋静河)が木村保(金子大地)との子どもを妊娠したことが分かりました。
保はまだ帝大に通う学生で、珠もレストランで働きながら小説を書いていました。二人は妊娠を喜び、結婚します。
そんな二人のもとへ、札幌に住む親戚の木村正吾が訪ねてきました。正吾は出産費用や生活費の援助を申し出て、北海道で暮らすことを勧めます。

珠は流産し、保は帝大を中退して北海道へ

ところが、珠はお腹の子どもを流産してしまいます。生まれてくる赤ちゃんを楽しみにしていた二人にとって、悲しい出来事でした。

その後、保は帝大を中退。そして北海道で一からやり直すことを決意し、珠と二人で北海道へ向かいました。

史実の宇野千代も親戚の援助で北海道へ移った

史実でも宇野千代と藤村忠が北海道へ移るきっかけを作った親戚がいました。北海道で暮らしていた中津井高助です。

1920年(大正9年)、忠が東京帝国大学を卒業する前に、中津井が東京の二人を訪ねてきました。中津井は忠に卒業後は北海道へ来るよう勧め、まとまったお金を置いていきました。

千代たちはそのお金で借金を返し、札幌への旅費も用意できました。
忠は帝大を卒業後の北海道拓殖銀行に就職しました。ドラマでは保が帝大を中退していますが、史実の忠は卒業して銀行員になっています。

ドラマの流産は史実でもあった?

史実の宇野千代も、藤村忠との間に何度も子どもを授かり、赤ちゃんを亡くす経験をしています。

宇野千代は後年、瀬戸内寂聴との対談で、藤村忠との間にできた6人の子どもを亡くしたと語っています。そのうち1人は生きて生まれましたが、間もなく亡くなったと伝えられています。

ただし、千代がいつ妊娠していつ流産したのかは分かっていません。北海道へ移る前に流産したのか、札幌で暮らしていたころにも妊娠したのかははっきりとはわかりませんでした。

千代が何度も子どもを亡くしたことは史実ですが、ドラマで描かれた流産の時期や北海道へ向かうまでの出来事は史実と同じわけではないようですね。

まとめ

宇野千代には、大人になるまで育った実の子どもはいませんでした。
ただし、2番目の夫・藤村忠との間に何度も妊娠し、赤ちゃんを亡くした経験があります。
瀬戸内寂聴との対談では6人の子どもを亡くしたと話しており、少なくとも1人は生きて生まれましたが、間もなく亡くなったと伝えられています。
妊娠や出産が何年にあったのか、個々の子どもがどのような経緯で亡くなったのかについては、まだ不明な点が残っています。

一方、宇野千代は後年、東郷青児の息子と一緒に暮らし、晩年には長年秘書を務めた藤江淳子を娘のように大切にしました。

朝ドラ『ブラッサム』では、葉野珠が木村保との子どもを授かったところまで放送されています。モデルの宇野千代が実際に経験したことと、これからドラマで描かれる出来事にも注目したいですね。

 

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